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門前仲町小夜曲  作者: ろじかむ
門前仲町小夜曲
32/155

いと惑う六回目/→きみをおもうよ、いとしいひと

「あれ、小春……ちゃん?」

 呼ばれて見上げるとスーツ姿の素敵な大人の女の人が。小手毬さんです。

「こんばんは。椿さんならお店にいらっしゃると思いますよ」

 椿さんと同じ妖狐で、大人で、かわいくて、きれいな小手毬さん。

「え、あなたをこんな所に放っておいて?」

 あまり顔を見たくなくて、私は雑誌に目を落とします。

「私が勝手にいるだけです。椿さんは知らないんです」

 小手毬さんはすとんと私の横に座ります。大人の香水がふわり。

「……喧嘩でもしたんー?」

「付きまとい過ぎて、椿さんを困らせてしまいました」

「椿が?」

「はい」


 あんまり、この話はしたくありません。

 小手毬さん、早く行ってくれないでしょうか。


 意味もなく雑誌の文字をなぞります。恋のメイク特集ですって。

 小手毬さんはしばらく隣でじっとしていて、そのあとばっ、と立ち上がって私の頭にぽんと手を置きます。

「ちょっと、ついておいでなさい」


 なんだかわからない間に、無理矢理お店に連れて来られてしまいました。


「あれ、珍しい組み合わせじゃなーい」

 声をかけてくるセンセイを完全に無視した小手毬さんは、店内を見回して私をテーブル席に引っ張って行きます。


「おやこんばんは。美人さんがお揃いで」

 そこにいたのは知っている人というか神様でした。

 ロマンスグレイのおじさま、という表現がぴったりの常連さん。

 私の家の近所の神様です。

 といってもうちの周り結構色々あるのでどこの方かはわかりません。

 知らないほうがいいそうです。

「あの、確か姿を消すことが出来るんですよね?自分以外も」

「できますよ」

「小春ちゃんは?」

「勿論」

「ちょっと消してもらえますか」

「いいですけど……消すのに手、つながなきゃいけないんだけど、おじさんとでいいのかな」


 私は何が何だかわからなくて、小手毬さんと近所の神様を見比べてしまいます。

「減りはしないんだから、つないでおきなさい」

「は、はい」

 何だかわからないまま、差し出された近所の神様の手を取ります。

「おおー」

 小手毬さんがきょろきょろしています。カウンターの中で店長さんが私をじいっと見て手を振ります。店長さんには見えているのでしょうか。

「声は消せないので、お静かに」

 そう言って近所の神様が私にウインクします。


 小手毬さんはカウンターに向き直って先生のほうへ。

「で、椿います?」

「さっき戻ってきたよー」

「じゃあ先生、呼んできてくださいよ」

「えーピリピリしてたからやだよー」

「その空気読めない感じを今使わずにいつ使うんですか。ほら、行って!」

 小手毬さんは仁王立ちでピッ、とお店の奥のドアを指差します。格好いい後姿です。

 先生がしぶしぶと嫌そうにだらだらと立ち上がり、ドアを開けて、向こう側へ消えてゆきます。


『ねーねー椿くーん!あっそぼー!』


 などという能天気な声と、ぼそぼそした椿さんの声が聞こえてしばらくした後、先生と一緒に椿さんが出てきました。

 お店を見回しています。

「あれ、三四郎さんは?」

 三四郎さんは私の隣で悪戯っぽく笑う近所の神様のあだ名です。

 いつも思うのですが何で表計算ソフトなんでしょう。

 ばっちり椿さんと目が合ったのですが、椿さんは私に気付いた様子はありません。


「あー、夜風にあたってくるって」

「珍しいですね。あ、小手毬ちゃん。こないだありがとうございました」

