椿さん、申し開きはセルフサービスでおなしゃーす (1)
「水上バスですか?そういえば乗ったことないです。小春さんは?」
「桜の季節に、一度。隅田川をぐーって行くやつに」
ぐー、を表現する為に、僕の胸元まで伸びてきたその手。
ずいぶん大きくなったなあ。昔は僕の手の中に両手が入ってしまうくらい小さかったのに。
大きくなったけどまだまだ小さくて華奢で可愛らしいその手のひらを、下からそっととります。
手と手が触れあった瞬間、彼女の耳がほんのり赤く色づいたのを僕は見逃しません。
「ああ、きれいそうですね」
とった手を引くと、その持ち主もいっしょに僕の方へ近づいてきます。洗濯物を畳んでいるところだったので向かい合わせに近い形で床に座っていたのですが、ぐっとその距離が縮まりました。
もうすこし、近くに。
腰を浮かして膝立ちになって、僕から彼女へ歩み寄ります。
「の、乗るまでの行列が大変、で……したけど」
困惑している彼女を抱きしめて、再び腰を下ろします。途中で体の向きをかえさせて、彼女の背中側から抱きしめる、いわゆる後ろ抱きの状態に。顔が見えにくいのが難点なのですが、密着できるのがいいので結構好きです。向かい合わせに抱きしめると小春さんちょっと苦しそうですし。
「今きっと寒いですよね……もし、小春さんさえよければ、行列に付き合ってもらってもいいですか?一緒に乗りたいです。桜の季節に」
「はい、はい……ぜひ!」
「楽しみですね」
「そうですね……ふふ」
「どうしたんですか」
「なんか、夢みたいで」
「え?」
「だって、今年の春の時は椿さんとこうしていられるようになるなんて思ってなかったから……幸せで」
首を動かして僕を見上げてくる彼女。柔らかい微笑みを浮かべています。
この微笑みの理由が、自分であることが誇らしい。
「小春さん……」
「あ、や、つばきさ……」
「椿?」
「……うーん、ねえ、これからずっとそうよんでくれませんか、ぼくのこと」
「わかった!」
ん?
「母様ー!ほら!呼び捨てでいいそうですよ!」
体が僕の意思と関係なく一度弾みました。沈み込んで、ふわと持ち上がる。落とされながら目を開いた瞬間に、目を閉じていたことに気づきました。
しまった。
組んでいた両手をほどいて、あたりを確認します。今、僕、ちゃんと座席に座ってる。ああ、まだここから浜離宮見える。そんなに時間経ってない。
夢のようだけど現実に起こった事を反芻する夢を見てしまいました。幸せだった。
そしてごめんなさい今水上バス乗っちゃってます。浜離宮から浅草までのコース。でも冬だし、見逃してください。
そんな事を神に祈ろうとしたところで、ろくでもない人々の顔が頭をよぎったのでやめました。ろくでもなくない方もいらっしゃるんですが少なすぎる。
「調子に乗るんじゃありません。茉莉。大丈夫、椿?疲れているのかしら?」
額に冷たい感触。人の手でした。いえ、正確には人じゃないんですけど。
「だ、大丈夫です!よ、夜更かししちゃったんですよ。お恥ずかしい!」
あわてて腰を浮かして、隣に座っている冷たくて美しい手の持ち主から距離を取ります。こんなところ、誰かに見られたら一大事です。
「そう?無理は駄目よ。あなた人に化けるのが上手になりすぎて風邪までひいちゃったんでしょう?この調子でインフルエンザにでもなっちゃったら大変よ。大変らしいのよー?」
大変大変と言いながら、全然大変そうでないご様子です。まあ、この方クラスが慌てふためくことなんて地球の滅亡くらいでしょうか。いえ。その時ですら「世の理には従うしかないわよねえ」とにこにこしていらっしゃいそうです。
「あら、わたくしの顔、何かついてる?」
「ぼうっとしちゃってすいません。いつも通り大変おきれいです」
「母様には父様がいるから、好きになっても無駄なんだぞ、椿」
「馬鹿なことを言うんじゃありません。茉莉。椿から見たらわたくしなんてとんでもないおばあちゃんなのよ。ねえ?」
一本一本が光を内包しているかのようにきらめく黒髪に、しわもしみもない肌、声は歌うようにどこまでものびやかです。そうしてその要素を持ち腐れにさせない、美しい顔立ち。この人何歳でしょうと100人の男性にアンケートしたら100人が「20代」と答えるでしょう。
一緒にいるもうすぐ4歳の黒目黒髪の利発そうな男の子が彼女の実子だと告げたら90人が自分が彼女を一目見たときから恋に落ちていたこと、そして失恋したことを自覚しどす黒い気持ちになるであろう、そんな美女がそんな事言ったら全国のおばさんおばあちゃんからバッシングくらいますよ。
まあ、受け流すんでしょうが。「だって本当のことだもの」などとおっしゃりながら。
そうですよね。「物心ついたときには、まだ、都は今でいう奈良にあったの」らしいですから。
