門前仲町小夜曲/狐、軽く謀られる
【1994年11月】
ジンとライムジュースが両手の中で縦長の渦を巻きながら混ざり合っていきます。
勿論ライムジュースはローズのやつですとも。
華奢なグラスの中できらきら光るきれいな薄い碧色。
僕はそれを目の前の小手毬ちゃんに差し出します。
「ど、どうぞ」
小手毬ちゃんは少しお怒りのご様子です。そうだよね。
「……で、何でいきなり同棲する事になったの?」
うん。僕もね、未だに、よくわからないんです。
体調を崩してあれからセンセイの持ってきた人間用の薬は問題なくきいて、寒気もなくなって3日くらい安静にしていたら元に戻りました。
まさかの風邪でした。
人間って、毎年あんな病気にかかるものなんですね。大変ですね。
小春さんは学校が終わってから毎日通って来てくれて、ご飯作ってくれて、また狐状態で洗って貰ったりしてしまって至れり尽くせりで何だか申し訳ないくらい。
完全回復が金曜の夜だったので、土曜日はお礼にどこか行きましょうってなってですね。
ちょっと下調べなどして、久々に夜更かしして、10時に待ち合わせだから9時に起きればいいや、とめざまし時計をかけて寝たんです。
時計の音で目が覚めて、薄目をあけたらそこには小春さんが。
物凄く思いつめた表情で「あの、椿さん、狐になって下さい」って言われて、寝起きで意識朦朧としていますし、真剣な小春さんかわいいなー、でも何でいるんだろうとか思いつつも布団にもぐりこんで狐に戻ったんです。
あ、頭からつま先まで隠れていないと化けられない仕組みなんです。僕ら。
で、布団をかき分けて外に出たら小春さん、なんか悲痛な顔してて、あわてて小春さんの傍らで立ち上がって手でこう、小春さんの腕をそっと抑えたんですがその瞬間に
「ごめんなさい!」という声が聞こえてふわっと体が浮いたと思ったら、あたりがちょっと暗くなりまして。ファスナーの閉まる音であ、鞄に入れられたんだと理解しました。
色々な疑問符が浮かんではいたのですが、鞄の中って籠より足元がおぼつかなくて楽しいなどと思い、ふやふやする鞄の底を脚で押したりして遊んでしまいました。
なかなか楽しかったです。
その後音から電車に乗ったなというのは解ったのですが、ファスナーを少し開けて、小春さんの手が僕の耳の裏を絶妙な力加減でこしょこしょし出したので、気持ち良くてうとうとしてしまいました。
起きたら座布団の上でした。
え?と思ってあたりを見回すと小春さんが「ね?」と僕ではない方向に語り掛けています。そちらを向けば、ああなつかしい。小春さんの里親さんです。
今はお母さんと呼んでいるみたいですね。隣の男性は見たことが無いのですがおそらくお父さんでしょう。優しそうな方です。
ただ二人共目を丸くして僕の事を見ています。
そうですよね。都内に住んでて娘が狐連れて帰ってきたらたまげますよ。
一体どういう事なんですかと小春さんのほうを見ますと、小春さんは真剣な顔で
「椿さん、私の喋ってること解りますよね?」
と、当たり前のことを聞いてきたので普通に頷くと「あら」「おお」という声が。
何やら恥ずかしいのでそちらは振り向けませんでした。
そうこうしてるうちに小春さんが僕を抱え上げて僕をその部屋から連れ出しました。
長い廊下の途中にある階段を上がり、二階の角の部屋へ。
きちんと片付いた洋室にはベッドと勉強机が。小春さんの部屋なんでしょうね。
ベッドの上に僕を下ろした小春さんは布団に顔をうずめた後、申し訳なさそうに口を開きました。
最初に看病してくれた日、センセイが薬を取って戻ってくる時点で「あとはボクが診てるよ」と言ってくれたので小春さんは心配そうにしながらもそこで帰ったのですが、小春さんが倒れている僕を発見したのが月曜日の夜で、センセイと交代したのが火曜日の夕方だったそうなんです。
つまりあそこに一晩いたという訳で。
嫁入り前の、お嬢さんが!
