2話
全て夢であったらどんなにいいか。
伯爵邸の自室、ヒラヒラした天蓋付きベッドの上で目を開いたマリー=フォルクスは、しばしの茫然自失を経てそう思った。
「お嬢様、お目覚めになられましたか。よかった…」
横でずっと待機していたらしい若い侍女が、そう安堵の溜息を吐き、状態を確認するように上半身をソッと起こしてくれた。そして、クッションで体勢を整えてから、いそいそと水差しを取り上げる。
ショックと貧血で卒倒した主人の目覚めに、気付けの冷たい水を1杯とは、マリーの侍女は優秀だ。
しかし、今のマリーは気付けなど求めていない。
「目覚め?いいえ、違うわ。わたくしは目を開いただけよ。この悪夢から目覚めてはいないわ。そうだ、もう一度気を失うから、貴方はそこの水差しでわたくしの頭を殴ってちょうだい。物の本に書いてあったのを読んだ記憶があるの。鈍器で頭を殴れば悪夢を終わらせられるって。
さぁ、やってちょうだい、ニア!」
衝動的にベッドの上で叫び、祈るように両手を組み合わせてギュッと翡翠色の目を閉じる。しかし、侍女のニアは黙ったまま、動く気配がない。仕方なく、マリーは再びヤワヤワと目を開いた。
「……何をしているの、ニア」
「マリーお嬢様の気付けには普通の水ごときではダメだったかと思い、工業用アルコール溶液の混合を」
マリー付きの専属侍女ニアは、懐から小さな小瓶を取り出し、これ見よがしにグラスへ垂らそうとしている。
本来、そこは香り高いブランデー等を使うところではないだろうか?などと、ニアに突っ込むのも面倒くさい。
「……貴方、わたくしを亡き者にする気ね」
「そうして欲しいですか?」
「……ダメよ。死は面倒だわ。わたくしはわたくしの為に苦痛の少ない人生を送りたいだけなのよ」
「では、お止め下さい。鈍器で殴るのも苦痛が伴います。まぁ、どんな死にも苦痛が伴うものですけれど」
尊大にのたまうマリーに、如何にも侍女然とした引っ詰め髪のニアは、無表情で首肯する。
「そうね、そうだったわ。わたくしとしたことが、らしくもないわね。小さな頃に貴方からよく薫陶を受けたと言うのにね」
「お忘れ下さい、マリーお嬢様」
半歩下がったニアは、素早く小瓶を懐にしまい、慇懃な態度で深く頭を下げた。それにクスクスと笑って、マリーはコロンとベッドの上で体勢を変えてから肘をつく。令嬢としては失格の格好だが、ニアの前では別に構わないのだ。
「何せ、貴女はわたくしを亡き者にしようとした人間、第一号だものね」
「それはお嬢様、多少、いえ、かなり語弊がございますから!まず、私は第一号……、第一号……ですか?」
きっちりと隙のなかったニアの表情が咄嗟に崩れ、無意識にこちらへ向かって問い返す。マリーはそれを確認してから、ぐっと口角を上げ、芝居がかった仕草で起き上がった。
「ああ、何という悲劇。わたくしはこれから、数多の高位貴族達により蹂躙され、儚く散る運命なのです。望んでもいない夢で、うつし世から疎まれ蔑まれ、そうして平穏は去り、後には栄華という檻が頭上より春雷の如く落ちくる……」
ベッドの上で立ち上がり、オペラ歌手のように歌いつつ、細い両腕を華麗に踊らせ、マリーは羽根の如く軽やかに爪先を地上へ降ろした。
フワリと着せられていたナイトドレスを翻し、誘うように指先を差し出しながらニアに向き直ると、彼女は眉間に深く谷間を刻んで、こちらを見詰めている。
「……つまり、私の与り知らぬうちに、お嬢様が命を狙われるような状況になったと?」
「有り体に言えば、そうね。こんならしくない行いを貴女へ開陳するくらいには、わたくしは危機的状況なのよ」
マリーは溜息を吐きつつ、ポスンとベッドに座り込んだ。すると、ほぼ同じタイミングで、ススッとニアが傍に傅く。
「先ほどのご当主様のお話ですね」
まるで見てきたように、確信に満ちた言葉を紡ぎ、ニアはキラリと褐色の目を光らせた。それに対し、マリーは苦笑交じりに答える。
