僕がここにいる経緯
落ち着いた所で、おばあさんに何かお礼をしなければいけませんねという話になりました。
近所の妖狐も話を聞きつけてやってきて会議になったのですが
「さすがに現代で木通も栗もないよねえ」
「そうね。そんなものでは薬代になりません」
と、行き詰ってしまいました。
お金も持ってはいたのですがご先祖様が人里で好き勝手していた時代のものなので、貰っても困るでしょう。
少し考えて、母が上等の絹地に金糸で吉祥花菱の縫い取りの入った小さな袋を出してきました。
中に入っていたのは見事な細工の黄楊の丸櫛です。
母は祖母から、祖母は曾祖母からと代々受け継がれてきたものだそうです。
「あなたの命より大事なものはこの世にありません。それを助けて下さった方に渡されるなら、この櫛も本望でしょう」
あなたには必要ないですしね、と母は若い娘のように笑ったのを今も思い出します。
そうして足が治ってから、僕が直接その櫛を渡しに行く事になりました。
道は父が覚えていたので途中まで猫の姿で着いてきてくれました。
教わった通り、呼び鈴を鳴らすとおばあさんが出てきました。
僕の顔を見てびっくりしていました。それもそうです。
僕は頭を打っていて記憶喪失になったこと、あの夜思い出してここから少し離れた家にちゃんと帰ったという嘘をつき、両親は仕事で忙しいのでお礼には来れないがこれを預かってきましたと言って櫛を差し出しました。
受け取ったおばあさんは絹の袋から丁寧にそれを取り出し、すこし固まってしまいました。
僕らからすればとても価値のあるもののように見えますが、時代が変わってもうそんなに珍しくないものなのかも!と、僕は焦ってしまいまして。
「足りないですか?」
などと聞いてしまいました。僕の顔を見ておばあさんは大笑いです。
「何処のお坊ちゃんなのかしら。湿布とご飯だけじゃ余ってしまうわ。こんなに高価なものは頂けません」
と、返されてしまいました。それも困ります。
その時の僕には、他に差し上げられるものがなかったのですから。どうぞ受け取って下さいと押し問答の末、
「実はわたくし、一人暮らしでとても退屈しているのです。ちょっと話し相手になって下さいな。お礼ならそれで十分です」
そう言われて、僕はその家にもう一度お邪魔することになりました。
おばあさんは僕の事をほとんど聞かずに、自分のことを話してくれました。
話に聞く東都というこの国で一番大きな街で学校の先生をやっていて、連れ合いの方をなくされて最近故郷に戻ってこられたそうです。
そうです、おばあさんの事をその日から『先生』と呼ぶようになったのでした。
当時の僕はまだこのあたりから出た事がなかったので、先生の話す東都の話に興味津々でした。
しかし電車が地面の中を走っていて、街の真ん中に山のように大きな塔が建っているなんて言われても見当がつきません。
先生は《写真》を出して来てくれました。
写真の実物を見たのも初めてだったので興奮してしまいましたが、冷静を装いました。
狐とは狡猾な生き物ですから、みだりに燥いではいけないのです。
初めて見るものや聞くものに夢中になって気がついたら夕方。柵の向こうからにゃあ、という声が聞こえてきました。父です。帰らなくては。
「おうちはここから近いのですか?」
と聞かれ、遠いけれど父が仕事の帰りにすこし離れた所に迎えに来ると嘘をつきました。
「もし、あなたさえよければまた遊びに来てもらえませんか」
先生の言葉がうれしくて、内心はまた来たくて仕方がありませんでした。
ですが僕一人では判断がつかなかったので両親がいいと言ったらまた伺いますと言って別れました。
僕の話を聞いた両親は、特に母はあまりいい顔をしませんでしたが結局僕が先生の所へ通うのを許してくれました。
先生は僕にいろいろな事を教えてくれました。
雲がどうやって出来るのか、月はなぜ形が変わるのか、季節が切り替わる仕組みなどです。
