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シミシャツ

作者: はじ


 Yシャツにシミがついた。

 コーヒーのシミだ。

 マグカップを口に傾けたときに背後から肩を叩かれ、その拍子に溢してしまったのだ。

 幸いにも淹れてから時間が経っていた。熱湯とは言いがたい温度だったので火傷を負うことはなく、濡れた箇所の生ぬるさに多少の不快感を覚えはしたが、慌てることも騒ぐこともせず、右腹から裾にかけて広がっていく褐色に目を凝らす。

 コーヒーの直撃した部分がもっとも色合いが濃く、その濃淡は同心円のように段階的に分かれていて、外側に向かうにつれ薄くなっている。まるで水面をつたう波紋みたいだ、とそう思ったからだろう



 小さな

   池に、

 

  一匹の いき生物もの が、、

              跳び、、、

               込んだ、、、、



 その場景が不意に頭をよぎり、生物が入水したときの吸いつくような音、窪んだ水面から弾ける王冠状の飛沫、水面を静かに伝っていく波が年輪のように時間をかけて遠ざかっていく様子が続けざまに脳裏を走り、反響する水音が徐々に空間を制し、体内に残る余韻は幻影や空想、錯覚と断じることができないほど現実よりも現実に密接した体験として感覚に残り、見下ろすシミよりもはるかに意識を引きつけ、その場面を追いかけることに、とらわれてしまった。



 幾重の輪を崩す さざなみ

 抵抗もなく池水になじみ

 もとの静けさ 取りもどす

 池 土まじり

 でいだく

 いきもの すがた 見えず

 前のめり のぞき込む

 目の端で 影 とらえる

 眠そうな目

 大きなくち

 水かき

 緑

 カエル

 カエル

 カエルは

 身丈の潜水をおえ

 ぶくぶくと

 泡を吐きながら

 引き返して浮上する

 水上に現れたカエルを

 少年が見ている

 カエルも

 少年を見ていた

 少年が着たTシャツを

 見ていた

 薄緑色のTシャツには

 ケロケロケロッピーが

 プリントされている

 カエルが好きで好きでたまらなくて

 そのTシャツだけを着ている

 雨の日も、

 風の日も、

 大雨のあとに風邪をひいた日も、

 汗まみれの猛暑日も、

 吹雪で交通網が停止した日も、

 そのTシャツ一枚を身にまとい、全速力で登校し、大はしゃぎで授業を受け、狂ったように給食を食べ、元気はつらつと下校し、奇声を上げて遊び、疲れたら屋外であろうとその場で寝てしまうような日々を送っている。

 そんな激しい生活にTシャツは当然耐えきれなくてすぐに傷む。襟は欠伸をするカバのように弛み、所々にほつれ、すり切れ、小さな穴、汗や雨や泥水、その他諸々のシミ、プリントされたケロッピーは剥げ落ちて、腐乱した緑色の化け物に変貌している。それでもそのTシャツだけを着ている。着続けている。

 毎日同じシャツで登校してくるものだから友達から冷やかされたが、どうせ大人になればYシャツしか着ないのだからと取り立てて気にしない。しかし、ケロッピーをバカにされたときはブチ切れる。普段の飄々とした調子を一切なくし、ガタガタと震えながら感情を高ぶらせ、暴発寸前のその痙攣をすべて拳に握りしめて、

 同級生、

 下級生、

 上級生、

 中学生、

 高校生、

 大学生、

 社会人、

 老人、

 たちを、

 容赦も躊躇いもなく微塵の情けもかけることなく、

 徹底的に、

 怒りまかせに、

 場所も時間も関係なしに、

 教室、

 校庭、

 授業中、

 体育館、

 朝礼中、

 職員室、

 説教中、

 廊下、

 渡廊下、

 逃亡中、

 音楽室、

 図書室、

 屋上、

 プール、

 潜伏中、

 放課後、

 道端、

 商店街、

 マクドナルド、

 飲食中、

 ゲームセンター、

 対戦中、

 老人ホーム、

 談笑中、

 公園、

 砂場、

 滑り台、

 公衆トイレ、

 排尿中、

 裏路地、

 徘徊中、

 歓楽街、

 居酒屋、

 客引中、

 ラブホテル、

 性交中、

 ビルディング、ビルディング、

 残業中でも拳を振り上げて殴りかかる。

 殴られた相手も激怒し、必ずつかみ合いの喧嘩になる。相手は脇目も振らずケロッピーを狙ってくる。ケロッピーを守りながら相手の拳を懸命にかわし、反撃し、かわされ、反撃され、ケロッピーを守るために丸まって猛攻をしのぐ。

