いつかの話*
推奨:第二部読了後
時間軸:第二部「帰還」中
エウラリカ/カナン/アニナ
ハルジェル領の北端に位置する山脈を越えれば、その先は帝都圏だ。南方連合からエウラリカを連れて帰還する行程も、終盤に差し掛かっていた。
しかし、今しがた街道の道半ばですれ違った数人のことが、エウラリカはやけに気になって仕方ないらしい。
「妙だわ。ほとんど荷物を持たずに、あんな軽装で、徒歩で、しかもまだ小さな子どもを連れて、どこへ行こうって言うの?」
馬車の窓から外を見るのが趣味なのは結構だが、この凝り性には少し参ってしまう。
「もうすぐで久しぶりの帝都ですよ。別に山歩きが趣味の家族連れがいようがどうでも良いじゃないですか」
「山歩き?」
呆れ混じりに窘めたはずが、何故かエウラリカが心底驚いたように目を丸くする。ぱちぱちと数度瞬きをして、「なるほど」と呟く。その瞳が見るまに輝いていくのを眺めながら、カナンは内心でしくじったと思っていた。
***
「ああ、ピクニック客! さっきすれ違いましたよね」
「ピクニック……!」
アニナの何気ない言葉に、エウラリカが明らかに興味を示す。そのままの勢いでこちらを振り返り、言外に寄り道を要求してくるので、カナンは取ってつけたように渋い顔になった。
「カナン」
こうと決めたエウラリカは譲らない。梃子でも転でも動かない。じっと見てくるエウラリカと視線を合わさないようにするが、やがて限界が訪れた。
「……この辺りで、人が少なくて見晴らしの良い場所はあるか」
「はい、コルエル家の別荘が近くに!」
仕方なく問うと、待ち構えていたようにアニナが手を挙げる。そういう訳で、一行は針路をやや逸れることとなった。
***
風の吹き抜ける開けた山の中腹で、エウラリカが小さな歓声を上げる。柵のある崖際まで転げるように駆け寄ると、急勾配で谷底まで続く斜面を見下ろした。
そういえば、エウラリカはこうした山地の景色にも馴染みがないのだと、改めて気付かされる。ジェスタの都は山麓の扇状地に築かれている。こんな景色もさして物珍しくないが、エウラリカがはしゃいでいるのは良いことだった。
「見て、下の方に川がある」
振り返って手招きしてくる彼女に微笑んで、カナンは「はい」と小走りで歩み出た。
どうやら近くに村か何かがあるらしく、少ししてアニナが香ばしい匂いのする籠を下げて歩いてきた。見れば、丸々と太った川魚である。
「魚が捕れるのね」とエウラリカは谷川を覗き込む。沢に下りたいと言われたら何と言って説得しようかと考えてしまったが、流石にやめておいたらしい。
日は出ているが、決して暑くない気候である。野外でのんびりと昼食を摂りながら、エウラリカが思わずといったように呟いた。
「私、いつか海に行ってみたいわ」
「俺も、小さな頃に一度だけ連れて行かれただけで記憶がないです」
「人の身の丈を超えるような、大きな魚が泳いでいるんでしょう?」
「海岸から見えるかは分かりませんが……」
魚を食べたから連想で海が出てきたのだろう。他にも、と弾む口調でいくつかの地名を挙げてから、彼女はふと寂しげな表情になった。
「……私って、何も知らないのね。実際に帝都を出て生活して、痛感した」
目を伏せて苦く笑うエウラリカに、カナンはつと言葉を失った。彼女はすぐにぱっと表情を明るくすると、「仕方ないことよね」と物わかりの良い言葉を口にする。
「――どこにだって、行きましょうよ」
普段なら存在するはずの照れや熟慮を飛び越して、そんな一言がこぼれ落ちた。エウラリカは一瞬目を丸くして、それから目元を和らげて破顔した。
「そうね」と、彼女が小首を傾げる。
「連れていってくれるの?」
机の上に重ねて置かれている彼女の両手を見下ろして、カナンは一度うなずいた。
「あなたが望んでくれるなら、どこまででも」
切り揃えられた丸い爪が、淡い桃色を帯びている。花弁のように鮮やかな黄色をした蝶が、音もなく視界の端を横切った。
「あ」と嬉しそうな声を漏らして、エウラリカが片腕をすいと持ち上げる。結局それ以上は近づいてこなかった蝶を見送って、彼女は眩しげに目を細めた。
清涼な微風の中に差し伸べられた指先が、陽の光を浴びて静かに輝いている。
(初出:2021/8/28)