お化粧の誘い
夕闇が迫る御厨村。
お琴はつい先刻まで茶屋にいたが、灯籠揃の準備があるからと言って宿に戻ってきた。
お琴達の無事を喜んだお信と勇作は、ずっとご馳走を振る舞ってくれた。
ぱんぱんに膨らんでいるお腹をさすりながら、宿の廊下で涼んでいるお琴。
昼間の騒ぎが嘘のように、草木も風も凪いでいる。
お琴は宿から出るのが少し怖くなった。
刻々と近付く静かな夜の帷が、納屋での一人寝を思い起こさせる。
「お琴、どうした」
小人の姿から元に戻った清隆が部屋から出てきた。
清隆はお琴の傍に来て、そっとお琴の左肩に手を置く。
一人寝の時は清隆の匂いを感じていたが、今は清隆の温もりを肩から直に感じる。
その瞬間、あの昼間の出来事は夢ではなく、真実が明かされた実感がふつふつと湧いてきた。
「いえ、何でもありません。ただ無事に終わった実感を噛みしめていただけです」
お琴は出入口から差し込む暖かい夕日の光を見つめる。
「……辛い思いをさせてしまって、申し訳なかった」
清隆はお琴の方へ一歩近寄る。
肩と肩が触れそうな距離に恥ずかしくなって、お琴はうつむいてしまう。
すると、
「あ、お琴!丁度良かった。今、呼ぼうと思っていたのよ」
と、部屋の戸から右忠がひょっこり顔だけ出した。
その瞬間、清隆はお琴から一歩離れる。
お琴と清隆の距離感など露知らない右忠は、2人の間に平然と入る。
右忠の向こう側にいる清隆は、面白くなさそうに唇を尖らせていた。
「さ。灯籠揃に備えて化粧をするわよ」
「えぇっ!?」
突然の右忠の提案に驚くお琴。
「当たり前でしょっ。郷士や神主の娘は事情を知っているけれど、多くの者は私達を神も使いだと思っているんだから。綺麗な格好をして行かないと笑われちゃうわっ」
右忠はお琴の背中へ回ると、お琴の背を押して自分の部屋へ連れていこうとする。
お琴は少しずつ動いていたが、先程の出来事を思い出して足を止めた。
宿に着いて一段落ついた昼過ぎ頃。
灯籠揃前に、長助と美寿々にだけは真実を話そうと3人で話し合って決めた。
仕掛けを使って神の使いの振りをした事を、右忠は長助に、お琴は美寿々にそれぞれ話した。
2人とも、仕掛けについては一切尋ねてこなかった。
「ありがとうございます。真相を知る事が出来て良かったです」と感謝と労いの言葉をかけただけだった。
長助はともかく、美寿々は色々言いたい事があるのでは……と覚悟を持って言ったのだが、美寿々は憂いのないすっきりした表情でお琴の言葉を聞いていた。
「……いくらあの時の私の姿が見苦しかったとはいえ、山姥はないでしょ!山姥はっ!うんと綺麗に着飾って天女だったと言わせてやるんだからっ!」
右忠は可愛く膨れっ面を作ったが、目が本気だったのを清隆は見逃さなかった。
村人達から言われた「山姥」という言葉を気にしていたのだろう。
だから灯籠揃の時に、あっと言わせたい右忠の乙女心がお琴には分かる。
そういえば……と、自分も薄汚れた格好でいる事を思い出す。
少しでも綺麗に着飾れば、清隆は気付いてくれるだろうか。
ちらりと清隆を見るが、清隆は首を傾げながらお琴を見つめ返すだけだ。
「……ほらっ!こういう鈍い男を驚かせるわよっ」
右忠がお琴の耳にそっと耳打ちする。
お琴は反射的に頷く。しかし、
何故右忠様は私の考えている事が分かるのだろう……?
と、すぐに首を傾げる。
それを見ていた右忠はケラケラ笑い出した。
「お琴は言葉よりも顔で言っている事が多いから、とても分かりやすいわぁ!」
清隆様にも分かってしまうかもと焦ったお琴は、慌てて両手で顔を隠そうとしたが、
「それじゃあ、隠しきれないわよぉ。やっぱり一番隠せるのは化粧よ!」
と右忠に言われた。
化粧に興味が無いわけではない。ただ自分が試しても……という思いがある。
「大丈夫。私がやるんだから、安心して」
指の間から覗いた右忠の顔は自信に満ちていた。
その表情で、お琴の決意は固まった。
「……分かりました。右京様、化粧の仕方の御指南、宜しくお願いします」
お琴は右忠に向かって、深く頭を下げた。
右忠は目をキラキラ光らせてにっこり笑うと、
「もちろんっ!じゃあ、早速化粧をしましょう。清隆は私達の準備が終わるまで、部屋で待っていて頂戴」
とお琴の手を引いて、さっさと自分の部屋へ行ってしまった。
1人廊下に残された清隆は、右忠に言われた通り、静かに自分の部屋へと戻っていった。