郷士の家へ
少しむすっとした表情でお茶を飲んでいるお琴。ただ待つのは性に合わないから、手伝おうと思ったのに……。まさかお信さんから「これから仕事があるんでしょう。そっちが最優先だから、お茶でも飲んでひと息ついていなさいな」と言われるとは……と、お琴は先ほどの出来事を思い出す。
「……お茶、美味しい。……早く清隆様か右忠様が来ないかなぁ……」
お琴は茶屋の出入り口をちらちらと見る。すると、
「待たせちゃって申し訳なかったね。……あれ、清隆は?」
昨日よりも薄い化粧をした右忠が茶屋の中に入ってきた。今日は紅と白粉しか付けていないが、綺麗な女性になっている右忠にお琴は見惚れてしまう。
「お琴?ぼんやりしているけれど、どうしたの?」
「え、いや、あの、清隆様が来ないなぁと思って……」
お琴は先ほどのように顔を近づけられたら困ると思い、話題を変える。右忠は両手を腰に当て、
「……確かに。私の準備よりも時間が掛かっているとはどういう事かしら?まさか見つからないのかしら?」
と茶屋の出入り口を見る。
「……私、ちょっと宿の様子を見てきます」
お琴は何か手伝うことがあるかもと思い、素早く立ち上がる。すると、
「遅くなって申し訳ありませんっ」
と手形、筆、紙が入った風呂敷を襷掛けした清隆が茶屋の中に入ってきた。
「良かった。何かあったのかと心配したじゃない。どうしたの?」
右忠は清隆の横に並ぶ。清隆は一瞬言うのを躊躇うが、右忠の笑顔はそれを許すはずがないと観念した。
「……その、精神統一をしていて遅くなってしまったのです」
清隆はちらりとお琴の方を見る。今度は元の姿で仕事をするのだから、格好悪い所は見せたくないから落ち着こうとしたとは言いづらい……と清隆は思いながら、右忠に目で訴える。右忠は清隆の思いを何となく感じると、
「分かったわ。じゃあ、お琴。郷士の家に行きましょう」
と清隆にはそれ以上追及せず、小上がりの上にいるお琴を呼んだ。
「は、はい!」
お琴は草履を履いて、2人の後ろに付いた。清隆はちらりと振り向き、お琴を見る。お琴は清隆の視線に屈託のない目で見つめ返す。清隆は「参ったな」という表情で笑うと、
「では、郷士の家に行って参ります。勇作さん、お信さん。おご馳走様でした」
と奥にいる2人に声をかけた。奥の暖簾が揺れ動き、
「ここからでごめんなさいね。気をつけていってらっしゃいませ」
とお信が出てきて、頭を下げた。
「いってきます」
3人はそう言うと、お信達に背を向けて茶屋を立ち去っていった。
郷士の家の門前に着いた3人は、隣の神社から流れてくる笛や太鼓の音を聞いている。
「神社はずい分賑やかねぇ。余計に郷士の家のもの寂しさが目立つわ……」
右忠は神社と郷士の家を交互に見る。お琴は椿屋敷に負けずとも劣らない郷士の家に気後れしている。
「……早く郷士から話を聞きましょう。さぁ、中に入りますよ」
清隆はお琴に目配せをすると、歩き始めた。お琴は、あっ……。心の準備が万全ではないまま向かうなんて、緊張するわ……と思い、目を閉じると、胸に手を当てて深呼吸をする。そんなお琴の様子を見た右忠はそっと清隆に近づき、
「……清隆。お琴が中に入るのに緊張しているみたい」
と耳打ちした。清隆は後ろを振り返り、お琴の様子を見ると、お琴の元へ寄っていく。自分自身も緊張しているとはいえ、お琴を気にかけるのを忘れてしまうのは不覚だった……と後悔しながら、清隆はお琴の顔を見る。お琴が目を開けると、目の前に清隆の顔があってとても驚いたが、緊張がどこかへ吹き飛んでいってしまった。
「お琴。緊張しているのはお前だけではない。気負わず一緒に行こう。1人じゃないから大丈夫だ」
清隆がお琴の肩を軽く叩くと、肩に入っていた力が途端に抜けていった。
「ありがとうございます、。もう大丈夫です」
「良かった。それでは行こう」
「はい」
お琴は清隆と一緒に歩き始めた。
「右京様。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
とお琴が右忠に言うと、
「いいのよ」
と右忠は綺麗な微笑みで返す。
