いと惑う六回目/奇襲をかけたらかえりうち
【1994年9月】
9月になって20日程経ちましたが、その間小春さんがお店に顔を出すことはありませんでした。
そりゃね。そうです。
タイムマシンがあったらあの日の朝の僕の部屋に《酒は飲むな》という置手紙を残しておきたいです。実際はないですからねタイムマシン。
あったらいいのにデロリアン。
もしくはあののび太さんの家の机。現実ってやり直しがきかないのが辛いです。
でもこれで良かったんです。
今でさえこんなに好きになってしまって、このまま会い続けていたらやっぱり気持ちは隠しきれなくなっていった事でしょう。
そうなる前に離れることが出来て、本当に良かった。
そうしてまた、小春さんのいない日々に戻りました。さすがのセンセイも思う所があったのか、もう小春さんの話題に触れてくる事はありませんでした。
お店を気に入ったのか小手毬ちゃんがちょくちょく来るようになって、でその流れで小手毬ちゃんのお兄さんですとか有名な妖狐が遊びに来るようになってしまって、ますますお店は忙しいです。あっという間にひと月が経とうとしていました。
夢を見ました。
この間の芝生の公園に僕はぼんやりと座っています。
横には小春さんがいて、僕の腕に寄りかかってくれます。白い両手で僕の手を包み込んでくれるのです。
なんてなんて、幸せな夢。
小春。
小春。
きみの事が好きです。
※※※※※
「…………」
い、今の、聞き間違いじゃ、ないですよね。
と、私は周りを見回します。といってもあたりに誰がいる訳ではありません。
文机と本とテレビとビデオデッキがあるだけの、畳の部屋。
地下なので窓はありません。
「こはる」
ああ、また。
その声は確かに、布団の中で枕を抱きしめて眠る椿さんから発せられました。
「こはる、すき」
今日は9月25日、第4日曜日。
なんだか恥ずかしくて、お店には顔が出せなかったんです。いつもはその時に次のお出かけの時間を確認しているので、それが出来ませんでした。
私の家の電話番号は知っているはずなので、電話をしてくれるかもと思っていたのですが、それもありませんでした。
私からしようとも思ったのですがどうにも恥ずかしくて、手が震えてしまって出来ませんでした。
そうこうしているうちにいつもの日曜日になってしまい、とりあえず行こうと思って、おお店に来てみたらこんな感じです。
鏡が無いのでわかりませんが、私、今顔が真っ赤になっていると思います。
さっきから椿さんは優しく微笑みながら私の名前とあとすすす「好き」って寝言を連発しているのです。これ………思ってないと寝言って言わないですよね。
もしかしてもしかしてあの、えーと、お弁当ききましたか!椿さん!
※※※※※
久々にでこぴんなんてされました。
「女待たすなんて、子狐が随分偉くなったもんじゃのー」
起き抜けの僕の顔を覗き込んで妖艶に笑うのは店長さんです。今日は日曜日のはず。
土日は神様達もちゃんと自分の家に帰って仕事をするらしいのでお店が暇です。
なので、お店の切り盛りは一人で出来るので僕はお休みなんです。因みに店長さんは土曜休み。あとは大安も暇なのでそこは交互に休みます。
女の人って、約束はしてないんですが誰なんでしょう。小手毬ちゃんかな。
とりあえず身だしなみを整えてお店に出てみると
「おはよう、ございます」
ちょっと怒った顔の小春さんが、そこにいました。
びっくりしつつもとりあえず、先日の非礼を詫びたら小春さんは
「うちのおとーさんも酔うとああなりますから、しょうがないです」
いやお父さんと僕は、目的とするところが違うんですけど。
と説明する訳にもいかずに困っていたら、小春さんは僕の服の裾をくいと引っ張り
「じゃあ、お詫びに連れて行って欲しいところがあるのですが」
大変にかわいらしい様子でそう言うのです。