ビオラ少女と天使
春と言えば花が多い季節だが日本人ならば、ぱっと思いつくのは桜だろう。詳しい人はもっとたくさんの花の名が挙がるのだろうが、オレはさっぱりだ。
とにかく春なのだ。新しい環境、出会いの季節でもある。
オレはというと、そんなものとは無縁だ。学生とはいえ高校三年生。もはや馴染みきった学校で新しいものを挙げるならばそれは、新任の教師くらいだ。これから進路に向けて本格的に動くため、できるだけ環境を変えないようにという配慮からか、クラス替えもなかったから。
見慣れた顔ぶれの新学期。四月も下旬になった。オレはぼんやり外を見る。
桜がまばらに咲き出す頃だ。東北なので桜前線の到達が遅いが、この頃になると景色に薄桃色が混ざりだす。県の南側の一部の桜は、つい先日満開になったらしい。
六時限目のノートに書き写す文字はそっけなく、汚くはないが綺麗でもない。たまに使われる色ペンが、申し訳程度の賑やかしだ。書いた人間の性格がよく出たノートと言える。自分で言うのも何だが。
こういう、何もない日がすぐに終ってくれるのはありがたい。オレは部活動にも所属していないから、放課後になればあとは帰るのみだ。
代わり映えのない街並み。でも春は華やかで、至るところで花が咲いているし、心なしか辺りには甘い花の香りが漂っているようにも思える。
「……ただいま」
玄関先で、誰にともなく呟く。今の時間、両親もまだ帰ってきていない。もっとも、昼夜のサイクルが真逆のオレと両親は、けして不仲ではないが顔を合わせる機会が極端に少ない、少しばかり変わった家族関係を築いている。
「……?」
テーブルの上、受け皿のようなものに置かれた鉢植えが一つ。受け皿はおそらく、注いだ水がこぼれないようにするためなのだろう。小ぶりの鉢には、小さな花がたった一輪だけ植えられていた。
そしてそのそばに、メモ用紙が添えられていた。
『水輝へ
鉢植えの花を同僚にもらいました。なかなか可愛いでしょう。私は忙しいので、あなたが面倒を見てあげてください。 母』
「…………」
言い分はわかったが、せめて世話の仕方くらいは書いておいて欲しかった。
ところでこの花は、何という名前なのだろうか。さして詳しくもないオレには、さっぱりわからなかった。
小さいながら花は二色に分かれていて、上の大きい方の花びらは紫、下の小さめの方は白色だ。
「お前、名前何ていうの?」
自分で問いかけておきながら、馬鹿らしいと思う。花が答えるはずもないのに。
「……ビオラ」
へえ。ビオラっていうのか。確かそんな名前の楽器もあった気がする。でもこの花、帰り道で見た花のどれかに似てるな。案外有名な種類なのかもしれない……。
「って、な……っ!?」
いつのまにか隣に、オレより背の低い少女が立っていた。
「えーと、驚かせてごめんなさい。初めまして、ビオラです」
ちょこんと首をかしげて、その少女は笑顔を浮かべた。肩まである黒髪がふわりと揺れる。オレと同じくらいの年なようだ。
彼女は、悪意があるようには見えない。白に紫の小花が散るデザインのワンピース姿は、テーブルの上の花によく似ていた。つまり一言で形容するなら『可憐』になる。
「その花がビオラで、お前の名前もビオラ?」
「はい。正確に言うなら、その花がビオラって名前だから、わたしもビオラなんです」
急に現れた少女が、すぐそこの花と同じ名を名乗っている。
かなり妄想寄りの、こじつけのようなものだろうが、オレは浮かんだ答えを彼女――ビオラに言ってみることにした。
「お前がこれなの?」
これ、で鉢植えの花を指して聞く。
「はい、そうです! 人の言う……妖精、でしょうか。そのようなものだと思っていただければ」
現実は小説より奇なり。そんな言葉が浮かんで消えた。
「あー、まあいいか。オレもお前の面倒見るの頼まれた身だし」
ぱちぱちまばたきをしたビオラの目は、花と同じ深い紫色だった。