 いつのまにかカウンターに座っていた小手毬さんが椿さんに向かって片手をあげます。

「んー」

 椿さんはその隣に座り、その隣に先生が座ります。

「まあ機嫌直してよ椿くん。一杯奢るよ?」

「……そうですね。センセイにはじゃんじゃん驕って頂いて久しくなっちゃえばいいと思います。店長さん、電氣ブラン、ダブルで下さい。今日ビール何でしたっけ」

「ハートランド」

「じゃ、それもチェイサーで下さい」


 いつもの椿さんの口調なのに、椿さんじゃないみたいです。そして何をしゃべっているのかちんぷんかんぷんです。こないだって何の事でしょう。

 三人でしているお話は私がわかる内容の事もあったり、まったくわからない事もあったりで色々です。椿さんは楽しそうです。


 そうです、昔はあんな感じで、沢山楽しいお話をしてくれたのでした。

 遅すぎず早すぎず、言葉の一つ一つを大事にするような椿さんの喋り方が、私はとても好きなのです。

 いいなあ。これが本当のお友達、ってやつなんですね。


「そういえば話変わるけど、さっき小春ちゃん見かけた」

「そうですか」

 小手毬さんの言葉に椿さんの顔と声が急に暗くなりました。

 グラスを手に取って、椿さんの瞳と同じ色の飲み物を飲んでいます。

「……泣いてました?」

 小手毬さんはちらっと私を見ます。なんだかびっくりしてしまって今日、一度も泣いていないのです。慌てて首を横に振りました。

「子供か、ってくらいしゃくりあげて泣いてたけど、走ってっちゃったから追いかけられなかったわ」

 あ、でも小手毬さんからは見えないんでした。

「そうですか」

「……まさか、椿くん、とうとう犯罪」

「店長さんテキーラのボトルください」

「ん」


 店長さんから瓶を受け取った椿さんは、まだ中身の入った先生のグラスに、それをなみなみと注ぎます。

「あー!」

「趣味が覗きの神様が何言ってるんですかー?」

「小手毬ちゃんまで!」

 ああ、やっぱりこの間のそうだったんですね。先生。

「……こないだあえて突っ込まなかったけど椿、あの子の事好きよね?」

「…………」

 椿さんは人差し指でグラスの淵をなぞっています。

「……そうですね。好きです」

 それは飛びあがりたいほどうれしい言葉のはずなのに、どうにも胸がちくりと痛みます。

「でさー、小春ちゃん、椿くんの事好きじゃん」

「そうですね。でも小春さんもうここには来ませんし、会う事もありません」

「……なんか泣くような事、言ったの?」

 椿さんはさっきみたいに笑っています。いつものふわっとした感じではありません。

「すごいひどい事を、言いました」

「なんで突き放すかなー。そこで!」


 先生は椅子から大きくのけぞり、片手で目をこう、かくします。ハリウッド映画の俳優さんがやるオーバーリアクションみたいです。

「本当、センセイしつこいですよ」

「しつこくもなるよー。麗ちゃん柚子と塩ちょーだい」

「ほれ」


 先生は唇を尖らせながら手元で柚子と塩をなんかやったあとに……あ、手を噛みました。

 そうしてグラスの中身を半分ほど飲み干します。儀式?


「思い出しただけで腹立つから思い出したくないんだけど、ボク昔人間だった訳さ」

「え、そうなんですか」

「そーだよ。小手毬ちゃんちのご両親より年上だからね。敬って―超敬ってー」

 身を乗り出す小手毬さんを見て、先生は唇をとがらせます。

「でだね。やり残したことがあったまま死んだのさ」

 先生は眼鏡を外して、耳にかける所を持ってくるくると回します。

「結局生き意地汚かったから死んだ後にひと暴れして、やり残した事も予想以上の成果を出してやりきれた訳だけどさ、死ぬ瞬間はそんな事出来ると思ってなかったから思い残したことを延々思う訳だよ。でも身動きとれないじゃない。あれぞ生き地獄だよ」


