あらためて誰かに話す機会はきっともうないから、少しだけ詳しめに
筆をとったはいいのですが、はてさて何から書いていいのやら。
思いつくままに筆をはしらせて気がついたら名文が。みたいなことが起こる筈もありません。
支離滅裂にならないように、そして僕のこの気持ちを雫ひと粒分でも取りこぼすことのないような物を書きたいのです。
そうです、まずは記すべきことをなにか適当な紙に書きだしてみましょう。
前の年号が折り返して少したった頃、僕は信州のとある山の中で生を受けました。
「それは、淡く光る弓張月が丁度空の真ん中に上ってきた時だったのだよ」と父から聞かされました。
「あんなにうれしい事はなかったのよ」というのは母から。
それまでも父と母は何度か子を生しておりましたが、その中でも僕は特別な存在です。
両親は妖狐でした。彼らの子供の中で僕だけが妖狐でした。
名前の通り僕らは普通の狐ではありません。
不思議な力を持っていて、人や動物、時には山や太陽など世に存在する色々なものに化けて人を驚かしたりたまにはいい事をしたり、中にはとても強力で、腕試しのために荒ぶる神や鬼を退治するような強力な者もいます。
ですがそれもかつてのこと。
僕らは全く変わりませんでしたが人はどんどん賢くなって、僕らの事を信じないようになってきました。
化けて騙してみても、彼らは幻覚や奇跡ですとかそういった言葉で僕らの行いを片づけるようになります。
「行いを認めてもらえないというのは結構寂しいものなのだよ」と言うのは父。
「人間は自分の欲求のままに他者の領分を侵して行きます。かつて空は、神様や妖怪や鳥たちのものでしたが、仕組みを作ってあの《飛行機》というものを作り出したでしょう。もし彼らがわたしたちのことを《おとぎ話》の中の存在ではなく、実在している事に気付いたら、きっとわたしたちを捕まえてその仕組みを手に入れようとするでしょう」と母。
そういった事を恐れた僕らは人間の前で目立つことを止め、静かに暮らしていく事を選択したそうです。
力を使わないでいた仲間の中にはその方法を忘れて普通の狐になってしまった者もいたそうですが、大半の者はそれを良しとしませんでした。
受け継いだ術を次につなげるために研鑽を怠ることなく、時には人の世に出て何食わぬ顔で過ごしたりして腕試しを行ったりしていました。
しかしやがて、奇妙な事が起こりだします。
妖狐の番いの間から普通の狐が生まれるようになったのです。それは特に術の幅があまりない位の低い妖狐達に顕著に現れました。
お察しの通り、僕の両親は位の低い妖狐です。
父は人と動物に、母は人と植物に化けることが出来るだけです。好きあって添ってそうして生まれた子供達は普通の狐でした。
「もちろん可愛いし、愛しかったけれどもやはり仕組みが違うからね」と、父は寂しそうに笑っていました。
妖狐は狐の身体の時、人間の言葉を喋ることは出来ないのですが、同族同士で人と同じような内容の会話をする事が出来ます。
人間のいうテレパシーというやつに近いのでしょうか。普通の狐とはそれが出来ません。
ですので両親は普通の狐だった僕のきょうだいたちに、身振り手振りで餌の取り方や生きるための知恵を教えました。
そうしてあらかたの事を覚えると、彼らは両親のもとを去って行ったそうです。
一度離れてしまうともうそれきりで、森ですれ違っても彼らは両親の元に駆け寄ってきたりはしなかったと聞きました。
「だから生まれたばかりのあなたから『寒い!』という声が聞こえた時は、本当にうれしかったのよ」
その話をするとき、母はいつも目に涙を浮かべていました。
二人がこの世で一番好きなものの名前を付けてもらった僕は、優しい両親に囲まれこの世の事、人の言葉、妖狐の事、勿論普通の狐として餌をとる方法も教えてもらいました。
変化の術も習ったのですが僕は結局人にしか化けることが出来ませんでした。
その分なのか、すごく長い間人に化けている事が出来ました。普通は疲れてしまうそうです。
「凄い、自慢の子だよ」と両親は笑っていました。
ある日のことです。
まだ小さかった僕は人間の子供に化けて山を歩いていました。
緑の覆いを縫うようにしてさし込んで来る日の光はポカポカと気持ちが良くて、浮かれ気分で足元を確認することをすっかり忘れていました。
