9話『ほだされた男』
先生になれって?
何かの聞き間違えだろうか。幻聴?
いやいやいや。
こんなはっきりした幻聴があってたまるか。
天使。神。次は先生?
と言うかこの人、急に元気になったな。
まだ薬も飲んでないってのに。
「おっ、落ち着いてください! ととと、とりあえず座って」
冷静に諭すはずが、やたらとどもってしまった。
落ち着くべきなのは僕の方かもしれない。
自分から触るのと、向こうから触られるのではだいぶ違って、何だかそわそわする。
だから、近い。近いんだよ。
この…………、二枚目が!
……くそぉ。
相手の顔面偏差値が高すぎて上手く罵れない。
「あの、て、手を……離してくれません?」
「ん? ああ。悪い」
全く悪びれた様子は無いが、佐藤さんは大人しくソファーに座ってくれた。
手が解放されたことにホッとしつつ、続いて、彼の隣に座る。
二人掛けなので会話するにはやや狭いが、フローリングやマットレスに座るよりは良いだろう。
そう、自分から近付く分にはかまわないのだ。
「で、えっと……。先生って何のことですか?」
「森園くんに教えて欲しいんだ。色々と」
「……い、色々?」
「料理とか、家事とか。俺、一人だとなんもやる気起きなくて。仕事して、帰って、適当に何か食べて。その繰り返しでさ」
淡々とした語り口で。
淡々とした表情で。
物の少ないこの部屋のように、味気無い彼の日常を想う。
一人暮らしの社会人って、皆こんな感じなのかな。
それとも、彼が特別?
僕には分からない。
けれど……。
「少し、変わりたいって思ったんだ。他人に手を差し伸べる君があんまり格好良かったから。俺もちゃんとしたいって」
ちょっ、ちょっと待て。
ちょっと待てよ。
今までになく饒舌な佐藤さんを慌てて制止する。
「かっ、格好良い? って、僕がですか?」
「ああ、格好良い。森園くんが」
即答されて、何だか頭がくらくらしてきた。
女子力男子などと揶揄されることはあっても、格好良いだなんて言われたことは一度も無い。
手を差し伸べるって言ったって、正直大したことはしてないし……。
「か、買い被り過ぎですよ。 僕は別に、聖人君子でも無いし……」
「君が良いんだ」
……ジーザス。
ここに来て、彼が初めて笑みを見せた。
柔らかい、穏やかな笑顔。
おまけにまた両手を包み込まれている。
少女漫画ならきっと花や星が飛んで、甘酸っぱい恋が始まっているに違いない。
構図だけ見ればまるでプロポーズだ。
「俺の先生になってくれ」
「……っ」
一応、自分自身に弁明しておく。
僕にそんなつもりは一切無い。
愛だの恋だの、そう言った感情も無い。
彼の眩しい笑顔にほだされた訳では、決して無い。
「……ぼっ、僕で、よろしければ」
ただ、起伏の無い日々を一人で過ごす寂しさを、僕は知ってしまっているから。
ただ、それだけなのだ。