 先生は私のほうを見てにやりと笑います。


 見えているのでしょうか。なんだか背筋がぞっとするような冷たい笑い方です。

 頭の上にぽんと手を置かれて、見上げれば三四郎さんが困ったように笑っています。

「椿くんなんかさー優しいし、あれ、妖狐って死んだ後も化けて出れるの?」

「そういうのは聞いた事ないですねー」

 答えたのは小手毬さんです。

「そーなんだ。仮に僕らの発生するプロセスと同じように化けて出れるとしても、多分小春ちゃんに触れることは出来ないし見てもらえないし、声も聞こえないと思うよ。それって相当歯がゆいと思う」

「…………」

「一度しかないんだから、パーッとやりなよ」

 組んだ両手に、額を押し付けたまま椿さんは動きません。

「…………」

「……センセイ、恋人いらっしゃったんですか」

 それは空から落ちてくる雨の、最初のひとしずくのような声でした。

「いたよー。っつーか妻と子供がだねー」

「うえええ!?その感じでですか!?」

 ええ、私も、小手毬さんと同じ気持ちです。

「そーだよ」

「まだ小さかったでしょう」

「あ、この見た目と死んだ年齢違うからね。一番下あれどっちだっけ。とにかく元服か裳着かどっちか済んでたはずだけど」

「えーこんなチャラついたお父さんいやですねー」

「小手毬ちゃんひどくない?ボクだってちゃんと蹴鞠とかで遊んであげたからね。最近の企業戦士頑張る!みたいなお父さんより子煩悩だったからね!」

 想像が出来ません。


 そのやりとりを見て、椿さんは笑っています。

「じゃあ、あんまり参考にならないじゃないですか。センセイ」

 椿さんは大きく伸びをして、グラスのビールを飲み干します。

「ほら、前に話したじゃないですか。センセイとは似ても似つかない先生の話」


 ―――――私の知らない話です。


「ああ、聡明な老婦人」

「あー、おやきのおばあちゃん」

 お二人は、知ってるんですね。

「小手毬ちゃんソコ?」

「いや、ごはんは大事ですよ?」

 むむむ、と睨みあう先生と小手毬さんを見て、椿さんはふわっと笑います。

「……まあ、どっちもですよ。先生はケガした僕を助けてくれて、おやき食べさせてくれて、で色々教えてくれた恩人です。僕は小春さんに何にも教えたりしていないですけど、ちょっと僕と小春さんに似ているでしょう?」

「まー、そーね」

「その先生が亡くなったって聞いたとき、僕は大変悲しかったんです。先生との思い出を思い返して、何かしてあげられることが出来たんじゃないかって後悔ばっかりです」


 そういえば私はまだ、親しい人を亡くした事がありません。

 祖母とか、いたのでしょうか。

「両親の事もそうです。覚悟は出来ていたので、その時は意外に平気だなと思ったんですが、やっぱりじわじわ来ます。寂しいのと、もう少し帰ってあげればよかったとかそういう事がね。頭の片隅から離れないんですよ」

 更に「残される側って結構つらいものなんですよ」と椿さんはぽつりとつぶやきます。

 先生も小手毬さんも何も言いません。


「自惚れみたいになってしまいますが、小春さんにとってただでさえ命の恩人の僕が恋人になったとして、つかの間の幸福な日々を過ごしてそうして僕を失った後の悲しみって一体どんなものなのでしょう。想像もつきません」

 椿さんはいつもみたいにふわっと笑ってグラスの水滴をテーブルへ落とします。

「まだ、16歳です。しかも普通の16歳より辛い目にあってるんですよ?彼女自身に何の落ち度もないのに。ようやっと普通の暮らしが出来るようになったのに、そこに僕がまた影を落としてどうするんですか」

 椿さんはカウンターにぐにゃりと突っ伏して

「これでいいんですよ。これで」

 静かにそう、呟きました。


 そのあと私は三四郎さんの手をそっと引いて、お店を静かに出ました。

 店長さんは何か言いたそうにしていましたが、会釈だけして出て来てしまいました。


「たまにはおじさんとのデートは如何かな」

 そう言われて、三四郎さんとすこしお散歩することにしました。


 歩きながら椿さんの話を聞きました。

 さっきの『せんせい』のお話ですとか、椿さんの出身の事

 お店が店長さんだけで回せなくて椿さんが駆り出される羽目になった事

 千鳥ヶ淵で歩きながら本を読む椿さんを発見した先生が驚かそうとした結果、驚かせすぎて椿さんは文庫本をお堀に落としてしまった事……先生……!