「ええ、お父様からのお話で、わたくしの婚約者が内々に決まったそうなのだけれど、これがどうにも避けられないお相手らしくて」
まぁ、人払いをしてまで二人きりで親子会議を行ったのだから、最初からただの雑談の訳もないのだが。
「もちろん、伯爵令嬢としての責務は心得ていますし、どのような相手だろうと、平穏無事に暮らせるならば不満などないのだけれど」
マリーにとっては老齢貴族の後妻だろうが、男色貴族のカモフラージュだろうが、己に苦痛のない関係ならば、後はどうにでもなるのだ。
――――――しかし、アレはいけない。
脳裏をよぎる怜悧な眼差しに、ゾワリと皮膚が粟立ち、マリーは己の両腕で自身を抱いた。
嫌な予感がするのだ。今までの人生で感じたこともないほどに、厄介な道へ引きずり込まれる予感が――――――――。
「つまり、幼少のみぎりより自己保身の為にのみ慧眼を発揮するお嬢様が、平穏無事に行かぬと推測するお相手なのですね」
「この件で言えば、慧眼などなくとも、容易に『七難八苦が降り掛かる』と推測出来るお相手なのよ」
勇むように前のめりになるニアに、マリーは両腕を解き、肩を竦めて見せた。
親子会議での、父ジル=フォルクスの反応を見るに、マリーは数回覗っただけのシュバルツ=フォン=ハーゲルンゼと、深い縁が結ばれたと邪推されているらしい。しかも、それはジルだけでなく、恐らくこの縁談を打診した皇帝もが、そう思わされている。
「もちろん、公式発表はまだだし、暫くは内部で留保されるでしょう。しかし、実質的にはあちらが打診した時点で確定され、こういった決定は覆らぬものなのよ」
皇帝からの直々の打診を断れる存在は、この国には神しかいない。仮に、聖女や教皇であっても、皇帝からの要求を却ける事は容易ではないのだ。況んや、一応高位貴族とはいえ、一介の伯爵令嬢マリー=フォルクスにおいてをやである。
己の現状に、徐々に冷たい諦観が足元から這い上がってくるのを感じ、マリーは浸される絶望を退けようと心の内で藻掻いていた。
「……これが夜の夢であったならば、どんなに」
そう、無意識に呟いたマリーに対し、深く深く息を吸い込むと、ニアはズズズィッと鼻息荒く身を寄せてきた。
「お嬢様、私でお役に立てる事はございませんか」
「えっと、ニア。まさかと思うけど、今まさに自分の出番が来たと張り切ってる訳じゃないわよね?」
フンスフンスと鼻息の荒いニアを押しとどめながら、マリーがようよう問うと、相手は普段の無表情が嘘のようにニッコリと良い笑顔を浮かべた。
あら、カワイイ。普段もこのくらい笑えば、若い従僕にモテモテなのに。
「あの日、お嬢様は仰りました。『ニアを役立てる時が来たら、ちゃんとわたくし自身が命じるわ。それまではニアの命はこのマリー=フォルクスが預かるから、きちんと侍女をやりなさい。ずっと傍を離れなければ、わたくしの言動が嘘じゃないか見張れるでしょう?裏切られる事が怖いなら、信じる必要なんてないわ。信じないで最初から監視すればいいのよ。簡単じゃない?』と」
「……よく覚えてるわね、全く」
目の前の、薄い茶色の髪を引っ詰め、フォルクス家の侍女服を従順に着こなすニアが、元々は隣国の暗殺組織からの脱走者だとは、今更誰も思うまい。
「一言一句違えたりしません。生きるために具体的方法を教えてくださり、怖がりの私を救って下さったのはお嬢様だけでしたから」
「怖がりねぇ……」
ベッドの上でニアにピタリとくっつかれながら、マリーは首を傾げる。
どうやらニアにとっては、あの日のマリーはキラキラ光る星のような映像として記憶されているらしいが、実際はかなり違っている。
そもそも、マリーがニアの正体を知ったのは不可抗力という名の偶然であり、その場凌ぎの発言内容もひたすら自己保身の為で、ニアがどうなろうと知ったこっちゃなかった。
