まきもどって~エンジョイ勢はいつも爛々としてる~
区役所によく置いてある、このボールペンが嫌いだわ。先がとがっているようで丸いのが原因だと思うの。
あとよく見ると断続的にインクが途切れてムラがあるの。
滑り止めのギザギザは痛いし。
紙の滑りも悪い。
字が上手くかけない。
万年筆の方が段違いに書きやすいけど、万年筆のインクは滲みやすいのがねえ。
そのうち書き味が良くてにじまなくて安いペンとか出てくるのかしら。
出そう。人間って、凝り性だもんね。
しみじみしてる場合じゃないわ。ちょっと伝言があってって出て来たんだから、ちょっと以上の時間ここにいてはいけないのよ。
「……………」
なんだかんだ入るの初めてだわ。元椿の部屋にあたしはいる。
そう、元なんだけど元とは言え椿の部屋なので、あたしはここにあまり長居してはいけない。
更に小春ちゃんがいるし。急がないと。
でも書き漏らしがあったらいけないので、もう一度確認。
好きじゃないボールペンのせいで中指が変にじんじんするようになってしまってまで書かないといけなかったのは椿への手紙である。
手紙、というか伝達事項だけど。
椿が引っ越した、更に彼女が出来た事を隠していたことが兄様にバレて、地味に兄様が拗ねている事。
小春ちゃんの一部分を兄様に見られた事。
よくわからないけど粋連があんたたちの交際に反対しているから、兄様にない事吹き込むかもしれない事。多分そこまで堕ちてはいないと思うのだけど。
兄様がうっかり椿の好みのタイプを喋ってしまったのを小春ちゃんが聞いてしまった事。
書き漏れないわよね。よし。
あとはのぞかないだろうけどほかの誰の目にも止まらないように、封をして、よし。
……どこかに隠した方がいいかしら。
そこまでの事でもないんだけど、うーん。
まあいいか。この机の上に置いてったままで。
うちの兄様がごめんなさいねな話だし、見られて恥かくのはうちの家くらいのものだわ。
部屋を出て、お店の方へ戻ろうとしたところで、向かいの厨房から出てくる人とかち合う。というか厨房からこっちを見ていた。えーと、いなばさんが。
ドアが開いたからこっちを向いたという訳ではなく、じっとこちらを伺っていたような気がするけど、だからいまびくっとなってる気がするんだけど、確証はないし。
「……お部屋、使わせてもらってありがとねー」
だから知らないふりしてすっとこの場を去るのがいいんだわ、きっと。
「あ、あの、こ、きゃくさま!」
顧客ってほど密に来てる訳じゃないんだけど、ほかに人はいないから、あたしが呼ばれたのよね。うん。
振り返った先のいなばさんは、なんかもじもじしている。
「……差し出がましいようですが、どこかお疲れでは」
「え、そうかしら?」
「あの、よかったらこれ、その、あ、まかないというものらしいのでお代は結構なんですが」
そう言って彼女が出してくれたのは甘酒だった。小ぶりな湯呑に入ってて、細く千切りになった柚子の皮が乗っている。
「うん、じゃあ、いただきます」
この分は、会計の時にこっそり上乗せすればいいわ。という事を忘れないように心に留めながら、甘酒を受け取って口にした。
濃いけど胸焼けするような甘さじゃなくて、生姜が効いてる、おいしい甘酒だった。多分塩が入っているわ。温度も火傷しないくらいに適切な温かさ。
ほっとする。
「あー……」
「どうしました?」
「たしかに、あたし疲れてるのかも」
茉莉が大きくなってひと段落したから、羽を伸ばしつつ新しい情報を仕入れに都会に出て来たのに、なんか無駄に男子狐に絡まれて、禍根がない様に躱してってしてたら、小手毬が来たから色々世話やいて、隣の部屋が粋連だからそこに顔出すついでに兄様が来て……って結局あんまり羽、伸ばせてないんだわ。
別に茉莉や小手毬の面倒も面倒な訳じゃないんだけど、兄様は面倒よ。
そう、面倒じゃないからこそがんばって面倒見ちゃうから結果的に面倒っていうか。
「大丈夫ですか、お客様」
「うん。なんていうか、自覚すればやりようがあるから大丈夫なの。ありがとう」
