季秋某日、神狐、使い先にて乙女と雑談(4)
「そろそろいいだろ。帰る」
「え?でも」
「もう雨は止んだ」
玄関への扉は締め切られていて雷や雨の音は聞こえなくなっていたので、それが止んだのかどうかここにいては判断できない。
普通の人間には。
立ち上がると娘三人も腰を浮かす。
歩いて扉に近付き、そこを開けると、さし込んできた光に眼球を射貫かれた。
次に飛び込んできたのは水のにおい。
「あら、ほんとうに」
「おおー」
「あ、傘どうしよ」
「持っとけ。多分明日も降る」
俺も翌日の天候くらい読める。
読みきれなかったこの急な雨は、昨日の仕事のせいだ。
人の欲が作り出した災禍。後味の悪さに嫌な気持ちになる。
暫くこの一帯は荒れるだろう。
「せめて、傘のお礼を」
「カステラもらっただろ」
「食べちゃっただろ。これいくらくらいだろうなー」
「金はいい。多分あいつは欲しがらない」
「えー?じゃあなんか……記念suicaとかどうですかね。いるかな……?」
どんな西瓜か気になったが黙っておく。持って行けと言い出しそうな感じだ。
軽薄で気まぐれな、あの女たらしの酔狂だ。
そんなに気にしなくていい。
立ち去りたいのだがりつが俺のズボンのベルトをがっちり握っている。
「……じゃあ、なんか、本、持ってないか」
「本?」
「好きなんだと」
聞けば大抵の事は知っているからその必要がなさそうなのに、あいつは本が好きらしい。
母上は裁縫、父上は書画。長く生きて、強くて、学ぶべき所がある者ほど、人の作った物に触れることを好む。
「ほんにしょうもないのー」とか「あいつら何で学習しないんだ」とか面倒そうに人への愚痴をこぼすのに。理解できない。
「旅行のしおりしかないわ。あーあれ、ホテルだわ……」
「あ、ありますよ。ちょっと待ってて」
よいが踵を返して、椅子の辺りに置いたままの鞄を漁って戻ってくる。
「お好きなら、もう読んでしまっているかもしれませんが」
差し出されたのは一冊の文庫本だった。店の書皮がかかっているので題名は解らない。
「預かる」
「お願いします」
受け取って、小脇に挟む。
りつの手はもう俺のベルトから離れているからこの場を離れることが出来る。
もう使いはとっくに終わっているのだが。ただ、このまま立ち去るのは違う気がする。
人間はそういう感じでないことは知っている。
親しい者なら「元気で」「また」などと声をかけるのだろうが、この娘三人とはこれきりだ。
どうしたものか。
「――りだ」
「え?」
「茉莉だ」
神と違って、俺は名を隠す必要がない。
問われたから答えただけだ。
娘三人はぽかんとしていたが、何故か今日見た中で一番の笑顔になって、一斉に口を開いた。
かわいい、の時とは似ても似つかない、タイミングも響きもばらばらの言葉がその場に勢いよく散らかった。
「お前らの名前に興味はない」
順番に喋ろうとするのをそう、遮って俺は走り出す。
興味はなくて、きちんと三人分聞き取れてしまったが説明するのも面倒だった。
教会を飛び出して、突き抜けるような青空の下を駆け抜ける。
走る度に靴底に水がついては離れてゆくから足が重くて、いつもよりほんのすこし労力がいる。
身体が熱いのは多分そのせいだ。
俺は人が嫌いだ。
弱いしすぐ死ぬから扱いづらい。
与えられた物だけでよしとせずに、多くを持っている者を妬みそれを奪おうとする。
自分を信頼している者を自分の利のために裏切って、裏切られたやつを嗤ったりする。
失敗が解っていても認めようともせず、不格好な泥船を作って荒波に漕ぎ出す。
俺より弱いという自覚があって、それが俺より格上の相手だと知っているのに、それでもその前に立つやつもいる。
悲しみと隣り合わせの毎日だろうに、決して笑みを絶やさない人もいる。
自分達には関係のない、どうでもいい話を聞いて、ひたすらうれしそうなやつらもいる。
妖狐として、生まれた時から頭の中にある理に従って生きている俺には、あいつらのことが全く理解出来ない。あいつらの傍にいると、どうしようもなく落ち着かなくなる。居心地が悪い。
一緒にいるといつも調子を狂わされる。
だから俺は、人が嫌いで仕方がないんだ。