第一章 ―朔― Ⅰ
「まただ……」
わたしは森の入口で何度目かわからない言葉をもらした。まだ夕暮れ前だというのに、魔の森と呼ばれる森の入口から先は深い闇が見えるばかり。早朝から何度も森に入ろうとしているのに、その度見えない何かに阻まれるようで、入って十歩も歩かぬ内に元の入口に戻ってしまう。だけど、諦める訳にはいかない。
そして、再度森に入ろうとしたとき、それは現れた。
濃い灰色の毛並みに黒い瞳の、犬に似たそれは、初めて見たが恐らく狼だと思う。村で聞いていた特徴とそっくりだ。突然現れた狼への恐怖と、どこか神秘的な存在を目の当たりにした興奮とが入り交じったまま固まっていると、頭の中に声が聞こえた。
『人間。この森の王は汝の立ち入りを認めぬ。去ね。』
狼が人間の言葉を話した上、それが頭の中に響いて、わたしは更に目を見開いて固まった。そうこうしている内に狼は森に帰ろうとしてしまい、わたしは慌てた。
「『いね』とはいなくなれということ?いやだ。わたしは魔王に会わなきゃいけないんだ!」
『王は会わぬ。去ね。』
狼は森の中に姿を消した。
◆◆◆◆◆
あれから、何日経っただろう。わたしは繰り返し森に入っては出されていた。それでも諦める訳にいかない。
食糧はとうに尽きた。体力の限界が近づき、ふらふらになりながらも森に入ろうとする。
その時、またあの狼が姿を現した。
『人の子よ。何故去らぬ。幾度繰り返そうとも、汝がここで朽ち果てようとも、王が汝を森に入れることはない。』
「もうずっと日照りが続いて、村では作物が育たない。近くの村もそうだ。どんどん飢え死にして、老人は殺され子どもは捨てられる。前は遠くに売られる子どももいたけど、今では買い取れる人もいない。もう限界なんだ!魔王は天候を操れると聞いた!わたしはそれを教えて欲しい!!」
わたしは想いを叫んだ。どうか聞き届けて。わたしは魔王の力を借りたい。どうしても譲れないんだ。
『村の人間の命令で来たのか。』
「……違う。わたしも捨てられた子どもの一人だ。一緒に捨てられた子は、病にかかり獣に教われて死んだ。友だちだったのに!わたしは何もできなかった……」
そう、わたしは何も出来ないまま、友だちを見殺しにした。病を治してあげることも出来ず、友だちに襲いかかった獣からも逃げたのだ。それは、わたしが捨てられたからと言って許されることではないと思っていた。
「………もう嫌なんだ。わたしはみんなが笑って暮らせる場所をつくりたい。だからお願いだ!魔王に会わせて……!」
泣いて懇願したが、聞き入れられることはなかった。
◆◆◆◆◆
どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れ、木にもたれかかりながら座ってぼんやりしていると、あの狼ではない声が聞こえた。
「いい加減目障りだが、どうしても去る気はないのか。」
それは淡々した男性の声だった。どこから聞こえるのかもわからないまま、わたしは答えた。
「……ない。」
「死ぬぞ?私は構わぬが。」
「……魔王に会えないなら、他にやりたいことはない。」
会話が途切れる。疲れからか、瞼が重たくなってきた。この声の主との会話は重要な気がするのに、身体が言うことをきかない。
そして、また声が聞こえた。
「お前、歳は?」
「十」
「名は?」
「…………サク」
瞬間、声の主が息を飲んだように感じた。何か、おかしなことを言っただろうか?ただ正直に答えたつもりだけど……
僅かな静寂の後、また問い掛けられた。
「………字はどう書く?」
「知らない。わたしは字が書けない。親だった人たちに『サク』と呼ばれていた。それ以外はわからない。」
再び訪れる静寂。わたしの意識はついに限界を迎えた。
意識を離す直前、狼がわたしを背に乗せた気がした。