たまには突き当りを右、の話でも (2)/台東区にお住いの鈴木一郎さん
「えー、もう一軒行こうよ!鈴木くーん!いい店知ってるんだよー!おごるよー!」
誰だ鈴木って思ったが俺か。
そうだ。俺は今、鈴木一郎なのだ。
人間の世界で本名を名乗るのもなんなので、凡庸な苗字と凡庸な名前を名乗ることにしたのだった。
「……終電前には帰りますよ?」
「なんだかんだ付き合いいいですよね。鈴木さん!大好き―!部長どこ行くつもりなんですかーあ!」
「いざキャバクラ、いい夢見させてキャバクラ幕府ぅ!」
「……あの、嫁に殺されるんで……別のところに……」
「部長―ここに女子いるんですけど。おしゃれなバーがいいです。バー。いいとこ知ってるんで」
「えー良美ちゃんが言うなら仕方ないなあ」
金曜の夜の新宿はおかしい。
道行く人間が全員浮かれている。祭りの様だ。
毎朝、毎夕、電車の中で人間が死んだような顔をしているのは、この夜のための体力温存なのではないかと、最近思う。
金曜の人間の体力は底なしだ。
いつまでも飲み、何時間でも歌い続け、真冬だというのに道での野宿も厭わない。
始発の時間になると自然と目覚めて電車に乗って自宅に帰る。
ぬくぬく生きている人間が、野生の獣である俺がたじろぐ生命力を発揮する、それが金曜の夜だ。
正直こいつらに付き合うのはめんどうなのだが、人間の隠された生態をつぶさに観察するいい機会なので、つるんでいる。
現在俺は人間のふりをして会社員をしているので、あまり邪険に扱うとその場にいづらくなるというのもあるし。
ご機嫌でわいわい言いながら歩いていく「上司」とか「同僚」とか「後輩」といった関係の人間の後をついていく。
後輩の関係の女のおすすめのバーに行くらしい。
よりにもよってバーかよ。
悪態をつきたくなったが、別にバーそのものに恨みがあるわけではないので、これは俺が悪いのだ。
機嫌が悪いのは店について直った。
大理石張りの床、椅子はすべて黒の革張り、落ち着いた照明の、いい店だった。
人間のこういう、箱庭の中に様々な雰囲気を作り出せるところは素直に尊敬する。
無論我々妖狐にも審美眼は備わっているし美しい物を愛でる習性もあるのだが、ここまで凝るやつはいない。
ほかにやることがあるからというのもあるからだろうが。
カウンターが人数分空いていたので、そこに並んで腰かける。
「今日すいてますねー」
「今さっき、どさっとお帰りになったんですよ、タイミングよかったですね」
「お兄さんに会いたかったんで、天が味方してくれたのかしら」
「それは光栄で、幸運ですね。さて、皆さま何にしましょう」
後輩はこのバーテンダーが好きなのだろう。いつもと声色が違う。
その後輩に思いを寄せている別の後輩が不機嫌になったのを俺は見逃さなかった。
はたから見ればあからさまなのに、周りは全然気づいていない。
こうして気づかれないまま徐々に徐々にねじれて行って、色々なものがややこしくなるのだ。
一事が万事、そうだ。
「お待たせいたしました。何にいたしましょう」
話しかけられて視線を上げると、柔和な微笑みを浮かべた件のバーテンダーが俺の前に立っていた。
顔とか背格好は全然違うのに、職業が一緒なせいか、誰かをほうふつとさせて、気分が悪い。
ああ話し方も似ている。
「思い浮かばないので、任せる」
「初めてのお客様でそれは責任重大ですね――では、お疲れみたいなので、まずはホットワインからどうでしょう。レモンとシナモンとクローブ入れるので、身体が温まりますよ」
「それで」
「ベースのワイン、どうしましょう。僕のおすすめは白の辛口なんですけど。嫌じゃなければそこに胡椒もちょっと」
「それで」
「なにそれおいしそう。わたしもそれで!」
「俺も」
「僕も」
「あ、あ、作りかけの奴はそのまま作っちゃっていいですよー。今どうなってます?」
「マティーニと、あとモヒート」
「それ以外ホットワインに切り替えられます?」
「あ、はい。全部変更でもいいですよ?」
「いやいやそれは悪いんで」
別のバーテンと件のバーテンと同僚の会話が終わったらしい。
和やかな雰囲気で各々会話を始めた。
「それにしても今回のプロジェクトうまくいってよかったですねー」
「どうなるかと思ったけど、相手方にも恵まれましたよね」
「なんでしたっけあの……名前忘れちゃった。シンさん、シンさんが出来る男すぎてやばい。超ステキ」
「えーあの人ハゲてたじゃん。良美ちゃんハゲオッケーな人なの?」
