お信の誘い
夕食を食べ終えたお琴は、茶屋へ膳を返すため、膳を重ね、1番上の膳に3人分の皿や器を載せて運んでいた。
「お、おごちそう様でした……」
茶屋の暖簾をくぐって、お琴はプルプル震える両腕に耐えながら、膳を小上がりのところに置こうとする。
すると奥からお信が出てきて、
「あら、嫌だ!食べ終わったなら、声を掛けてくれれば良いのに!」
と言って、お琴から皿や器が載った膳を受け取る。
両腕の震えが治まったお琴は、自分が持っている膳をゆっくりと小上がりへ置いた。
「あ、ありがとうございます……」
両腕を揺らしながら、お琴はお信にお礼を言う。
「お礼を言うのはこっちの方よぉ。お琴ちゃん、ありがとうね」
お信はそう言うと、膳を一脚ずつ奥へと運んでいく。
お信からお礼を言われたお琴は、ありがとうと言って貰えることに嬉しくなって、口元が緩んでしまう。
「清隆様達はもう寝てしまうのかしら?」
奥にいる勇作に皿や器を渡しながら、お信がお琴に尋ねてきた。
「いえ、お2人は寝る前にやることがあるそうで……。外に出てしまいました」
今度は腰を反らしていたお琴だが、お信の問いに反応して、真っ直ぐ背筋を伸ばした。
「あら、そうなの。それじゃあ、お琴ちゃん寂しいわねぇ」
「そうなのですが、私は寝る準備をしつつ、お2人を待とうと思います。」
「お琴ちゃん、お仕事とかないのかしら?」
お琴はお信の質問に答えずに、気まずそうに笑って返す。それを見たお信はお琴の返事を察したようで、静かに頷いた。
「お琴ちゃん、それなら少し私と散歩しない?」
「えっ?」
お信の提案に、お琴は一瞬きょとんとする。そして、思いがけない言葉に何と返してよいか分からず、おどおどしてしまう。
「折角だから、少しだけだけど一緒に歩きましょう」
お信はにっこり笑う。行きたいけれど、すぐに二つ返事をしてしまって良いのかとお琴は迷ってしまう。
「え、でもお信さんは仕事がまだあるのでは……」
お琴はちらりと奥にいる勇作を見る。すると勇作と目が合い、びっくりして思わず目を逸らしてしまう。
「……申し訳ないが、お信に母娘っぽい事をさせてあげてくれないか」
勇作がお琴に向かって頭を下げる。勇作が反対するかと思っていたお琴は、思わぬ答えを聞いてきょとんとする。しかし、これでお信の誘いを断る理由が無くなり、安心して了承することができる。
「では、よろしくお願いします」
お琴は2人に向かって頭を下げる。それを見たお信は、ぱっと顔を輝かせた。
「お信。この村は治安が良いが、夜に女2人で出歩くのは正直感心しない。あまり遠くへは行くなよ」
勇作の手は皿を洗っているが、顔はお信の方を向けている。お琴はちらりと茶屋の出入り口を見る。月が出ていて夜の割には明るいと分かるが、勇作の言う通り、夜の道を歩くのは危ない。勇作の心配はもっともだとお琴は思う。
「分かっているわ。毎日行っているあそこよ。すぐそこだから大丈夫!」
あっけらかんと、しかし胸を張って答えるお信をじっと見る勇作。勇作が小さくため息をついたのをお琴は見逃さなかった。
「……分かった。大事な客人と一緒ということを忘れずに、気をつけて行ってこい」
それを聞いたお信が「ありがとう」と言って、両腕を上へ挙げた。お信を見て、勇作が苦笑している。はっきり物を言うお信だが、そんな人が無意識にやる仕草が可愛く勇作には見えているのだろう。
「じゃあ、お琴ちゃん。行きましょ」
お信は茶屋の出入り口の方へ行き、お琴に向かって手招きする。行く前に勇作にお礼を言わなければと思い、お琴は奥にいる勇作を見る。
「勇作さん、ありがとうございます。それではいってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい」
勇作の返事を聞いたお琴は、勇作に一礼してお信の隣へ行く。
「お信さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃ、行きましょ」
お互い笑顔で言葉を交わす。そして、お琴とお信は茶屋の暖簾をくぐると、外へ出ていった。