一応僕の寝ている間にお店から家には連絡をしたものの、火曜は当然学校にも行っていませんし「どういうことなの?」とご両親に尋ねられて、なんとかごまかそうとしたもののうまく行かなかったそうです。
そうですよね。身よりはすでになく、職場の関係者は全員出雲、実際は風邪だった訳ですけれどいつ死ぬかわからないという、人間に変身できる狐の看病をしていましたってどこを、どう、ごまかせばいいのか僕にもわかりませんとも。
で、正直に話したら「嘘おっしゃい」みたいな流れになり「ほんとだもん!椿さん狐だもん!嘘じゃないもん!」となり。
生憎僕には素敵な冒険を提供できる能力がなくて本当に申し訳ない限りです。
いえ、今はどうでもいい話です。
結果、論より証拠という事で僕は小春さんの家に連れて来られたということでした。
小春さんは僕に平謝りでしたが、むしろ謝らなくてはいけないのは僕のほうです。
とりあえずご両親にちゃんと謝らなくてはと思い、今にも泣きそうな小春さんの顔に頬ずりをし、 僕は小春さんのベッドにもぐりこんで人に化け直しました。
ええと、ちゃんとした格好じゃないとと思いスーツにしてみて、真面目感を出すために眼鏡なども着用してみました。第一印象は大事です。
「これ、誠実に見えますか?」と聞いたら小春さんは頭がとれちゃうのでは、と心配するほど縦に振ってくれて、えーそのままさっきの居間に戻ってですね。
まさかこんな形でかの……彼女でいいんですかね……話に聞く彼女の、ご両親に、御挨拶をですね……ああ、思い出すだけで恥ずかしい。ええ。しました。
狐が人間になって帰ってきたんですから、それはもうビックリなさっていました。
聞かれるままにすべてお答えし、最後に僕の命数が残りわずかである事、それでも小春さんと一緒にいたいので、このまま交際することをお許し頂ければとお願いしました。
冷や汗出ました。
お叱りを覚悟していたんですがなぜかお母さんが号泣しだしてですね。
えーと、ごんぎつねで泣いたクチだそうです。
因みに泣きはしませんでしたが、お父さんも兵十さんに憤りを感じた事があったそうです。
いやでも実際の普通の狐はね、迷惑かけてると思うんですよ?
多分生のうなぎはたべないんですけどね骨多いですし。などと思ったのですが水を差すのも何なので神妙な顔で大人しくしておきました。
センセイだったらべらべら茶々入れるんでしょうね。あの人は本当に空気読めない。
そうこうしていたら、何故か「そういう事情でしたら、一人暮らしも不安でしょう。うちに住んでここからお店に通えばよろしいんじゃないかしら?」などとお母さんが言い出してですね。
びっくりしました。お人よしにも程があります。
こんな得体のしれない狐を、むやみやたらに家に入れてはいけませんと固辞したんですが、「あらでも今後こういう事があったときどうなさるの?」とお母さん引かず。
小春さんは僕の袖を引っ張って、僕の事を無言で見つめてきます。
倒れてから毎日小春さんと顔を合わせていて、今月いっぱいはお店がお休みなので、小春さんが許してくれる限り学校が終わってから非常識ではない時間まで一緒にいることが出来るでしょう。
でも来月からは僕の休みの毎週日曜と大安のどこかで会えるだけです。
そんな日々、想像しただけで寂しいです。
平日とか電話していいんでしょうか。ああでも僕の仕事が終わるの夜中です。
休憩時間……?というかお店の電話使う訳にもいきませんし電話線をひかないと……あれこれ、なんてグーチョキパン店?ああ、また脱線してしまいました。
そりゃ、毎日小春さんと一緒にいられたら素敵ですが流石にそれは気まずいです。
でもきっと足りない。どうにか一緒にいられたらいいのに。
「……小春さん、僕が部屋とか借りたら、遊びに来ます?」
元々、僕に会いに来させるためにセンセイが《紹介状》を渡したんです。
こういう感じになった以上お店に小春さんは来させたくありません。からかわれますし。
僕のいない間の僕の部屋に小春さんが来て、僕の作っておいたおやつとか食べたり、お礼の手紙とか書いておいてくれたり、あわよくば冷蔵庫の中のものを使って僕のためにご飯とか作っておいてくれたらちょっといいかも。
と、そこで視線が僕に集まっていることに気付きました。
は。しまった。
「あああ、勿論泊まりとかはなしです。やましいことは、考えていません!」
いえ、考えていましたけど。
そういうのはさすがにちゃんと段階を踏んであれです。はい。
「で、椿くん家に小春ちゃんが週4で通い婚。このご時世に」
かいつまんでの説明をしながら僕は笑いをこらえている様子の先生の前に、いつものやつを出します。
こん、じゃないですこん、じゃ。
なんか信用されてしまって、小春さん水、金、土、日はうちに泊まる事に……。
小春さんは水金土は家でご両親と晩御飯を食べてから、小春さんの家に近い僕の部屋に来て泊まって行って朝ごはん食べて学校にいったり僕と過ごしたりという生活をすることにですね。はい。
「あれ、でもあのへんて狐用の物件ないよね」
「そんなのあんの!?」
「ありますよー先生。だって普通に借りれないでしょ」
「こう、ちょちょいと術で」
「神様じゃないんだからそんな事できないんですよ。先生」
そうなんです。何百年前くらいからうまーく人に混ざって戸籍を持ってる妖狐の一族っていうのがいくつかありまして、大体みんなそこが管理する物件にお世話になるんです。
「なんか……近所に空き物件のある大家さんと小春さんのご両親がお知り合いで」