「ご自覚がないようですがまだまだ魅力的でいらっしゃいますよ。堅香子さまは。若い衆には特に毒ですから、その、癖なんでしょうが、相手をじっくり見つめてお話してくださるのをおやめいただきたいなあ、と思っています。光栄なんですけど、恥ずかしくて落ち着きません」
「いやだ。お世辞でもうれしいわ。うちの子達なんか「そろそろ若作りやめたらいいのでは」「そんな姿で母上とか呼べるわけなかろう」とかかわいくないことばっかり言って。椿はほんとうにかわいい」
ころころと笑うその様は、この方が少女だった頃が容易に想像できるかわいらしさです。無理に若作りをしているわけではなくて、性分がおかわいらしいのでしょうね。
千を超える時を生きているとはとても思えません。もちろん人間ではありません。妖狐です。
西の方で有名な妖狐の一族のお姫様で、今生きている狐なら知らないものはいないようなとびきりの大恋愛をして東の名家に嫁がれて、今はご家族で北海道に住んでいらっしゃる女狐さん、堅香子さま。
小手毬ちゃんのお母さんです。
人間バージョンだとあんまり似ていないんですよね。狐だとふたりとも銀の毛並であるということを除いても瓜二つなんですが。
「こいつのどこがかわいいんですか、母様」
堅香子さまの膝の上で不機嫌そうな男の子は、彼女の手によって両頬をむにっと外側にのばされます。
人間の姿で赤ちゃんだったころの写真を拝見したことがあるんですが、たいへん素晴らしいむにむにっぷりでした。そこから大分しゅっとなされましたが、お餅のようなほっぺたは健在です。
「自分がかわいがられたいからって人の事を落とすような言い方をするのはお行儀よくないです。茉莉。今のはそれにあたります。謝りなさい」
「そんなつもりは」
「なくても人はそう思います。謝りなさい」
「……ごめんなさい、椿、さん」
「さん、いらないですよ。あとかわいくないのは事実です」
「ほらー!あと別に俺かわいがられたくないです」
「まあこれは今のお前には難しい話ですね。はいはいかわいいかわいいこちょこちょー」
「ちょ、や、やめ、かあさ……」
母の腕をすり抜けようとするも、百戦錬磨、澄ました顔して中身は豪傑のその方にかなうはずがありません。くすぐられ攻めにされている哀れな幼児、茉莉くん。彼も妖狐です。まだ子狐ちゃんですが。
堅香子さまのお子さんは全部で5人。
長男次男、間が空いて長女の小手毬ちゃん、次女、そしてこの茉莉くんが末っ子。御多分に漏れず茉莉くんは家族からかわいがられまくっています。
かわいいですもの。ええ。
エリート妖狐のお家の子育てはなにやら大変らしいのですがひと段落ついたらしく、堅香子さま子育てお疲れ様の慰労兼、茉莉くんが人の世界で人として振る舞えるかの実地訓練として、東都に訪れているのです。帰る日は未定らしいです。
それで交流があって、都慣れしている僕がご案内役を仰せつかっているというわけで。
堅香子さまも10年くらい前まではこちらに住んでらっしゃったので、案内はいらないような気もするのですが、茉莉くんの遊び相手にちょうどいいとかそういうことなのでしょう。
実際は戦闘力53万じゃすまない方ですけど傍から見たら可憐な女性ですから、いらん虫が寄ってくるんでしょうしその虫除けにいいのかも。
ほかのいいところの若様に頼むとまためんどくさい事がいろいろあるんでしょうし、今皆それどころじゃないですし。適役。確かに適役。僕にとっても。
おかげで今、小春さんと二人きりになる時間が少なくて済みますから。
今までなんともなかったのに、急に海風の冷たさが身に染みてきました。このまま心まで届きそう。
あーあ。
やわらかくてあたたかくて、本当は血と肉じゃなくて世界中の幸せの粒子を集めて作られた何かなんじゃないかと思ってしまうあのかたち。
隣にいられないことがさびしいし、きっとさびしく思ってくれていることでしょう。
そろそろ小春さんに説明しなきゃと思いながら、こう、どこからどうすればいいのかが自分でもわからないんですよね。三本くらい絡まったネックレスを「ねーほどいてー」って渡されて、僕がやったんじゃないのに何で僕が、めんどくさいなーって気持ちになってしまうあの感じに似ています。
考えをまとめたいのですが、お店の仕事をこなしつつ、小春さんの事を考え、休日に堅香子さまのご案内をして、小春さんの事を考え、いろいろ雑務をしながら、小春さんの事を考え、僕の症状が出ない程度に小春さんと接触を図り、小春さんの事を考え、家事をやり、小春さんの事を考えて、としてるとなかなかどこをどうする作業がはかどらないんです。
しかも三日にいっぺんくらい堅香子さまから電話かかってくるんですよね。楽しいんですがお話が長いんですよ。うちの母もそうでした。
女の人はなんでそうなんでしょう。