足をふみ外してすこし高い所からゴロゴロと落ちてしまったのです。
気がついたらとても開けた所にいました。
人の領域です。
僕はまだ小さいので一人で人里に下りることを禁じられていました。
急いで戻らなくてはと立ち上がろうとした所で、足をくじいたことに気付きました。
痛い。
怪我をしたのは生まれて初めてでした。
余りの痛みに狐の姿に戻ってしまいそうでしたが、人に捕まったら殺されてしまうかもしれません。
気を抜かないように、でも痛くてここから離れることができません。
どうしたらいいのか解らなくて涙があふれてきました。
わんわん泣いてしまいました。狐なのに。
泣いて、泣いて、泣き疲れてあたりが段々暗くなって、どうしたらいいのかと途方にくれてしまいました。
「あらあら、どうしたの?」
声がして、振り返るとおばあさんが居ました。
僕の腫れた足を確認すると「大変」と言って僕を背負って、そうして家に連れて帰ってくれて湿布を貼ってくれました。
どの辺の子なの?とかおうちの電話番号は?などと聞かれましたが、家は森の中の巣で電話はひいていませんとも言えませんから、わかりませんと嘘をつくしかありません。
おばあさんは困ったような顔をして、頭を撫でてくれました。
「一度に聞いてごめんなさいね」
そうして丸くて白い食べ物を、よかったらどうぞと僕にくれました。
お月様みたいなそれはとっても甘くて美味しかったです。
これはなんですか?ときくと、おやきと言うものだと教えてくれました。
「知らないなんてやっぱりこの辺の子じゃないのね」
と、少し考えておばあさんはどこかに行きました。今思えば電話を借りに行ったのでしょう。
すこししてから駐在さんという人が来ました。恥ずかしながらそのときはそういう名前の方だと思っていました。
何か難しい顔で二人でお話して、駐在さんは帰って行きました。
「今日は、ここに泊まって行きなさい」
そうして僕の身体をお湯で拭いて、布団をしいてくれました。
布団というものに眠るの初めてだったのですがそれはやわらかくてとても気持ち良くて、ぐっすりと眠ってしまいました。
そのまま3日ほどお世話になりました。
おばあさんは歩けない僕にご飯を作ってくれて、そして僕は『本』と言うものに出会います。読み書きはすこし教わっていましたが実際それを見たのは初めてでした。
おばあさんが枕元でそれを僕に読んでくれました。
桃太郎とか金太郎などを口伝で知っているだけだった僕には『セロ弾きのゴーシュ』や『注文の多い調理店』などは大変刺激的で、そうして最後に読んでくれたのが何の因果か『てぶくろを買いに』でした。
母の事を思い出してわんわん泣いてしまいました。
おばあさんはあわてて僕を抱きしめてくれました。僕の心中を察してくれたのでしょう。
背中をぽんぽんとたたいてくれました。
「足が治ってからと思っていましたが、明日街の警察署へ行きましょう。捜索届は出ていないけれど、きっとここにいるよりご両親が見つかりやすいはずです」
と,おばあさんは言いました。
難しくてその時の僕にはよく判っていなかったのですが、とにかくどこか遠くに連れて行かれる事はわかりました。
そんな所に連れて行かれたらますます家に帰れなくなります。
どうすればいいのだろうと頭が真っ白になりました。
眠れなくて、お布団の中でぼうっとしていて気が抜けて狐に戻ってしまったのですが、とたんに、頭の中に僕の名を呼ぶ父の声が聞こえ出しました。
凄く小さい声でした。僕も「お父さん、お父さん、お父さん」と、夢中で呼びました。
どんどん近くなってくるのがわかって、いてもたってもいられなくなり人間に化けなおし、だいぶ良くなった足をかばいながら部屋から抜け出して、雨戸を開けて庭に出て、気付かれないように塀の木戸を開け、狐の姿になってまた父を呼びました。
見たことが無いくらいによれよれの父が通りの向こうから現れたのはそれからすぐの事です。
うれしくてたまりませんでした。
父は僕を咥えて駆け出し、朝になる前に家に帰る事が出来、これまた毛並がボロボロになっていた母が出て来て3人で泣きました。
父が泣いているのを見たのは後にも先にもそれきりです。もちろん散々叱られました。