「え?そこまで妖狐だってばらしたの!?」
「いえ……なんていうか………僕、余命幾何もないんで最期の時を小春さんと過ごすために夜、病院を抜け出してくる設定に……大家さんも結構お年なのでコロッと信じて戴いてしまって」
設定っていうかまあ、概ねあってますし。ここ見た目はみなさん若いですが老人介護施設みたいなものですし。ああ、言葉が悪かったです。
「で、借りる名義は小春さんで、家賃光熱費僕持ちという事に落ち着きました………」
「むちゃくちゃねー」
「堂々としてるほうが逆にバレなかったりするしねえ。それにしてもいつ引っ越したの?」
「あ、今日からです」
11月頭から借りて、家具とか配置してやっと人が住める状態に。5日もかかってしまいました。
「へー」
「10月中いなかったじゃない。飲みに誘おうと電話したのに留守電だし」
「それは……あの……小春さんちに何故かずっとお世話にですね……」
「「えっ」」
そうですよね、それもびっくりしますよね。
その新居の事が決まって一旦お暇しようと御挨拶をしたら、事務処理とかなんだかんだ結局小春さんの家に通うんだから、お店休みなんだしうちにいなさいと小春さんのお母さんに引き留められてしまいまして、断れず。
そのまま半月以上お世話に……。
もちろん生活費とかを出すみたいな事を言ったんですけど「小春の恩人ですから」と、つっぱねられてしまいまして。
とりあえずお世話になるからには、お母さんの家事のお手伝いなどをしたり、お父さんの将棋の相手とか……あ、お父さんマリオ好きなんでけっこう早めに打ち解けることが出来ました。
マリオのクリアタイムトライアルに徹夜で挑んだあげくセンセイがテンション上げ過ぎたせいでセーブデータが飛んで「椿くん……諸行、無常だね」って原因あなたですよね。っていう「さすがにセーブデータは飛んで行かなくてよかったんだけど。ボクここにいるし」とかもうどうしようもない事を言いだして苛々したあのまっったくもって無意味とも思える経験がこんな所で役に立つとは。
人生って解らないものです。
そんな感じで初の人間と共同生活どうなる事かと思いきや、意外と居心地は悪くなかったんです。おそらく気を使っていただいたんでしょうし。
こんなどこの山の狐ともわからない僕に良くしていただいて、本当に感謝しています。
ですが何と言いますか、不服というのもなんですが小春さんが「椿さん、一緒に寝てくださいね」とか言い出して「えええ?」ってなるじゃないですか。
マスオさん的なイントネーションで。
僕だって人間の振りして生きていますから、それがどれだけ非常識な事かくらいは解っているんです。
ので、当然「無理です、できません」と突っぱねたらなんだかあからさまにしょんぼりしてしまって、ええ本当にもう僕は小春さんのそういう顔に弱いんです。
仕方がなく、夜は狐になって小春さんと寝ることになったんですけど、なにやら狐の姿の僕って……かわいいらしいんですよ……。
寝るときは人の姿のまま小春さんと一緒に、小春さんの部屋に入る訳にはいきませんから、1階のお手洗いをお借りして、そこで狐に戻ってジャンプしてノブにぶら下がって自力でドアを開けて廊下に出るんです。朝は逆です。
その狐のままお手洗いのドアを開ける姿というのがかわいいらしくて、廊下の向こうからその様を覗かれたり、たまに小春さんにまたお風呂で洗ってもらったりして、ブラッシングしてもらったり……あ、さすがにもう声は我慢できます。
で、えーと……そうドライヤーとブラッシングしてもらっていたんですが、そこにお母さんがやって来て小春さんに「小春―お母さんと交代してっ♪」とか言って内心ええええ?って思ったんですけど、お世話になってるし拒否できずされるがまま……
しかもお母さんのブラッシングは、小春さんより豪快でこれもまたなかなかいいんです。
なんかそういう家系なんですか日向さんちは。
ブラッシングされると眠くなっちゃうんですよね。
で、寝ちゃうと居間に運ばれて、小春さんがお風呂あがってくるまで座布団の上に寝かせておいてもらえるのですが
気が付いたらお父さんに撫でられている事が結構多くてですね…!
これ起きたら気まずいなと思って寝たふりをすること数知れず!
しかもお父さん、なんかそっと触ってくるからくすぐったいんです。
こらえて寝たふりをするのがすごく大変でした。
そんな訳で古から嫁姑問題で争いの絶えないこの国において、僕は彼女の両親にマスコット的な意味で大変に気に入られる、というなんだかわからない状態になってしまいまして。
うわさのひとりだけ台所でご飯、ですとか「貴様に娘はやらん!」みたいな状態より、はるかにましだって解っているのですが、いい歳して可愛がられるっていうのも複雑です。
自分では結構精悍な狐だと思うんですよ。
耳とかすごいピンとしてますし足長いし。
解せない。
「椿くーん?」
あ、いけません。考え込んでしまいました。
「はい、何ですか」
「三日目は勿論お餅、食べたんでしょー?」
一度でいいからこのニヤついた顔がムカつくセンセイの事を、ビール瓶で殴りたいんですよね。もちろん本物ではなくてあの飴でできてる撮影用のやつでいいんです。
死ぬ前に一回やろうと僕は決心するのでした。
ちょっとかわいそうなので「もうそんな風習ないんですよ。時代遅れです」という台詞は飲み込んであげます。
若いつもりで調子に乗っていますが、僕から見ればあなたも十分お年寄りなんですよ。
センセイ。