決戦はクリスマス――耐え抜け、制の12時間(1)/椿
冬の朝は独特です。
冷えて現れた湿気が、床や地表近くに溜まっているのを強く実感できると言いますか。
日が昇るまでの期間限定のこの雰囲気。山の中だと顕著ですね。
冷気が鼻先をくすぐります。くしゃみ出そうです。あ、大丈夫でした。
今何時なんだろう。5時か。もうちょっと眠れる。
玄関のドアが、開く気配がしました。
思いのほか早かった。ファスナーを押し下げる音、とん、と床に降り立つ足音、靴下で廊下をすり足の気配が、こちらへ近づいてきます。
「ん?」
僕の眠る寝室の扉についているメモ書きに気付いたのでしょう。セロハンテープと扉がはなれていく音と共にすり足が遠ざかって行きました。
台所の手元灯の紐を引っ張る音がします。いいのに。部屋の電気つけても。
すり足は再びこちらへ近づいてきます。そうっと、そうっと、ゆっくり扉を開ける気配がしました。僕は目を瞑っています。
静かに、布団がめくられました。
扉に貼ったメモ書きはこうです。
‘おはようございます。
忙しすぎて疲れてしまったので、狐に戻っています。
申し訳ありませんが8時まで寝かせてください
椿’
です。という訳で僕は今狐の格好で、狸寝入りをしているのです。
なんかおかしいですね。他に言いようがないので仕方がありません。
「……おつかれさま、です」
吐息だけで紡がれる、ささやき。疲れるのはむしろこれからなのですが、先にねぎらってもらったということで。頑張ります。僕は頑張ります。
「邪魔かな……?」
そう言いながら小春さんが布団の中に入ってきました。添い寝してくれるつもりのようです。邪魔じゃないです。
僕は布団の真ん中で寝たふりをしていますので、このままだと小春さんの身体が布団からはみ出てしまうかも。
寝相の振りをして、ごろんと転がり、布団の端に寄ります。
「あ、起こし……」
大丈夫です。既に起きております。
僕の迫真の狸寝入りにより、小春さんの心配は杞憂に変わったようです。微笑み交じりの吐息を漏らしながら、僕に侍るように横たわります。
あー。いいにおいする。
でも今、僕狐なので。狐対人間だと、ガツガツ行きたくなるような衝動はないのです。もっと早くこうすればよかった。
「かわいい」
狐の僕は凛々しいと思うのですが、小春さんは僕の事をそう評価します。
「椿さん、すき……おやすみなさい」
小春さんは結構僕の寝込みを襲うのがお好きなようで。
朝早くうちに来て、こうして僕の布団の中に入ってくるのです。危機感はゼロです。女子としていいんですか。
うれしいけど辛い。発情期前の11月も辛かった。
横の妖狐の恋人がただ今発情期間中のため、隙あらばあれこれしてやろうとその身体を狙っている。
とは知らない、危機感ゼロのお嬢さんは早速寝息を立てて眠ってしまいました。
薄目を開けると、どこか微笑んだような寝顔が視界いっぱいに。安心しきっているからこそ委ねてくれているのだという、この現在の関係を守り切らなくてはいけません。
おしたおさない
からだをまさぐらない
しょうどうにまけない
今日の僕に必要な「おかし」の心構えです。
げらげら笑いながら神様共が考えてくれました。あいつら他人事だと思って……クソです。
まあ、対策を一緒に考えてくれたのでこの罵声は心の中にしまっておきます。
作戦は完璧です!8時からのタイムスケジュール組んでありますから。夕食は小春さん家にお邪魔するのですが、5時半に伺う予定です。なので、今から12時間、耐えればいいだけなのです。しかも8時までは寝るという時間稼ぎが出来る。
とりあえず寝ます。疲れているのは本当だし。あったかくて安心するものが傍にいるし。うとうとしてきました。ああ。めちゃくちゃにしてへとへとになって寝たい。
いやいやいやいやいや。しないしないしない。
眠いと判断力と自制心が鈍るので寝ておかないといけません。こんな風に。
頑張って寝ます。羊が一匹、羊が二匹、羊が……