「わたし、ここにいてもいいんですか?」
「ああ。オレは陽之宮水輝。まあ、よろしく」
*
いくら非現実的なことが起ころうと、日常はごく普通に過ぎていく。慣れとは逞しいもので、オレは妖精のようなものなんて存在も二日ほどで受け入れた。実際そこに確かに存在しているものを否定する理由もない。
「おかえりなさい、水輝」
ビオラもあっさり馴染んで、今ではこうして玄関でオレを出迎える。家に帰って誰かが待っているのは、これまでなかっただけに新鮮だった。
「ああ。ただいま」
トートバッグを持ったまま、キッチンへ歩く。通学用のリュックは途中の廊下にどさっと置いた。
「それは?」
「夕飯。あと、親に頼まれたおつかい」
不思議そうに覗き込むビオラに説明する。近づかれると、花独特の淡く甘い香りがしてきた。
夕食の時間には、ビオラもテーブルにつく。
「お前、ほんとにそれだけでいいのか?」
「はい。花ですから、水さえあれば充分です」
一緒にはいるのだが、ビオラの手元にはコップ一杯の水があるだけだ。
オレも何度か聞いてみたが、答えはいつも同じで、水でいいのだそうだ。たまに肥料も欲しがったが。
人の姿をしているものの、ビオラは当然人間ではない。
ちなみに鉢植えの方のビオラは、リビングの窓辺でいつも日を浴びている。
「お前みたいなのって、他にもいたりするのか?」
「いますよ。人には見えないだけで」
「じゃあなんでオレにはお前が見えてるんだよ」
こてんと首をかしげて、ビオラは考える様子を見せた。こうした仕草などは人らしいといえる。花屋で見てきたのだと後で聞いた。
「波長が合ったんですかね……」
自信なさげに答える。
「あ、でも、それはないですよね。わたしみたいなのが水輝と似てるなんて、そんなこと……」
急に慌ててまくし立て始めた。何かのスイッチでも入ったようで、オレはそれをよく知っていた。
なるほどな、と思う。オレたちは似ているんだ。こういうところが、とてもよく。
「すみません、お聞き苦しいものを。せめてわたしがチューリップとか薔薇みたいな、有名で華やかな見た目だったらよかったんですけど……」
紫の瞳が、その色をより濃くする。うつむいたビオラの表情を髪が隠していた。
でもそれがどんなものか、オレはわかっている。いわゆるネガティブというやつで、そいつは自分でももてあますような、厄介な代物なのだ。
「オレはいいと思うけど、ビオラ。小さくて可愛いし」
「ありがとうございます……。本当に、水輝は優しいですね」
「優しくなんかねぇよ、オレなんか。これぐらいしか、かける言葉がみつけられないんだからな」
引っ張られたのか、今度はオレの方でスイッチが入る。ビオラが気を遣ってしまうのはわかっているのに、自分ではコントロールできない。みっともないとは思うが、どうにもできないのだ。
「そんなことないです。水輝にはいいところがたくさんあります!」
それからビオラは、オレのいいところを挙げだした。途中からネガティブスイッチはオフになったのだが、ビオラが元気になったから、止めなくてもいいかなんてオレは思った。
「……水輝?」
「ビオラはやっぱりいい奴だよ。人のいいとこ、それだけみつけられるんだからさ」
ぽんぽんと、家族ぐらい近い関係の相手にするように、オレは自然とビオラの頭をなでた。見た目の年齢はそう変わらないビオラに、それが普通のことのように。
「なんだか、悪い気がしません。もっとなでてくれませんか」
「ん」
いたずら心を起こして、わっと飼い犬を相手にしているかのようになでる。はしゃぎながら、ビオラも楽しそうに逃げようとする。
ビオラがいるのが、あたりまえのことになっていた。感覚は友人に近いのだが、もし弟妹がいたらこんな感じかもしれないとも考えた。
「水輝、外は楽しいですか?」
「それなり、だな」
