たとえ心が壊れたとしてもきっと、彼女はその手を離せない/小春
「これはどう?」
「もうちょっと、ハリがあるんです」
「えー。これより?いたくないそれ」
「それが絶妙なんですよ。うう。最近全然触らせてもらえなくて」
「罪な男だねえ」
こんなに真剣そうな顔の先生を初めて見ました。
眉間に皺を寄せて目はじっと目的の物を見つめ続けています。視線の先にはライオンのぬいぐるみです。
先生はその鬣を執拗に撫でています。
勢いでこんな所きちゃいましたが、いいんでしょうか。
ここはおもちゃの百貨店。銀座、博品館です。
なぜこんな所にいるかといいますと、横浜ランドマークタワーの展望台をエレベーターで降りた所に、テディベア屋さんがあったんです。
「ちょっと見てく?」
先生が言い出して、中に入ったんです。先生はぬいぐるみの手触りが好きなのだそうです。
「気持ち良くない?ほら」
満面の笑顔で差し出されたテディベアを抱っこしたのですが、先生のような笑顔にはなれませんでした。
「ごめんなさい、椿さんの方が気持ちいいです」
「ハァ?!」
先生は、椿さんが狐になった姿を見た事がないのだそうです。
「そんなになの?」
「そんなにです」
「超気になるんだけど」
お店中のテディベアをさわっても、椿さんより気持ちのいい毛並みのものはいませんでした。
椿さんの手触りを諦めきれない先生は、ランドマークを出てからタクシーを拾いました。
行先は横浜そごうです。
おもちゃ売り場のぬいぐるみをまた全部試したのですが、椿さんの手触りに勝てるものはいませんでした。
「もう、一番ありそうな所、行っちゃおうか」
そういう訳で、ここにないなら、ない、の博品館まで来ているのです。新橋から歩きです。
横浜から電車に乗った時、先生に狐の時の椿さんの事を聞かれました。
お耳が猫より張りのある絶妙な手触りであること。
午後の縁側で日向ぼっこしていると、うとうとしたのち、お腹を出して寝てしまうこと。
何かをしてあげるとぺこりと会釈してくれること。
くしゃみをするとき手で口を上手に押さえられないので、し終わるとばつがわるそうなこと。
朝、私の頬を肉球でふみふみしながら起こしてくれること。それをしてほしいからわざと寝たふりをすること。
お風呂上りは乾かすと毛並みがつやつやになる事。
たまに尻尾を上下にびたーんと動かすのがかわいいこと。
鳴き声は意外にも「きゃん」であること。
好きなひとの好きな所を誰かに話すのって楽しいんですね。私は止まらなくなってしまったのですが、先生は「うんうん」と真剣に聞いてくれました。
博品館の二階はほぼぬいぐるみ売り場です。どこを向いてもぬいぐるみばかり。それを端から見分しているのですが、椿さんっぽい手触りのものは見つかりません。
「……これもだめか」
「……そうですね」
そういえば狐の椿さんにもなかなかお会いしていません。また一緒に寝たいな。
眠った椿さんが、頭をこすり付けてきてくれるのが、たまらなくかわいいのです。
クリスマスは一緒にいられないけど、お正月はどうなのでしょう。
初詣とか、一緒にいけるのかな。
「もし、小春さんさえよければ、行列に付き合ってもらってもいいですか?」
確実なお出かけの約束は、今のところ一つだけです。
少し、私にとってはかなり遠い、約束。
「小春ちゃん」
頭がほんの少し重くなりました。先生の手が乗っかっています。そのまま、勢いよく撫でられます。髪がぐしゃぐしゃになるほどに。
「なんですか、いきなり」
「小春ちゃんと椿くんだったらどっちが手触りいいのかなって。先に小春ちゃん触っとくね」
「先生、子供扱いしないで下さい」
「えー。子供だもの」
あ、さっきの、大人っぽい。お世辞だったんですね。
やっぱり子供ですよね。私。一緒にいて椿さん、楽しくないんでしょうか。だって、いつか見た、先生と小手毬さんとバーで話していた時のような、気さくで明るい、ああいう顔を見せてくれないのです。
それもそうですよね。子供です。我儘言って、そばに置いてもらって、引っ越しまでさせて。前は通勤時間ゼロだったのに。
私が好きって言い出さなければ、椿さんが私を好きになってくれる事はなかったでしょうし。
もらった言葉の裏付けになるような素敵な思い出が沢山あるのに、なぜだかそれが信じられなくなってしまいそうです。
好きです、なんて、言わなければよかったのかな。
「オレいっちばーん!」
「こら、走らないの!」
その元気な声の方へ視線を向けます。エレベーターからでした。
扉が開き始めた瞬間に、中から男の子が飛び出してきました。元気です。お母さんがそれを追います。元気です。エレベーターの中の人もそれも目で追っています。
「え?」
「あ」
先生と私の声が同時に出たのは、そのエレベーターの一番奥、見覚えのある人がいたからでした。
頭一つ抜けたその人の髪は、ミルクを少しだけ入れた珈琲色。
男の子を横目で追いながら、隣の人と笑顔で話しています。隣の人は背があまり高くないみたい。手前にいる人に隠れて見えません。
そうして、今、椿さんと目があった様な気がします。エレベーターの扉が閉まっていきます。
「……小春ちゃ」
「先生、私、お腹空いちゃいました。中断してもいいですか?」
「……いいの?不安なら、どんな人でどうなのか、見た方がいいよ」
「不安じゃ、ないです。大丈夫」
不安というよりは、どちらかといえばやきもちで。
自分以外の人と椿さんが楽しそうにしているのを見るのが、嫌なのです。
嫌な自分では、椿さんのそばにはいられないのです。