「右京様。教えて下さり、ありがとうございました」と清隆が右忠に耳打ちすると、
「いいのよぉ」
と、右忠はにやにやした顔で返事をした。清隆は少ししかめっ面を見せるが、何事も無かったような表情に戻る。そして3人は郷士の家の門をくぐった。
郷士の家の庭先は畑になっており、収穫が終わった後だった。そんな様子を横目で見ながら、3人は玄関先に立った。
「ごめん下さい。私達領主様の命でこの村の豊穣祭について記録しに参りました。郷士様の御目見をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
清隆が家の中に向かって声をかける。すると、屋敷の中から足音が聞こえてきた。3人の目の前に空色の小袖を着た男の人が現れた。キリッとしたつり目が厳しそうな印象をお琴に与えた。眉間に寄せたしわが3人に対しての訝しさを表しているように見える。
「あの、どちら様でしょうか?」
男の人は正座して、3人を見てくる。
「私達は領主様の命でこの村の豊穣祭について記録をしに参った者です。郷士様の家には祭りについての資料があるとお聞きし、拝見させて頂きたく参った所存です。私の名は榛名清隆と申します」
清隆は男の人に頭を下げた。
「こちらは私と同じ役人の右京殿、そして右京殿付きの下女のお琴です」
清隆は右忠とお琴を手の平で指す。2人は一礼をした。3人の正体を知った男の人の眉間のしわが若干緩む。
「私がこの村の郷士の長助です。……この国の領主様は能力の高い者なら、出自や性別で判断せず自分に仕える者として雇うと聞いていましたが、本当のようですね」
郷士の長助はちらりと右忠を見る。右忠は余裕のある笑みを浮かべる。
「領主様の命の証として、手形も持っております。ご確認を」
清隆は襷掛けした風呂敷を開け、中から手形を取り出した。
「いや。関所の役人が確認しておりますので、確認は不要でございます」
きっぱりと長助が断ると、清隆は安心した表情を浮かべて手形を懐の中にしまった。ぶっきらぼうな言い方だけれど、長助様は自分の部下の仕事ぶりを信頼しているのね……と、お琴は長助の印象を上書きしている。
「では、上がって下さい。中で祭りについてお話致します」
長助は3人に中に入るように促す。
「ありがとうございます。ではお邪魔します」
と清隆が言い、3人は郷士の家の中に入っていった。
「こちらです」
長助は障子を開けて、3人を中へ通す。
「失礼します」
と清隆は一礼して、奥へ座る。右忠とお琴は続けて座るが、3人が凝視している場所は同じだ。長助の家の客間の障子が変わっているのだ。障子の和紙には墨で描かれた風景画や漢詩が書かれてある。客間の障子が1つの作品になっているのだ。お琴は、変わったお部屋……。障子の和紙を作品に使うなんて新しいわ!と鑑定士というよりは、1人の芸術を愛する者として、純粋に作品に興味を持った。お琴は客間の障子が気になって仕方ない。正座しているが、近くで見たくてうずうずしている。そんなお琴を清隆と右忠は心配そうな表情で見ている。
「申し訳ありません。今は私1人しかこの家におりませぬ故、茶を出すのに少々時間がかかります。ゆっくりこの部屋でお寛ぎ下さい」
長助は障子の下で正座していたが、すっと立ち上がる。
「そんなお気遣いなく。突然お邪魔した私達がいけないですので……」
清隆が断ると、
「いえいえ。客人をもてなすのが、家の主人たる者の仕事ですので、仕事をさせて下さい」
と長助は返すと、部屋から出ようとする。お琴は1人ではきっと大変だろうから……と思ったら、思わず立ち上がってしまった。
「どうされたのです?」
長助はお琴の突然の行動に驚くも、平然とした顔で尋ねる。
「あ、あの、私もお手伝い致します。2人で用意した方が早くできるし、私はただ待つことが苦手なので、お手伝いさせて下さい」
お琴は長助にお願いをする。すると長助は少し微笑み、
「いいのですか?助かります。では、一緒に土間へ来て頂いてよろしいですか?」
とお琴に頼んだ。
「はい!お願いします!」
お琴は元気よく返事をすると、長助と一緒に客間を出ていった。清隆と右忠は無言で2人を見送った。