ビオラは鉢植えの花――つまり本体からあまり離れられないらしい。この家の中を移動できるだけの距離はあるようだが。
だから、こうして聞いてくるのだろうか。
桜が花を咲かせて、あっという間に散ったのもだいぶ前の話になった。
それでも、他の花はまだ色々なところで咲き誇っている。そして街並みに彩りを添える。オレは相変わらず、その花たちの名前を知らないままだ。
だけどこれから街でビオラをみつければ、その名はすぐに思い出すことができるだろう。
「ビオラ」
くるりと振り返ったビオラの頬を突っつく。
人ではないらしいのに、確かな暖かさがあった。
「わ……っ?」
「はは。隙あり」
おどけて笑ってみせる。ビオラは何が起こったかわからないといった表情で、まばたきをした。
「天使……」
怒るかと思ったビオラは、そうぽつりと呟いた。
「天使?」
「はい。パンジーの神話です」
それを知らないオレに、ビオラが丁寧に説明を始めた。
昔、天使が地上に舞い降りた。冬の山奥だった。そこは人どころか何もないような場所で、たった一輪の花が寂しく咲いているだけだった。早春に他に咲いている花はない。
そこで天使と花は会話を交わす。天使はその小さく可憐な花を気に入った。紫と黄色の色合いが自分によく似ている。君は僕の兄弟だと言った。
天使はその花を、「パンセ」と呼んだ。どこかの国の言葉で、物思いという意味らしい。
天使に兄弟と呼ばれた花はパンジー。
「パンジーが品種改良されたのが、わたしたちビオラなんです」
「それで何でオレが……天使になるんだ?」
口に出すのは若干、いやかなり恥ずかしかったが、どうしてもそれは気になった。今の話にどこか、ヒントでもあっただろうか。
「それは……」
顔を赤らめて、ビオラが下を向く。それはもう、本当に真っ赤だった。
そこまで恥ずかしいのなら、言わなければよかっただろうに。まあ、思わず言ったようだったが。
「最後、天使は立ち去る時にパンジーに……キスを、したそうです。それはきっと、さっきの水輝に似ていたんだろうなと思うと……」
どこでそんな話を聞いたのか。花屋のアルバイトが神話を好んでいたらしく、イラスト付きの本で花にまつわる神話を客に話していたらしい。
ビオラはそれを見ていて、小さなパンジーにそっとキスをした天使の絵がとても印象に残ったようだ。
*
ビオラは人の姿をしていたので、オレはすっかり忘れていた。
花が枯れるのはあっという間だということに。
花瓶の花ほどではないが、鉢植えだって長い間咲き続けられることはできないのだ。
儚いものの例えに、花ほどよく出されるものはない。花の命は短いからだ。
「ビオラ。……お前透けてないか?」
「…………」
ビオラは何も言わず、ただオレの方を向いただけだった。
「ビオラ?」
泣きそうな顔で微笑んだビオラが、何か言おうとする。
それなのに、何も聞こえない。ビオラの声だけがどこか遠くに離れてしまったように、オレに届いていないのだ。
「ビオラ!」
オレが伸ばした手は空を掴む。ビオラの姿を通り抜けて。
つい昨日までは触れたのに。すぐそばにいたのに。暖かかったのに。
『さよなら』
その唇の動きだけが、やけにはっきりとわかった。
瞬間、ビオラの姿は完全に消え去った。
「……っ」
階段を駆け降りて、鉢植えのビオラを置いている窓辺に急ぐ。
夕陽の中、花はくたりと頭を下げていた。
この花の命がもうないことなんて、オレでさえわかった。
『今度は、もっと長く水輝のそばにいられるものに生まれたいです』
不意に、聞こえなかった言葉が届いた。
またいつか、ビオラが会いに来てくれると言うならば。オレはそれまで待っていよう。
見えないはずの存在だったビオラが、オレには見えた。そんな奇跡がオレたちには起こったのだから、二度目も信じたい。
どこか確信にも似た思いを、オレは持つ。またきっと会えると。
花は枯れても、次の年にはまた咲くように。