※※※※※
目覚まし時計が鳴りました。8時です。目を瞑ったまま手を伸ばして、時計を……
あれ、あれ。
なんか感触がおかしい。あ、そうか。今狐なんだった。
もうちょっと頑張って手を伸ばさないと時計に届かない。目を開けて立ち上がろうとした所で時計の音が止みました。
「おはようございます」
最初に目に入ったのは、ひざこぞうと太ももでした。なんか見た事ないワンピースを着ています。かわいいです。目に毒です。毒と薬は紙一重ですものね。ああ。この言葉が妙に染みます。
朝日よりも眩しい笑顔の持ち主に、一礼します。そして布団の上にぺたんと座っているそのひとの膝の上を登り、抱き着きます。と言ってもこの前足では抱きしめられないので、実質彼女の胸に飛び込む、みたいな感じですが。
「お疲れなのにすいません」
首を横に振った後、彼女の身体に頬を寄せます。顔の場所が胸部近辺になってしまうのは、僕の体長のせいで下心はないのです。
ああ、やわらかい。癒される。
背中に小春さんの腕が回されます。更に押し付けられる。天国か。
そのあと、顔に頬ずりされました。やばい。思わずぴょんぴょん跳ねてしまいました。
なんか狐だと歓喜を全身で表現したくなっちゃうんですよね。欧米男子か。
「あ、ちょっ、椿さん」
こんななりですが5キロくらいはあるので、跳ねながら飛びついたら小春さんがバランスを崩して後ろへ倒れてしまいました。
やべえ。早くも押し倒してしまいました。ぺこぺこ謝りながら彼女から離れます。
狐だと喋れないので、こうしてボディランゲージで伝えなければいけないんですよ。
細かい所が伝わらなくてね、大変なんですよ。
しかしこの不便を解消する方法を昨日発見したのです!
部屋の片隅に置いてあったスケッチブックまで移動します。もちろんマルマンのやつです。サイズはA3です。しまった。そこを開いておくのわすれてた!
小春さんを見ながら前足でとんとんと表紙を叩きます。小春さんは不思議そうな表情を浮かべながら、僕のところまでやってきます。
そこで片足をなんとか動かして、表紙をめくってくれのボディーランゲージを……伝わりました!流石愛し合う二人。
あーもっと本格的に愛し合いてえ。
あっ、消えろ煩悩。
「これ、これですか……?」
表紙をめくって1ページ目には、ひらがなで50音が書いてあります。
とても美しい筆跡です。センセイのものです。
黙ってお札に字だけ書いて生きてればいいのにあの眼鏡。
床に置かれた50音が書かれたスケッチブック。僕はそれをゆっくり一文字ずつさしていきます。
「ま、だ、つ、か、れ、て、い、る、の……で、こ、の、ま、ま、あ、さ、ご、は、ん、で、い、い、で、す、か……あらあら、大丈夫なんですか、椿さん。す、い、ま、せ……ああ、私は大丈夫なんですよ。お疲れなのにごめんなさい」
通じました!完璧です。
「あのーコックリさんあるじゃろ、稲荷呼び出してひとことくださいキャー!みたいなやつ。あれやればいいんじゃないん。紙に字書いておいて」
「逆に!妖狐からの!直に!うはははは傑作じゃのー!」
その時はかなりイラッとしましたが、有効な方法でした。モロコックリさんのレイアウトでこれを店長さんがこれ書きだした時は殺意がわきましたが、使えます!
ちなみに店長さんは「麗さま直筆でそんなもの作られたら、なにかとんでもない災害か吉祥の何かが起こるからやめて!」と、周りの神様に止められて不機嫌そうでした。
偉い神様は大変ですね。センセイは大丈夫らしいです。へー。
いやしかし発情期終わっても使えそうです。これ。ありがたい。
「ご、は、ん、すー、ぷ、と、ぱ、ん……あっためて、一緒に食べましょうね」
微笑みながら立ち上がる小春さん。あ、今スカート覗けちゃうのでもっと気を付けて小春さん。距離を取って跡をついていきます。
お昼まではこの格好でいようと思います。問題はお昼食べた後です。でも対策は打ってあります。勝てない喧嘩はしないタイプですので。