「ハゲのマイナスが帳消しになる素敵さじゃないですか」
「えー?普通のおじさんじゃん……」
俺は黙っている。
寡黙なほうで通っているので放っておいてもらえる。
たまに話しかけられたら相槌を打って話に参加すればいいのだ。
「いやいや何といっても鈴木さんがお手柄でしょう。ホームランでしょ」
「さすがうちの得点王」
肩を叩かれて曖昧に返事をすると「謙遜しちゃってえ」と背中を叩かれる。痛い。
色々ごまかして人間の会社というものに入ってみたが、まずまず、うまくやれていると思う。
一応人の輪に入る努力はした。
開発企画営業を全部やらされるとんでもない部署にいるが、迷惑はかけていない。慣れるまで結構大変だった。
たまに特技――人の心に干渉する術――を使うが、悪い方向には使っていないし。
ただ事態がこんがらがったときに相手の心の中に秘めている何かを探って、気づかれないように色々ほどいて、物事がうまく動くように調整しているだけだ。
割を食わせているやつもいない。
都に来ている妖狐の中では、まあ、うまくやれているほうだ。
「鈴木さん、またうちのチームの助っ人来てくださいよ!てか入ってくださいよ」
「忙しいんで。たまになら」
「何の話―?」
「俺草野球やってて。鈴木さんバッティングすごいんですよー!」
「まじで」
「さすが鈴木一郎」
「さすが鈴木一郎」
仮名はもう少しひねるべきだったと後悔している。
ちなみにあんまり言われるのでどういうことかと調べて納得して野球というものについて学び、一応そんな機会もあるかとバッティングセンターに通ってみたら上達してしまった。
なまじ有能で何でもできるというのもつらいものだ。
次から次へと何かを期待されてしまう。
長老どもが何かと口うるさいのもそういう事なのだろう。
「お待たせしました。熱いのでお気を付けください」
目の前に差し出されたのは、湯気こそないが見てわかる暖かそうな液体だった。
熱燗みたいなものなのだろうか。
火傷防止のためか、他のカクテルより厚みのあるグラスに入っていた。
輪切りのレモンが沈み黒胡椒が浮く、その初めて口にする液体を少し口に入れる。
火を入れたせいか、酒精の気配は抑えめ。
口の中でばらばらの味が不思議とうまくまとまっている。美味い。
視線を感じる。少し離れたとこにいるあのバーテンだ。
「お口に合いました?」
「……悪くない」
「よかったです」
人好きのしそうな笑顔で、物腰が柔らかく、謙虚っぽい姿勢。
こいつは何も悪くないが、にこやかに談笑したいタイプではない。
察してくれたんだかなんだか知らんが、奴は俺にそれ以上話しかけるのをやめた。
「おいしーい!これも決まったレシピとかあるんですか?」
「あー、ワインによって微調整するんで、絶対これ、といったのもはないですね」
「スゴーイ!」
――そのバーがどのあたりにあるのかは知っているが、入り口を見たことがない。
俺よりも力を持っている奴が、自分なら見つけられるだろうとその扉を意気揚々と探しに行ったのだが、ついぞ見つけられなかったらしい。
人の世界のど真ん中にあって、人の世界ではない所で商いをしているその店。
入店条件などはないらしいが、その店の常連なり、店員と一緒でないと入れないのだという。
ある意味一見お断りの店だ。
神と親交のある長老たちは「あそこは特別な所だから」と、足を踏み入れたがらない。
なので、そこに行くために一番近いルートは、同族で、その店で唯一の店員に、行ってみたいと頼むことだ。
ボケッとしたやつだから、その頼みを拒むことはないだろう。
しかし、格下、年下、狐によってはかつての恋敵だったりする相手に、頼む、というのはプライドが許さないので、同年代の妖狐はそこに入ったことがない。
俺は特に興味がないので、入りたいと思ったこともない。
「おにーさん、格好いいから彼女いるんでしょ」
「いえいえ、こんな仕事なのでご縁がなくて」
「またまたー」
後輩に想いを寄せる後輩がバーテンに絡みだした。
嫉妬とあわよくば想い人の自分に向いていない想いを壊そうとするたくらみから生まれた行為だ。
酒が入っているとはいえ、なかなか見苦しい。
神の集まる店なら、こういうことはないのだろう。
生まれ故郷の神は大変に威厳があって立派な方だ。
ほかの方々もそうなのだろう。
理不尽に怒鳴るやつも、無理難題を吹っかけてくるやつもいない。
食い逃げとかもいないだろう。
楽な仕事だ。なんであいつばかり褒められるのか。
長老どもの言葉は全く理解も同意もできない。