 そんな思い出が数え切れないほどあり、

 Tシャツとの別れに前兆などなかった。

 それは卒業式の当日、その日もケロッピーのTシャツを着て行こうとし、さすがに親に止められた。が、その制止を振り切って強引に着て行った。笑った生徒や保護者、担任、校長、PTA、教育委員会の関係者を片っ端から殴り、殴られているうちに閉式し、帰り道、やたらと強い風が引ったくりの速度で背後から忍び寄り、式中の乱闘でぼろぼろの布きれに成り果てていたTシャツを、あっという間に吹き飛ばしていった。

 凧のようにはためきながら空へと昇っていく様子をただただ見つめるばかりのぼくは、裸になった上半身に肌寒さ以上の悲しさを感じていた。うっ、うっ、とおえつをこぼしながら上空のTシャツを見上げ、涙のにじむ目を細めた。はたはたと波打つシャツにいるケロッピーの表情は、何だか泣いているようにも見えたのだ。

 ケロッピーを救えなかったぼくにはもう身に着ける資格はないと、硬い制服を身にまとい、ギクシャクとしている間に中学、高校と段階を踏み、大学生になって服装の自由を与えられてもケロッピーに顔向けできず、卒業して食品商社に勤めると、後ろ暗さを隠すため急いでスーツを着込んだ。それから七年の月日が経ち、肩を叩かれたので後ろを振り返えると、背後にケロッピーが立っていた。

 いや、そこにいたのは、ケロッピーのような顔をした後輩だった。

 長いまつげにぱちりとした二重、そして大きな目、その間隔は他の人よりも少しばかり距離を取っている。それを恥ずかしがるように頰はほんのりと赤みを帯び、口角が上がっているからか真顔でも微笑んで見えた。しかし、その下地となる顔色が良くないので健康的とは言えず、病人が無理をして笑みを浮かべているかのような痛々しさがあったが後輩自身はいたって健康体で、動作はいつも手際よく、返答の際の歯切れもよい。体格だって申し分なくて筋肉質でキレキレだ。だからこそ病的な容貌とのズレが妙なおかしさを生み出していた。

 他の社員もそう感じていたようだった。表立って笑いはしないが、給湯室や喫煙所、屋上、駐車場で話題に上げ、くすくすと笑い声を忍ばせ、その不一致を笑っていた。

 後輩がケロッピーになったのは新入社員の歓迎会だった。ぼくは居酒屋の座敷席の片隅でその場面を眺めていた。ケロッピーの名前が飛び出した瞬間、消息を絶った友人の姿を街中で見掛けたかのような動揺におそわれ、それを隠すようにしてウーロン茶のグラスに口をつけたが、震える手が流し込んだはずの液体をほとんどシャツに溢していた。それを拭こうともせず、その現場を注視していた。あだ名をつけられた後輩は一瞬だけ嫌な顔をしたが、それを表明することもできず居心地悪そうに笑っていた。笑い続けていた。

 それから後輩はケロッピーと呼ばれるようになり、くすくす、呼ばれる度に動作はぎこちなくなり、くすくす、歯切れも悪くなり、くすくす、筋肉はしぼんでいき、くすくす、ぼくは狼狽してコーヒーを溢していた。

 突然立ち上がったからか、後輩はぼくが怒っているのだと勘違いして真っ先に「ごめんなさい!」と謝った。ぼくはマグカップに半分ほど残ったコーヒーを一度すすってから、それをゆっくりとデスクに置き、両手を左右に軽く広げ、そのまま抱きすくめるようにして後輩を抱え込みその耳元で「だいじょうぶだァ、こんどこそォ、まもってやるからなァ」と小声で囁きながら壁際へと押していき、他の社員がくすくすと見守るなか、「え、ちょっと、何ですか?」と戸惑いながら抵抗する後輩に「だいじょうぶだァ、こんどこそォ、まもってやるからなァ」と繰り返し繰り返し囁き続け、聞かされ続けて飼い犬のように大人しくなった後輩を壁際にまっすぐ立たせ、その顔をスマホで撮影するやいなやパソコンに向かい、オリジナルTシャツを作製できるサイトで後輩の顔写真をプリントしたTシャツを注文した。

 三日後、届いたシャツを着て出社した。それを見て彼が笑ったのでその顔を殴りつけた。反撃が飛んでくると思って身構えたが、喧嘩には発展しなかった。彼は殴られた頰を押さえながらぼくのTシャツを睨みつけ、よろよろと部屋から出て行った。

 彼はその足で会社のビルから飛び降りた。

 といっても四階建てなので片足を骨折しただけだった。近くの病院に入院した彼はそれっきり会社には戻ってこなかった。理由は伏せられたが、社員全員はなんとなく悟っているようで、まるで彼など最初からいなかったかのように徹底して話題に上げなかった。

 コーヒーを一滴残らず飲み終えたぼくは屋上に上がる

 ビルの出入口から少しばかり左に外れた

 僅かに黒ずんで見える場所を見下ろす

 横たわった彼がぼくを見上げていた

 シミのないシャツを見ている

 シャツを見ていた

 見ている

 いた




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