 穏やかで、やさしい今の椿さんからは想像のつかないお話ばかりでした。


 椿さん。


 なんだかとっても椿さんに会いたくなって、

 そうして椿さんはそれを望んでいない事を思い出しました。


 三四郎さんとは茅場町でお別れして地下鉄に乗り、それから最寄駅を通り過ぎて清澄白河まで乗り越しました。


 駅からすぐの清澄公園は、幼いころの私と椿さんが年に一回だけ会う時の待ち合わせ場所でした。


『では、お昼ご飯を食べてから、1時に藤棚の下のベンチで待ち合わせましょう』


 私は毎年待ちきれず、友達と遊びに行くと嘘をついておかーさんにお弁当を作ってもらって11時ごろからそこで椿さんを待っていました。


 もしかしたら椿さんが早く着きすぎることがあって、もう少し沢山お話しできるかも。などと思ったんですね。

 椿さんはいつも1時ぴったりに現れて私を見つけると小さくお辞儀をして、私の目線に合うようにしゃがんでくれて「お久しぶりです、お元気でしたか?」と、静かに微笑みながら話しかけてくれるのです。


 沢山お話をして、3時半にお別れ。別れ際に

「そういえば、貰い物で恐縮なのですがもしよかったら、どうぞ」

 そう言って椿さんは私にお土産をくれるのです。

 よく考えれば男の人の椿さんがハンカチや練り香水を貰うはずはないのです。

 5年生の夏にそれに気づいて、なんだかおかしくなってしまいました。

 もしかして椿さんが私のために選んでくれたのかなと思うと、その場面を想像するだけでひどくくすぐったい気持ちになるのです。


 幸せな思い出です。


 そうこうしているうちにもうすぐうちです。


 まだ、帰りたくないので深川公園まで足を延ばします。

 日もすっかり落ちて静かな公園。

 誰も乗っていないので久々にブランコに乗ってしまいました。立ちこぎです。一番地面に近い所で膝を曲げて伸ばす。

 景色が上へ下へと切り替わるのをぼうっと眺めます。

 前へぐっと進む感覚が好きなのですが、進みきって後ろに引き戻される感覚が苦手です。

 なにか後ろに怖いものがいて、無理やり引っ張られるかのようなぞっとする感じ。


 あ、そういえば。


 椿さんはこの後ろの街路樹の陰で、お巡りさんに話しかけられていたのでした。

 もしかして通りすがりに私かも、と気づいてのぞいていたりしたのでしょうか。

 そうだったらいいのに。


 街灯に照らされる枝ぶりの立派な木蓮。生垣を抜ければ縁側のある2階建て。

 それが私の家です。

 ドアを開ければ明るい廊下。座りながら靴を脱ぐと「今日は遅かったのね」とおかーさんが笑顔でリビングから出てきました。

 きっと今日のことを聞きたいのでしょう。ちょっと悪戯っぽく笑っています。

「おなかすいた」


 そのまま話す気にも嘘をつく気にもなれなくて、私は笑ってごまかしてリビングに。

 おとーさんが「おかえり」と声をかけてくれます。

 本当の両親ではありませんが、2人共私にとてもよくしてくれます。

 あたたかいご飯。

 幸せな家。

 前にいた家の扱いを考えれば本当に天と地の差です。


 ご飯を食べ終わって自分の部屋に戻って、机の3番目の引出を開けます。

