犬騒ぎの後
二の間の掃除が終わると、
「お琴。三の間の拭き掃除が終わったら、昼食作りはせず少し休んでいなさい。犬の騒ぎで疲れたでしょう」
と卯木が雑巾を絞っているお琴に言ってきた。
「え、私は大丈夫ですので、昼食作りできます。ご心配おかけして申し訳ありません」
雑巾を桶の淵にかけて話を聞いていたお琴は慌てて卯木の申し出を断る。
「あなたに三の間の掃除を任せている間に私の方で昼食の下ごしらえをしておきますので、あなたが三の間の掃除をした後はやる事がないのですよ。少し中の間でお休みなさい」
「え、でも……」
「いいから!言うことを聞きなさい!」
お琴が反論しようとすると、卯木は語気を強めて畳み掛けてきた。お琴は大丈夫なのに……と思いつつも、卯木の優しさが嬉しかった。
「はい、分かりました。ありがとうございます」
「では、三の間の拭き掃除を任せましたよ。私は土間に行きます」
卯木は少し笑いながらそう言うと、土間へ行ってしまった。
「よし、頑張ろう」
お琴は腰に力を入れ、桶と雑巾を持って三の間へ向かった。
「お言葉に甘えてしまっていけないけれど、早く拭き掃除をして少しだけ休ませてもらおうかな……」
犬の恐怖を忘れるためにお琴は深呼吸をしてから、三の間の畳の上に膝をつき、拭き掃除を始めた。無言で畳と向き合うと、畳のあらゆるところの汚れに気づく。ここも汚れていたんだ……。お琴は汚れを見つけては雑巾で一点突破の勢いで拭いていく。
奉公に来てから、毎日がとても楽しい。優しい人達に囲まれている自分はとても恵まれているとお琴は思う。きっかけはあまりいい形ではなかったが、奉公に出て本当によかったと思いながら、お琴は拭き掃除をした。
「……よし、これで終わりっと」
三の間の最後の畳を拭き終えたお琴は雑巾を絞り、桶の水を捨てに外へ出た。
「お琴、大丈夫か?犬が屋敷に入り込んでいたから……」
お琴の姿を見かけた真成が駆け寄ってきた。
「あ、真成様。大丈夫ですよ。恥ずかしいのですが、小さい頃、大きな野良犬に追いかけられたことがあってから犬が苦手になってしまって……」
お琴は笑おうとしたが、顔が引きつってしまう。お琴の表情を見た真成は桶の取っ手を持っているお琴の両手にそっと自分の両手を乗せてきた。
「!ま、真成様?」
お琴は思わず桶を大きく揺らしてしまう。すると、桶の中に入っている汚い水が真成の裾にかかってしまった。しかし、そんなことは気にせずに真成はまっすぐお琴を見つめている。
「やっぱり、怖かったのですね。俺が桶の水を捨てておくので、先に中に入って下さい」
真成の言葉を聞いて、あ、代わりに水を捨てに行くという意味の両手だったのか……とお琴は理解した。下心が全くない真成の仕草にびっくりしてしまう自分の方が下心があるのではないか……とお琴は思ったら、真成を直視できなくなってしまった。自分の顔だけが、ものすごく熱くなってきているのが分かる。
「ま、真成様。ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます……」
お琴は目を合わせずに、真成に桶を手渡す。真成はそんなお琴を心配そうな瞳で見つめる。
「お琴、本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です、大丈夫です!」
お琴は首を横に振り、おじぎをした。そして顔を上げずに、そのまま中の間へ向かっていった。