その甘い一瞬は、劇薬にも似て/小春
暖かい布団の中から、足をちょっとはみださせます。火照って、逆に眠れなくなってしまいそうなので。
冬は好きです。
寒いのは得意ではありませんが、空気が冷たくて、きれいなので。
それを取り込んだ自分もなんだかきれいになれるような、そんな気になるのです。
あと、冬が終われば春が来るから。
肌寒いから、コートなしでは過ごせないけど、寒さに負けずに桜が咲き始めるあの日。
大好きな人に会えるあの一日。指折り数えて待っていました。
その一日の約束が結ばれるまで、私は春が嫌いでした。私の生まれた季節。
小春日和を、春を指す言葉だと勘違いしちゃったんですって。
そっから全部台無しになったんですって。私が悪いんですって。
暗いほうに気持ちを持って行かれそうになります。こんな事は久々。
このまま眠りにつくのは嫌なので、何か、明るくて幸せな事で心をいっぱいにしたい。
「あ、僕も、名前を分解すれば木春になるんですね。おそろい」
椿さんはふしぎ。
私の中の悲しい思い出を、すてきなものに塗り替えてしまうのがとても上手です。
春も、私の名前も。全部、全部。
半月が嫌いでした。
「あれがまんまるになるころ、家に入れてあげる」
そう言って、ベランダに出された事があります。はやくそうならないかな。と、月を見上げていました。その日のうちに月が満ちる事などありません。
いじわるを、されたのです。
「誕生日、解らないんですけど、僕が生まれたのは、ああいう、弓張り月の夜だったみたいです。あ、いまもうこんな言い方しませんか」
見るたびに思い出してちくちくしていたものはなくなってしまいました。子狐の椿さんって、どんなかなって思うと、笑うのを止められなくなります。今でさえあんなにかわいいのですから、子狐さんだったらもう、もう大変な可愛さに違いありません。
銀杏もあんまり。
お隣さんの家に樹があって、落葉の時期に葉っぱが庭に入ってくる事をあの人はひどく、嫌っていました。忘れていたのですが、中学生の時に思い出してしまいました。
うんと早起きした、早朝外苑デートは楽しかったですね。一か月ほど前の事なのに、すごく遠い事のように思えます。
会いたくて、さみしい。
センセイは「あの椿くんがほいほい心変わりなんかしない」って言ってくれて、私も、それを信じたいのですが、どうも避けられているような気がしてなりません。
昨日は窓越しに会えたけど、今日は帰ってくる時間が遅くなるから無理かもだから、寝てくださいって。
そんな書置きが、今朝、椿さんの部屋に置いてありました。部屋はもぬけのからでした。
昨日、言ってくれればよかったのに。
頻繁に会えるようになって、気持ちを受け入れてもらって、こうして近くで暮らせるようにしてくれて、と、椿さんは私の為に色々してくれます。これ以上を望むのは我儘なのに。
枕の下に入れていた電話の子機を引っ張り出します。椿さんの部屋の電気がついたらかけようって思っていたのですが、12時近い今、その様子はありません。お出かけ先から出勤するのかな。それとも電気をつけないまま寝てしまったのでしょうか。
一度だけ、電話、かけてもいいかな。
もう3日、声を聞いていないのです。
合鍵を貰っているので、今、家を抜け出して、椿さんの部屋にいっては駄目でしょうか。
ひとつ望むと、それが転がってどんどん、どんどん、大きくなってしまいます。
あさましくて嫌になります。
いつもの場所に行って、電話を二回鳴らして、窓辺で10分待とう。
そう決めて子機を見た瞬間に、電話が鳴りました。
「―――――!」
落としそうになりながら子機の通話ボタンを押します。あ、心臓どきどきする。
「あの、僕からだとおうちの人起こしちゃうといけないんで」
だからかかってくることはない筈なのに。そうであってほしい。
「は、はい、日向です」
『――ああ、よかった。夜分おそくすいません』
心臓が、はちきれそうです。
人は頭でものを考えるのに、どうして刺激を受けるとここがおかしくなるのでしょうか。
「椿さ」
『今、ちょっと会いに行ってもいいですか。玄関先で終わります』
「お部屋、行っちゃだめですか」
ちょっとじゃ嫌です。テスト頑張ったら、ご褒美くれるって言ってましたよね。頑張ったんです。今、10分でいいから。
ぎゅってしてほしい。
『――遅いし寒いですから。今からすぐ出て大丈夫ですか?インターホンならせないんで玄関ドア、ノックします。それまで鍵は開けないで』
「はい」
そんな提案をする前に決められてしまいました。でも、会える。
電話を切ってベッドから跳ね起きて、あ、髪型大丈夫かな。軽く整えて、おとーさんが起きてきたら邪魔してくるに決まってるから物音は立てないようにして、階段を静かに一気に駆けおります。サンダルを履いて、鍵を回して。扉を開けたけど椿さんはまだいません。
まだかな。
すごく長い時間だった気がするのですが、実際はそんなに待っていないのでしょう。小脇に何かをかかえた椿さんが見えました。
駆け寄ろうとしたのですが、手で制されてしまいました……おとなしく待ちます。
「鍵しめててって言ったのに」
小声で、怒られてしまいました。怒られたのにうれしい。
小脇に抱えた物は毛布でした。椿さんはそれをばっとひろげて、私をぐるぐる巻きにします。あったかい。
そうしてその上から抱きしめられました。
玄関は寒いので、きっと毛布を持って来てくれたのでしょうが、私は身動きが取れません。もどかしい。
背中に手を回して、もっとぴったり抱きつきたいのですが。抱きしめられるのも、抱きしめるのをやめるのも私からは何も出来ません。椿さんの身体が離れていきます。
「ごめんね、ばたばたしてて」
そう言って、椿さんは最近連絡が取れなかった理由を教えてくれました。
とっても偉いらしい小手毬さんのお母さんがこっちに来ていて、椿さんは今、おでかけのお手伝いをしていて忙しいのだそうです。そのための調べ物をするので平日もなかなか時間がとれないこと。
「なので、冬休み中もちょっと会えないかもしれません」
そうですか。
そして、小手毬さんのお母さんは大変若く見えるから、街中で一緒の椿さんが若い女の人と一緒にいるのを見かけたとしても誤解しないで欲しい、とも言われました。
「きれいですけど、おばあちゃんですから。いえ、そのでも溌剌されてて、そう、実の母のようによくして頂いてる方なので、全然そういうのじゃないですから!」
椿さんのお母さん。
血のつながったお母さんはもうお亡くなりになっているそうです。育ての……私のおかーさんみたいな感じなんでしょうか。
会ってみたいな。
でも、偉い方みたいなので、そんな事言っては駄目ですよね。
「わかりました」
「すいません。埋め合わせは必ずしますので」
申し訳なさそうなお顔です。これ以上困らせてはいけません。疲れているみたいですし。
「椿さん」
「はい」
でも。
「あの、好きです」
身動き取れなくても、歩く事は出来ますので。
椿さんの身体に、自分を押し当てます。受け止めるように、抱きしめてもらえました。
さっきより腕の力、強い。
幸せで、崩れ落ちてしまいそう。
見上げると、紅茶色の瞳。くしゃみでもしたのでしょうか、少し潤んでいる気が。
「僕も。とても―――とても」
そうして、おでこにキスをされました。
最後にくちびるにしてもらったのはいつだったでしょう。
記憶を遡るのは途中でやめました。今あるこの幸せな時間を、強く強く覚えていたいからです。