 私の宝物入れです。

 椿さんからもらったもの。

 椿さんと行った映画の半券。

 椿さんのこと知りたくて、聞いた話は書きとめようと小さなノートを春に買ったのですが、結局ほとんど空白のまま。

 そして今日のチケットの半券をここに仕舞えば、それでおしまいです。

 仕舞おうとする手が、どうにも動きません。


 あ。


 涙が、勝手に。


 いちどそれが落ちたら、止められはしませんでした。


 実は雨どいの化身なんじゃないかと思ってしまうくらいに涙が止まりません。


「椿さん」


 映画の時いつもメロンソーダ飲みますよね。子供みたいでかわいいと思ってました。


「椿さん」


 アイスクリームを食べるときにスプーンを裏っかえしにして口に入れて、ちょっと幸せそうな顔をしている所を見るのが好きでした。


「椿さん」


 椿さんは何かを集中して見てる時、必ず腕を組んで前のめりになっているのです。


「椿さん」


 ノックの音がして、おかーさんが入ってきました。

 声を上げて泣くのなんてこの家に来て初めてですから、すごくびっくりした顔をしています。


 なんだかたまらなくなって、久々に抱き着いてしまいました。

 おかーさんは私の頭を撫でてぎゅっとしてくれます。


 そうして泣いて、泣いて、泣いて。

 もう一生止まらないんじゃないかと思ったんです。涙。

 でも泣くの、つかれちゃって、涙ももう出て来なくて。

 さっきまでぐしゃぐしゃだったのに頭の中がしん、と静かになりました。

 泣いている間は椿さんのことしか考えられなかったのに、今はのど乾いたなとか、明日学校だから目を冷やさなきゃ、とかそういう、どうでもいい事を考えてしまうのです。


 もしかして、こうして椿さんの事を少しずつ忘れてしまうのでしょうか。

 そんなの嫌だと思いながら、そっちのほうが楽なのかもという考えが、頭の片隅からなくならないのです。


 ぼうっとしていたら、おかーさんが「椿さんていうのが、小春の好きな人の名前なの?」

 と、聞いてきました。

 椿さんは私に名前を教えてくれなかったので、おかーさんにも言わないほうがいいのかな、と伏せていたのです。


 部屋の外まで、聞こえちゃってたんですね。


 答えないでいたら「そうなの」と。肯定と取られてしまったようで更に「そのひとお姉さんいるんじゃない?」と言ってきました。

 ええと……ご兄弟は普通の狐だったそうで、何人……匹……?かいたような口ぶりでしたので、お姉さんもいるのかもしれませんが、何でそんな事を聞いてくるのでしょうか。


 不思議そうな顔で見ていたら、お母さんが微笑みながら話してくれました。

 私が小学生の頃に『私の元の家の近くに住んでいて、私を知っている』という女の人が訪ねて来たことがあったそうです。

 いきなりでびっくりしたそうなのですが、口ぶりから女の人が私の事を大切に思っていることがなんとなく感じられて、おかーさんはその人に思わず色々相談してしまったそうです。女の人は「あまりあてにならないかもしれませんが」と、言いながら随分親身になっておかーさんの話を聞いてくれたそうなのです。

