門前仲町小夜曲/きみがそこにいてくれるだけで、世界がとびきり優しく見える
休日の午後のリビングに立ち込めるアールグレイベースの薫り。
テーブルにはその薫りの元である透明な小豆色の液体が4客揃いの柄のカップアンドソーサーにおさまり、焼きたての栗入りガトーショコラ、ホイップした生クリーム添えののったお皿がカップに添うようにそれぞれ並んでいます。
「許可しておいてなんなんだけど、やっぱりよくないような気がしてきたんだ」
向かいには眉間に皺を寄せた小春さんのお父さん。
「……僕もそう思いました」
僕は目頭を押さえてお父さんの言葉に深く頷きます。
血がつながらないとはいえ大切な一人娘をあまり遠くにやりたくないという事からあの物件を探してくれたのでしょう。
大切にしなくては、などと思っていたのですが成程監視には絶好の立地です。
やはりどんなに優しそうでもお父さんというのは心配症なものなのですね。
よくわかりました。
そしてお父さんの心配が的中してしまったというですね。
確かに誠実そうに振舞って、狐になれば愛らしいのに余命いくばくもないというその時点では貶しようもない娘の彼氏が家出た途端に往来で、って言ってもベランダって敷地内だしこのへん高い建物ないから、僕らのいた所を見ようとしなければ見えないのでギリセーフな気もしないでもないですが、それは僕が判断していい事ではありません。
そう、きっとお父さんからすれば『あれはほんのスキンシップですよ?』ですまないレベルで娘の唇を奪っている男の所に、娘を長時間置いておける訳がないのです。
だって、小春さんが、おそるおそるキスとかしてくるから、もっのすごいテンション上がっちゃったんですよ。
「椿さんまで!」
小春さんはちょっと怒っています。
「泊まりなしで、小春さんさえよければ朝ご飯だけ毎日一緒に食べてください。で、休みの日はそれから遊んで、ふつうの門限の時間まで一緒にいてください」
センセイの時もそうでしたが、小春さんが僕の事が原因で怒ってくれるというのはなかなかうれしいものです。
ちょっと口元が緩みそうになるのですが神妙にしていないといけない場面なので僕は神妙そうな顔をして、その提案を口にします。
「ああ、そうしなさい小春」
「絶対やだ!」
「あら週末くらいはいいじゃない」
「母さん!」
何故か僕、小春さんのお母さんからの支持率が高いんですけどなんでなんでしょう。
そんなに僕ってかわいいですかね。
大変ありがたいのですがここはきちんとしなくては。
「いえ、あの、けじめはつけないといけません」
あんまり自覚がなかったのですが僕も結構浮かれていました。いけませんね。
なんかついついノリでさらっとキスとかしちゃってましたけど、あれきっとはじめてですよね。最初した時顔真っ赤でしたもんね。
《僕の提案通りになった事で小春さんは大層不服そうでしたが、こればかりは譲れません。あの状態ですと小春さんを大事にしたいのに、出来なくなる自信がありますから。
やはりこういうのは僕の事情を踏まえたとしても段階を踏んできちんとしたいと思うのです》
隠れキリシタン探し並みに踏みすぎなんですけど、もうこれでいいです。文面から葛藤が伝わるでしょう。
金色のペン先が紙の上を駆け抜けたあとにはちょっとくせのある黒い道筋が。
古臭いと言われるかもしれませんが、どうにも万年筆が好きなのです。
個人的にボールペンは紙にぐりぐりひっかかるような気がするんですよね。手触りがもったりしてると言いますか。
さて今日の分はここまでで終わり。
僕はB5、B罫のノートをそっと閉じます。
これは最初、小春さんへの気持ちをここに閉じ込めるために書き始めたんです。
本当は言いたかった事とかを書きとめる、そう、王様の耳はロバの耳的なつもりでした。結局ばらしてしまったんですけどね。
好きだと伝えて、それからは毎日思ったことを直接彼女に伝えてはいるのですがそれでも足りなかったり、タイミングが悪くて伝えられなかったことをこうして書き留めるようにしています。
このノートには僕から小春さんへの恋心の全てが。
これを彼女が目にするのは僕が居なくなってからの事でしょう。
大人になった小春さんを見て僕がすっかりまいってしまった事や、小春さんのお母さんと初対面じゃない事、冬の日に金平糖を分けた子供が僕だと知ったら一体どんな顔をするんだろう。
びっくりして、そのあと呆れたりして笑ってくれるだろうか。
この一冊が、きみの悲しみを少しでも減らすものであって欲しい。
そんな事を思いながら、僕は彼女への想いを綴るのです。
引出の一番上、吉祥花菱の縫い取りの入った小さな袋だけが入ったそこへ、ノートを滑り込ませでっぱりを元に戻します。
がらんとした部屋に鳴り響く、電話の電子音ツーコール分。
さっき決めた合図が早速。
にやにやが止められずに、僕は立ち上がってベランダのガラス戸を開けます。
冬の始まりのにおいを静かに吸いこみながら視線を斜め下に。
道路を挟んで真向かいが梅の木のある平屋のお宅。奥におうちの2階部分が見えます。
その2階の窓から身を乗り出すようにして、こちらに手を振る人影がひとつ。
月明かりに照らされて微笑む僕のこいびと。
つられるように僕も手を振りながら、その美しい光景を心のいちばん深い所にしまい込みます。
こんな素敵な物を独り占めできるなんて、本当に僕は恵まれていると思うんです。
浮き立つこの気持ちを抑えきれない僕は思わず、この世で最も素敵だと思うあの恋の歌をそっと口ずさみます。
もちろんご近所迷惑にならない程度の、音量で。