1話『治った男』
買い物袋をガサガサと鳴らしながら、細い通路を突き当たった一番奥にある扉へ向かう。
手には銀色の小さな鍵。
それを差して回すと、小気味良い解錠音と共に部屋の中から人の気配を感じた。
「いらっしゃい」
扉を開くと美青年。
形の良い唇が一瞬ふわりと弧を描き、昨日教えたばかりの僕の名前を形作る。
「利一くん」
僕が何か言う前に、佐藤さんの指が流れるような動作で買い物袋を奪っていった。
「……お邪魔します」
「外暑かったろ?」
「いえ、大丈夫です」
シャワーを浴びたばかりなのか、彼の湿った髪から雫が跳ねて何やら爽やかな香りがする。
この人はホントに。
いちいち心臓に悪いというか何というか。
少女漫画ばりのワンシーンに内心面食らいつつ、それでも咄嗟に平静を装うことに成功した僕は中々凄いと思う。
「どうぞ、早く入って」
「はい。あの、だいぶ体調良さそうで安心しました」
「ああ、おかげさまで。もう大丈夫」
相変わらず佐藤さんの表情は分かりにくいけれど、顔色もずっと良くて美男子度数の上昇が止まらない。
そして何より、飼い犬並みの素早さで出迎えてくれた姿に思わず頬が緩む。
「それにしても耳が良いんすね。寝てるかもと思って、チャイムも鳴らさなかったのに」
「利一くん、時間通りに来るだろうと思って。待ってた」
「……な、なるほど」
……そんなに待つなよ。
ホントに犬かよ。
なんて言葉は飲み込んで、室内へ上がらせてもらう。
「え、えっと、じゃあ佐藤さん。今日は昼食の支度から始めてみましょうか」
「……名前呼びで良いって言ったのに」
「まだちょっと緊張するので。それはまた、追々……」
昨日の夕方に様子を見に来た時には体調もいくらか良くなっていて、僕達は改めて自己紹介をした。
彼の名前は佐藤依。
若そうだなぁとは思っていたがまさかの二十一歳。
施設育ちで十代から働いているらしい。
仕事は製造業のオペレーターで、異動があって今年の四月にこのアパートへ越してきたとか何とか。
そして、今日で夏季休暇三日目だ。
「緊張? 利一くんは俺の先生だろ? 遠慮はいらない」
いや、遠慮とかでは無いんだけども。
この人はどうも距離を詰めるのがやたらと早いタイプのようだ。
施設育ちだとかって言うのも、普通はもっと時間を共有してから知るような情報だと思うのだが、佐藤さんは歳を言うのと同じ温度でさらりと話した。