最初は週に1回程だったのですが、いてもたってもいられなくなって3日にいっぺんくらいの間隔で通うように。
本当なら学校に行っていなくてはいけないくらいの歳の容姿をしていたのに、先生は何も聞かずに僕を迎え入れてくれました。
僕は先生の教えてくれたものの中で算盤が特に好きでした。
あの音と、珠をはじく感覚と計算というのがとても楽しかったのです。
先生の所に通い始めて3年ほどたった時のことです。
いつものように呼び鈴を押しても先生は出てきませんでした。
おかしいなと思い行儀が悪いのを承知でそのまま家にお邪魔したところ、台所で先生が倒れていました。
呼びかけても返事はなく、どうしようかと迷った挙句ここから少し離れた所にある、先生がいつも電話を借りているお家に助けを求めに行こうと思いつき、走って、走ってその家についてそこのお家の人とまた先生の家に戻りました。
よく覚えていないのですが、いろいろばたばたして、誰かに「ところできみはどこの子だね」と聞かれて、慌てて山に逃げ帰ったのです。
それから毎日先生の家の様子を伺いに出かけたのですが、いくつ季節が切り替わっても、先生が戻ってくる様子はありませんでした。
憔悴する僕を見かねた父が人に化けて、電話のお家に事情を聞きに行ってくれたのですが、先生はあのあと病気で入院して、お子さんの所へ引き取られ、そのままおなくなりになったそうです。
悲しかった。
でもその前に自分を責めました。
押しかけたのが迷惑だったのかも、とか、何で気付かなかったんだろうとか、僕はその時大人に化けられるようになっておりましたので背負って電話のお家に行けばよかったんじゃないかなど後悔してもしきれません。
両親はもちろん、周りの妖狐も慰めてくれたのですが、それでも立ち直ることは出来ず、毎日しょんぼりして暮らしていました。
「算盤の得意な狐っていうのはお前さんのことかのー?」
そう言ってあの人が僕に会いに来てくれたのは確か霧雨の朝の事です。
気配がしなかったのにいきなりその声が聞こえて来て、驚いて振りかえったら一人の女性が立っていました。
この世のものとは思えない、とても美しい人。
彼女は自分の事をとても有名な『神』だと名乗りました。東都で店を開こうと思っていて、勘定係を探しているそうで。
「お前さんが手前の店を手伝ってくれるとありがたいんじゃがどうかのー」
いきなりそんなこと言われても。僕は二の句が継げず困って立ち尽くしました。
そのうちに、近くに住んでいらっしゃる、僕なんか口もきいたことのない有名な神様が慌てて飛んできて彼女に何か色々詰め寄っていました。
「もー決めた」
「立場を考えて!」
「老後の趣味みたいなもんじゃ」
「あのねえ!」
「うるっさいのーひきこもりが」
「ご存じでしょうに私だって事情がですね!」
などと延々言い争いをしていらっしゃいました。
僕はあっけにとられて、そのやりとりを茫然と眺めていたのですが、気がついたらまあ両親に、妖狐はおろか貉ですとか、僕らと仲のよくない狸までそれを見物しに来てちょっとした騒ぎです。
さすがにみっともないと思ったのか、近くの神様のほうが口を噤みました。
女性は僕の両親に向き直りさっきの説明と、悪いようにはしないから僕のことを自分に預けてもらえないかと膝を折りました。
神様がうちの両親に膝を。
「言っている事は本心みたいですが、その人無自覚な破天荒ですから苦労しますよ」
近くの神様が言って、女性につねられていました。目を疑うような光景でした。
本当に有名な方なんですよ。
両親は、僕さえよければお世話になればどうかと言ってくれました。ここにいても辛いばかりだろう、とも。
先生の話を思い出して、行ってみたいと言いました。
「決まりじゃな」
かくして僕は籐の籠に入り、車掌さんにばれないように息をひそめ、特急あずさに乗って東都へ行く事となったのです。
本当に人生って、ああ狐なんですけど。摩訶不思議です。