母と娘
お琴は何とか犬の足跡だらけだった一の間の拭き掃除を終え、次に掃除をする二の間に向かった。小人は「今日はこれで止める」と一の間の時に言っていたが、その言葉に対してお琴は半信半疑だった。もしかしたら二の間も何かされているのでは……と思いながら、お琴は恐る恐る二の間と縁側の間の障子を開けた。
「……。何もない。よかったぁ」
二の間はいつもと変わらなかった。お琴は小人が自分は武家の男子だと言っていたことを思い出した。やはり言ったことはきちんと守るんだと一瞬感心してしまったが、そういう問題ではないと頭をぶんぶん横に振って考え直した。
「よし、やるぞ!」
お琴は小さく握り拳を作って言った後、拭き掃除の準備に取りかかる。お琴は桶の水で雑巾をすすぎ、二の間の畳の目に沿って拭き掃除を始めた。
お琴が無心になって8畳のうちの半分を拭き終えた頃、
「お琴。ただ今帰ってきました」
と使い先から帰ってきた卯木が縁側の障子を開けて、顔を出した。
「おかえりなさいませ」
「うちの真成が犬が屋敷から出てきたと言っていましたが、何かありましたか?」
卯木は眉をひそめてお琴に尋ねてきた。心配している表情だと分かっているので、お琴は心配させたくなくて、一瞬言葉に詰まってしまう。
「い、一の間に犬が入り込んでいたので追い出したんです」
お琴は精いっぱいの大したことはないという表情で答えた。しかし、お琴の言葉を聞いた卯木は、血相を変えてお琴の近くに寄ってきた。
「!犬が入っていたのですか!大丈夫ですか?噛まれたりしませんでしたか?」
卯木はお琴の顔を触り、次に両手を触り、お琴の様子を確認する。心配してくれている……。お琴はそう思ったら、自分の頬に伝う涙に気がついた。実の母から心配なんかされたことなどないお琴は、母と同じ年くらいの女性に心配されたのは生まれて初めてだった。
「……!怖かったでしょう。ごめんなさい、思い出させてしまって……」
卯木はお琴の涙を犬の恐怖を思い出してしまったことによるものだと解釈しているようだ。自分の小袖で、そっとお琴の涙を拭く。いつも自分で拭っていた涙を誰かに拭いてもらうということも初めてだったお琴は、嬉しさで胸がいっぱいになって、また涙が溢れてきた。
「す、すみません……。母から卯木様のように心配されたことがなかったので……。これは嬉し涙なので気にしないでください」
お琴が自分で涙を拭いながら言うと、卯木はお琴をじっと見つめた後そっと抱きしめた。
「……!卯木様!」
「いいですか、お琴。この椿屋敷では私があなたの母代わりです。困ったり大変なことがあったら遠慮なく言いなさい」
卯木はゆっくりお琴から離れた。お琴はその言葉に嬉しくなって、泣きながらうなずく。
きっと世のお母さんというものは卯木様のような厳しくも優しい人なのだろう……。私と母の場合はかなり難しいけど、椿屋敷へ奉公に来ていれば卯木様と母娘関係になれるんだ……とお琴は思った。