あの時、結果的にニアがその気になったので、彼女を自分の専属侍女にせざるを得なかっただけだ。
「具体的方法というか、消極的処世術というか……」
ブツブツ口の中で呟くマリーに、ニアはグリグリと頭を寄せてくる。今、スラリと背の高いニアに、比較的小柄なマリーはヌイグルミのように抱き締められているが、まるで大型犬に懐かれた時のような状況に、マリーは深い溜息を吐いた。
最初は栄養失調のガリガリ貧相だったニアが、フォルクス家の食事でエネルギー満ち満ち、マリーの背丈を追い越してから、年に一度くらいの頻度でこういう仕草をしてくる。どうやら、普段は無表情のニアが自分に甘えているらしいと気付いたのは、出会ってから数年後だったが、別に嬉しくはない。
「お嬢様のお望みを叶えるのが私の生きる意味です」
そのまま、マリーをぎゅうぎゅう腕の中に閉じ込めながら、恐ろしい事をニアは宣言してきた。
ああ、やめてほしい。頗る面倒くさいわ。
「他者を生きる意味にするなど、お止めなさい。そういう心積もりなら、わたくしは貴女へ命令などしないわ」
そう、素気なく返すマリーに驚くでもなく、ニアは満足げに口角を上げた。まるで返される内容を予期していたかのように、彼女は褐色の瞳を輝かせて首肯する。
「マリーお嬢様ならば、そう仰ると思っておりました。お嬢様のお望みは面倒くさくない平穏な生涯を送ること、私の望みはそのお嬢様のお側に出来るだけ長く仕えること。心配なさらずとも、お嬢様と私の利害は一致しております」
子供のようにニコニコしながら、フンスフンスと鼻息荒くニアはそう宣った。
そうなのだ。彼女は元より、マリーの怠惰かつ腹黒かつ面倒くさがりな実態を知っている。いや、知っていて、更に執着心を燃やしているのだから、尚のこと質が悪い。
もしかしたら、厄介さではシュバルツ=フォン=ハーゲルンゼとどっこいどっこいかもしれない。
「利害関係ね……。まぁ、相手側の狙いが分かれば、もしかしたら逃れるすべはあるかも知れないわ。ああ、もうっ、……嫌だけど、貴女に頼むしかないのよね……。今回はお父様にも頼れないし……」
10年近く傍に置き、今更ながら度し難さに気付いたところで、最早どうしようもないのだが、マリーは頭を抱えて葛藤してから、漸く顔をニアへ向けた。
「利害関係が一致しているなら、調べてくれないかしら。その人、面倒くさい相手だから、名を口にすれば貴女も引き返せない状況になるのだけれど、構わないの?」
「今更愚問です、お嬢様。私は私の為にお嬢様と共に在りたいのですから」
無邪気と表現してもいいくらいの笑顔でニアはそう応えたが、次の瞬間にはスンッといつもの無表情に戻っていた。ただ、マリーを抱き締めていた腕だけは、名残惜しげにゆるゆると離れていった。
「では、宜しくお願いね。シュバルツ=フォン=ハーゲルンゼ殿下が、わたくしを婚約者にと望んだらしくて困っているの。宵の約を交わしたとまで匂わせて、何が狙いか調べてちょうだい。わたくし自身の記憶では、数回挨拶した程度の関わりでしかないのよ。何か裏があるはずだわ。出来るだけ早く情報が欲しいの」
ニアへ淀みなく伝達しながら、我ながら感心するほどにシュバルツへの興味が沸かないなと思う。
もちろん、今回の件に関しては死活問題なので知りたくて堪らないが、彼に対し他の令嬢達のような感情は一切ないのだ。
「わたくしって、やはり何か欠けているのよね」
「お嬢様は完璧です!」
反射運動のように答えてから、ニアが足音も立てずに部屋から下がる。それを見送りつつ、マリーはボフンッとベッドに身を投げ出した。
「あーあ、本当に面倒くさい」
そう、翡翠色の瞳を閉じて呟くマリーには、厭う未来のせいで己の声さえも虚しく響いたのだった。
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前回から暫く間があいてしまいました。次回は22日の予定で更新します。