fiel 下**
推奨:「fiel 上」読了
時間軸:第二部開始前(fiel上)の前後
サハリィ当主/フィエル
手を見れば、その人となりが分かる。
妻は美しい手をしていた。ほんの少しだけ離れぎみの両目を気にしていた彼女は、自分の顔には自信がなかったらしい。彼女が自身の体で最も愛情を注いでいるのが手指であった。きめ細やかな肌は滑らかで、僅かに筋の陰影が浮かぶ手の甲に何度目を奪われたか分からない。ほっそりとした指や丸い爪は、彼女が紛れもない姫君であることを何より如実に表していた。
だから彼女を妻として迎え入れたとき、この手が荒れずに済むような生活をさせてやろうと決意したものである。何一つ不自由はさせない、と。
同様の愛情を、幼い娘にも向けていた。子どもらしくむっちりと柔らかな両手は指先で包みこめてしまうほどに小さかった。十指の先を彩る桃色の爪は、笑ってしまうくらいに可愛らしかった。
手を見るだけでわかる。自負もある。
あの頃確かに、彼女たちは幸福だった。
***
目の前にいる女の手を凝視して、彼は眉をひそめて黙り込んだ。
(……この女は、何者だ?)
水仕事や力仕事を日常的に行なっていた様子はない。抜けるように白く、血の色が透けて見える肌は、どう見たって帝国の流れを汲む血筋の人間のそれである。荒れていない肌を見れば、彼女がそれなりの地位にいた令嬢であると予想できる。
問題は、彼女の指の付け根に見られる剣だこと、手のひらを横切る傷跡であった。傷跡は何か刃物で切った形跡だ。両者を見比べて思い浮かぶのは、剣戟のさなか、片手で刃を握り込む姿である。
(普通の令嬢が、そんな荒事に巻き込まれるはずがない)
記憶がない、と語る彼女は、それでは一体、かつて何者だったというのだろう?
「わ、わたし……」
訛りのない帝国語で、女が途方に暮れたようにこちらを見上げる。くたびれた衣裳や乱れた髪に目が行きがちだが、よく見てみれば随分と整った顔だった。砂漠をあてどなく彷徨っている彼女を見つけてきた行商人が、反応を窺うようにこちらを注視している。娼館に売るのは惜しい、という言葉の意味はよく分かる。そこいらの村で一生を終えるべき存在ではないことも。
「行く場所が、なくて」
不安げに瞳を揺らし、彼女は奇妙な様相を示す両手をぎゅっと握りしめた。
「何でもします、だから、ここに置いていただけませんか」
そう語る彼女の髪は長い金髪で、自然と思い出されるのは『娘』の姿であった。今も幸福を享受しているであろう彼女と、目の前の女は同年代である。そして、娘よりも美しく、切羽詰まって凄絶な目をしている。
「ああ、良いな」
つい、呟いていた。「と、言いますと?」と行商人が水を向ける。彼は片手で顎を撫で、連れてこられた女をまじまじと見た。
「良いでしょう。この娘は私が引き取ります」
答えると、行商人が目に見えてほっとした顔になる。
「良かった、当主様のところなら安心でさぁ」
「責任を持って、きちんと扱うつもりです。……フィエルと同じくらいに」
「お嬢様と!? それはそれは……。ほら、お前もお礼を言いなさい」
何とお優しい、と感動しながら帰っていった行商人を見送って、それから彼は部屋の隅で小さくなっている女を振り返った。怯えた獣のような立ち姿であった。警戒心を隠そうともせずにこちらを見据える表情は、阿呆のそれではない。
「あ……ありがとう、ございます」
たどたどしく告げて、おずおずと彼女が口角を持ち上げる。ぎこちない笑顔を浮かべた女を一瞥して、彼は踵を返した。
「ついてきなさい。……娘に会わせよう」
はい、と頷いた彼女の目は、深い青色をしていた。
***
激昂して部屋を飛び出していったフィエルの足音が遠ざかる。役に立つやもしれぬと手元に置いていた娘だったが、どうやら甘やかしすぎたようだ。しかし、利用価値はある。
「フィエル」
穏やかな声で『娘』の名を呼ぶと、彼女は息を呑んでこちらを振り返った。その目に浮かんでいるのは怯えか、憎悪か。どちらでも良い、と視線を受け止める。
「お前が逃げたら、あれがどうなるか、分かるね」
そっと背に手を添えて、優しく囁いた。二人が親しくしている様子はずっと観察してきた。この娘は、恐らく彼女を見捨てられないだろう。聡い『フィエル』は、それが暗に人質を示す言葉だとすぐに理解したらしい。こちらを見据える双眸に、一瞬だけ火がついたような怒りが閃くが、あっという間に無力感が覆う。
「行き場のないお前を拾ってやったのは誰なのか、しっかりと覚えていることだ。その大恩をサハリィ家に返せる、またとない好機だろう?」
奴を殺せ、と。
低く吐き捨てた声を、彼女は黙って聞いていた。物言いたげな視線が向けられる。促すと、彼女は低い声で呟いた。
「それは、私の恩返しとは呼ばないのではないですか」
こちらの言葉では何と言うのか分からない、と前置いてから彼女が漏らした単語に、彼は静かに微笑んだ。
「それはただの、あなたの――」
***
必死に抗ったのだろう。その爪は半ば剥がれて血が滲み、指先は惨たらしく擦り切れて皮膚がめくれている。美しく整えられていた手は見る影もなく、いつも温かくやわらかかった小さな両手も、微動だにしない。
瓦礫の下から引き出された一対の亡骸を前に、彼は跪いて二人の手を取った。冷たい手であった。
手に触れれば分かる。全部分かる。二人がどんな思いで逝ったのか。一体どれほど自分を呼んだのか。どれだけ恐ろしかったことか。
手を見なくても分かる。自分は間に合わなかった。火を見るより明らかだ。
手を見れば分かる。分かるのだ。
血と煤に汚れた自らの両手を見下ろして、彼は浅く息をしていた。
そんなことで故人は喜ばない。前を向け。古今東西で言い習わされてきた文言を何度繰り返されようと、それは自分には響かないのだろう。
自分はきっと、復讐という道を自ら選ぶだろう。
手を見れば分かる。十指はいつだって正直だ。