「いきなりあなたの親になったから、私も焦っちゃってたのよね」

 迎え入れてもらった時から今までおかーさんは全然変わらず、いつも優しいと思っていたのにそんな事があったんですね。

 そのあとその人と手紙のやりとりもして、相談にのってもらっていたという事でした。

「で、その女の人の苗字も椿さんって言ってたから多分ね」


 椿さんは苗字ではありません。名前です。

 そもそも妖狐には苗字が無いのだそうです。

 なんとか山の何々、とかそういう呼び方なんですって。

 私、元の家では家から出してもらえなかったのです。

 外出して近所の人に声をかけられれば、母がそれを遮るように引っ張って行ってしまいましたし、そんな大人の知り合いがいる訳がないのです。

 しぶるおかーさんにせがんで、その手紙を見せてもらいました。


 ボールペンぽくも水性ペンぽくもないつやのあるインクで丁寧に書かれた黒い文字。


 内容は時候の挨拶から、おかーさんの相談に対しての答えなどが書いてあり、それを読みながら私は子供の頃を思い出しました。


 そうです。大分今の家に慣れて来て、ある日急に怖くなったのでした。

 母はいつもは物静かだったのですが、私が悪い事をすると……今思えば全然悪くないのですが、とにかく癇に障った時に急に怒り出すのです。

 この家の人もいつかそういう日がくるんじゃないかと思って、いきなり二人が信じられなくなりました。

 わざと無視したり、ひどい事を言ってしまったことがありました。

 それでも二人は変わらず、私を大切にしてくれました。

 勿論悪いときは悪いと叱ってくれました。

 そういうものの積み重ねの中で、ある日すとんと「この人たちは信用してもいい」と解って、それから私は『この家の子供』になれたのでした。

 それからはほとんど母の事を思い出すことはなく、毎日楽しい日々でした。

 それはおとーさんとおかーさん、二人のおかげだと思っていました。

 特におかーさんは全然怒鳴らないし、ぶたないし、怒るときも、なにがどういけなかったのか解るまで諭してくれました。


 一度始まったら嵐のように荒れ狂い、何が何だかわからないままじっと身を縮こませてそれが過ぎるのを待つ事しかできなかった母の『怒る』とは全く別でした。

 こう言ってはなんですが、母とおかーさんは同じ人間だとは思えません。おかーさんはなんでしょう、ものすごく完璧な、すごいひとです。


 ………と、思っていました。


 手紙の内容から、おかーさんもとても悩んでいたりしたことが感じ取れます。

 おかーさんは、完璧なわけじゃなかったんですね。

 その手紙を読み進めるうちに、色んな記憶が泡のように次々に浮かんできます。


 4年生になってすぐ両親ととなりのトトロを観に行ったのですが、その頃丁度ひねくれてたので素直にすごく面白かったって言えなくて、観に行った後二人に「子供っぽくて嫌い」って言ってしまったのでした。

 5年生の時、ある朝起きたら部屋の窓ガラスに吸盤でくっつけるタイプの、まっくろくろすけのぬいぐるみがぶら下がっていた事があったんです。

 枕元にはトトロが。


 おとーさんが酔っぱらって適当に買って来たと言っていました。嫌いと言ってしまった手前「もうぬいぐるみなんて」といやいやなふりをしましたが、内心はうれしくてしょうがありませんでした。


 その時点で私がトトロが好きだと知っている人はひとりだけです。


 テレビでラピュタをやった次の日のうちの朝ごはんは、目玉焼きののったトーストです。家出してお店にお世話になっていた時、椿さんと先生と映画に連れて行ってもらった事がありました。天空の城ラピュタです。

 そうです、先生が「ねーあれ食べたーい!」と言い出して、材料を買って2人が喧嘩しながら作ってくれて3人で食べました。


 あれとうちのトーストはまったく同じ味です。


 普通映画を見ただけじゃ、チーズとカリカリに焼いたベーコンを目玉焼きの下に敷こうとは思わないですよね。味付けは塩胡椒ですし。


 そういえば椿さんに嫌いな教科を当てられたことがありました「長年、人間を観察しているとこういう事がわかるようになるんですよ」と、得意気に笑っていていました。


 嘘つき。


 見た事はないのですが、これは椿さんの字に違いありません。


 だって私と椿さんしか知らない思い出がいっぱい。


 そしてこんなに優しくて丁寧な手紙を書ける人を他に思いつけません。


「狸と違って、狐はいかに上手に人を騙すかに重点を置いているんですよ」って、言ってましたっけ。


 本当ですね。


 すっかり騙されてしまいました。

 椿さんって私が思っていたよりずっとずっとずっと大人で、私の事、本当に大事に思っていてくれていたんですね。


 その椿さんが出したあの答えは、きっと間違っていないのでしょう。

 恩返しの代わりに、彼が望むようにしましょう。

 何にも知らないふりをして、普通に、幸せに暮らしていきます。

 だから今日は泣かせてください。


 もう出し尽くしたと思ったのに、まだまだ余ってたみたいです。

 零れ落ちるそれのせいでハンカチの色が変わるたびに、

 私は心の中でお別れの言葉を呟きます。


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