午の刻
しかし……。お琴の痒みとの戦いもむなしく、ホオジロは全く現れない。痒みとの戦いが長引くほど、太陽は高く空へ昇っていく。
「……お琴、すまない。そろそろオイラが元の姿に戻る時間になってしまう。宿に一旦戻ってくれないか」
左肩の上に立っている清隆が、申し訳なさそうな声を出す。お琴はその言葉を聞いた瞬間、勢いよく茂みの中から出て、
「それは大変です!ホオジロはまた明日にして、今は宿に戻りましょう。しっかり私の小袖を掴んでいて下さい」
と言って、清隆が自分の肩口をしっかりと掴んでいるのを確かめると、脱兎のごとく宿へ向かっていった。
神社を中心にした西の道を一直線に走るお琴。宿へ戻る途中、何人かの村人を視界の隅に捉えたが、今はそれよりも清隆様の方が大事!と急いで宿へ戻っていった。
そして宿に着いたお琴は、自分の肩から降りた清隆を清隆の部屋の中に入れる。そして障子戸を閉めると、一気に疲れが出てしまい、その場にしばらく座り込んでしまった。
「……良かった。宿に着くのが清隆様が元に戻る前で」
お琴は腰に力が入るようになり、正座に姿勢を正す。すると、
「騒いでしまったり、急がせてしまってすまなかった」
と若草色の素襖を着た元の姿に戻った清隆が障子戸から顔を出した。無事に帰った清隆が戻れたのを見て、お琴はほっとする。
「そろそろ午の刻になるから、茶屋で右京様を待つ事にしよう。右忠様の単独行動は自由なおかげで、あの方は時間など忘れてしまうので、外が見える茶屋で右忠様の様子を見ていないと……」
清隆は困った表情をする。お琴は清隆の言葉の意味が分からなかったが、茶屋に行く事を反対する理由はないので、清隆と一緒に茶屋へ行くことにした。
茶屋に着いたお琴と清隆は、軒下の長い腰掛けに座って右忠を待つことにした。
「お昼ご飯はもうすぐできますので、お茶を飲みながら待っていて下さいな」
2人に気がついたお信がお茶を運んできてくれた。お琴と清隆は「ありがとうございます」とお礼を言うと、お信は一礼してすぐに奥へと下がってしまった。お信の素っ気ない態度は、勇作とお昼ご飯を作るのに忙しいからだとお琴と清隆は承知しているので、お信に不快感を持つことなく出されたお茶を普通に飲む。
「……ふぅ、おいしい」
お琴がお茶を飲んで和んでいると、隣に座っている清隆が下を向いて頭を押さえていることに気がついた。
「清隆様、どうしたのですか?」
「……いや。あれを見つけたら、頭が痛くなってしまって……」
清隆が茶屋の左向こうを指さす。お琴は清隆の指さす方を見ると、少し離れた所に村の妙齢な女性達に囲まれて、和気あいあいと話をしている右忠がいた。少し離れた所には村の若い男性達が右忠を興味ありげに見ている。女性達は和気あいあいだが、右忠の女性視線が妙にやらしく感じるのはお琴の気のせいだろうか。
「……あんなに鼻の下を伸ばして……。能力は非常高い方なのに、女好きなのが玉にキズなんだ……」
頭を抱えたまま清隆がため息をつく。右忠が邪な気持ちを持っていることは、清隆も感じているようだ。
「ど、どうしましょう……。何て声をかければいいですかね……」
お琴はちらりと清隆を見る。清隆はお琴に向かって優しく微笑むと、
「お琴は何もしなくて良い。私が声をかけてくる」
と言って、足早に右忠の方へ向かっていった。お琴はどう説得させて連れてくるのだろうと気になり、一部始終を見ることにする。清隆が右忠の元へ行くと、右忠は「しっ、しっ」と右手で清隆を追い払おうとする。そんな右忠に対して、清隆は笑みを浮かべ、お琴に背を向けて右忠と対峙する。村の女性達の視線は右忠から一気に清隆へと移る。すると次の瞬間には、村の女性達と男性達は四方へ散り、笑顔の清隆と暗く沈んだ表情の右忠が並んで茶屋へと歩いてきた。お琴は一体何が起きたの?と、戻ってきた2人が気になって仕方なかった。
「さ、お昼ご飯をお信さんにお願いしなければ」
清隆は右忠をお琴の隣に座らせると、そのまま茶屋の中へ入ってしまった。お琴はちらりと横目で右忠を見ると、右忠は空いている隣の座布団に人差し指を何度も何度もさしていた。
「……どうせ、俺は清隆に比べたら良い男じゃないですよぉだ……」
今の女子の設定を忘れ、素の口調でぶつくさ呟いている。お琴は慌てて、
「う、右京様!女性らしく!」
と右忠の肩を軽くつついて、設定を思い出すように促す。
「……はっ!私ったらつい……」
右忠は今は女子だという設定を思い出し、口元に手を当てて女性らしく振る舞う。お琴は茶屋の周りなか誰もいないことを確認して、ほっと安心する。
「あら、右京様。柴売りの格好をしていらっしゃるのね」
お茶のおかわりが入った急須と右忠の分の湯呑みを持ってきたお信が声をかける。右忠は湯呑みを受け取ると、お茶を一気に飲んだ。お琴もお信からお茶のおかわりを貰い、ゆっくりお茶を飲む。
「清隆様が言ってくれなきゃ、全然気がつかなかったわ。またえらく雰囲気が変わるわねぇ……」
お信はまじまじと右忠を見る。右忠は「あまり化粧をしていないから見ないでぇ」と困ったように笑いながら、お信の視線を受ける。
「あ、そうだわ。お昼ご飯のうどんが出来たので、奥の小上がりに上がって下さいな。清隆様も座っていらしているので」
お信の言葉を聞いたお琴は茶屋の中を見ると、左端の小上がりのところに清隆が座っているのが見えた。
「右京様。私達も中へ入りましょう」
とお琴が声をかけると、右忠は急に膝を抱え込んで丸くなってしまった。
「どうしたのですか?右京様」
「……女の子にモテたいという私の願望を打ち砕いた奴の所になんか行きたくないっ」
丸くなった右忠はむすっとした目で清隆の方を見た。お琴は右忠様も清隆様に負けず劣らずの格好良さなんだけど、今は女子に変装しているから仕方ないのでは……と思いながら、
「そ、そんな事を仰らずに……」
と言いながら右忠のご機嫌をとろうと、なだめるように右忠の肩をトントンと優しく叩く。そんな2人を見ていたお信は「はぁぁぁ」と盛大なため息をつき、
「右京様。郷士の弟さんのことについて調べに来たのでしょう。奥に行って、うどんを食べながら仕事をして下さいな」
と右忠に発破をかける。右忠は少しの間、「うぅ……」と唸っていたが、
「……よし。美味しいお昼ご飯を食べて、しっかり仕事をするわよ!」
と言って立ち上がり、右手で作った握り拳を高く上げた。お琴は元気になった右忠を柔らかい笑顔で見つめる。
「じゃあ、お琴。お昼ご飯を食べましょ」
右忠は笑顔でお琴を誘う。お琴も「はいっ」と元気よく返事をする。
「……お琴がいれば、清隆に仕返しの意地悪の機会が出てくるものね」
右忠のあまりに小さい呟きはお琴の耳には届かず、2人は茶屋の中へと入っていった。