そうそう。
とっちらかったものを片づけるときはどれくらいとっ散らかっているのかを把握するのがまず大切で、今したから大丈夫。
新学期になって山茶花が家にいる時間が減ったらだらだらして、だらだらして、だらだらすればいいのよ。
誘いは断る。
「うん」
「…………」
「うんうん」
あれよね。
起きる、茉莉の相手しながら家の事いろいろやる、お隣さんとの雑談に応じる、寝る。
の繰り返しだった穏やかな生活から
記憶を頼りにメトロ乗り継いで色んなとこでかけて妹の面倒見て妹分の愚痴聞いてお年寄りの昔話付き合って、父様の名代でいろんなところ行かされて久々に会った友達と会うのが本当に久々だから話が長くなってそれ全部把握して、久々にひょっとレンタルビデオ屋さんに行ける距離に暮らしているから通い詰めて見て映画も封切り日に見れるから見て、本も発売日に手に入るから買って読んで、茉莉いないから早起きしなくていいからって夜更かしして夜型人間になったりしてるのに突然ふと思い立って富士山に登って朝焼けとか見ちゃうからいけないのよ。
都会と自由がなんだか素敵なものに見えちゃったのよ。
慣れ親しんでいるはずなのに。
なんでお上りさんみたいなフィーバーしちゃったのかしら。あたし。
「…………うんうん」
母様が素っ頓狂なこと言い出したからいけないのよ。そもそも。まあ道を外れるような事じゃないけど、あたしだってたまには親孝行したかったし。
「…………うんうん」
兄様二人がああだし、山茶花はいい子だけどそれとこれとは別だから、あたしがやるしかないし。いやあたしだって母様に心配かけてないかと言えばノーな訳だし。これは終わった話だわ。誰も恨みっこなしの話。
「あのー…」
「は?あ、はい、ごめん、ごめんなさい、ごちそうさま、でした」
人がいたのすっかり忘れてしまったわ。人じゃないから気配を消す効果が強いのかしら。
あたしはいなばさんに空の湯呑を返す。
「とても、おいしかったわ。ありがとう」
「それはよかったです」
いなばさんのほほえみは―――人っぽいわ。
店長さんが使役するひとの形をしたものを何人か目にしたことがあるけど、やっぱり人のふりをした何か、って印象がぬぐえないのが、ふつうなのよね。
ふつうのひとっぽいこの子がふつうじゃないってなんだか変な話なのだけど、うん。
腕を上げたのかしら。店長さんって切磋琢磨とかするのかしら。
「あのう……」
困ったような微笑みとかすごく人っぽいわ。目線が合うように少し膝を曲げるしぐさもとても――――
「えっ、ねえそれノーブラじゃないの」
「えっ」
目線を合わすようにかがんだいなばさんの着ているシャツのボタンとボタンの間の隙間から見えた肌は、本来なら見えてはいけない位置の肌だわ。からだのパーツの位置が人間と一緒ならば。
ウイスキーのお湯割りをつくるのが面倒で荒い水割りをチンしたもので押し通そうとする店長さんが作ったんだから、ええ、そういう手落ちはあるでしょうよ。ええ。さもありなん。見た目を上手に作って飽きちゃったのかもしれないわ。さもありなん。
「……ちょっと、店長さんに許可貰って出かけよっか」
「ええっ、あの、どこに」
「……よくわからないかもしれないけど、人間界にはえーとなんか、えー、人間の女性として振る舞うには必要不可欠な装備品があるんだけど、あなたには欠けてるから、手に入れに行きましょう」
「あの、ご親切に感謝しますが、わた、わたしそう、お、お金とかもってないですし。人間の社会で何かをもらうにはそれが必要だという事はししし知っています」
「いやいいから。そういうのは」
「わたしが表に出てくるのは今日限りですし」
「なおのこと行きましょう。記念品になるしなるかしらなるわよきっと」
見た目の割にあたし、バカ力なんだけど、手をとって引っ張って行こうとしているのにいなばさんびくともしないわ。力強い。
だって、あのでれでれのオッサン達の中にノーブラで帰すわけにはいかないでしょう人道的な観点からみても。「ベスト着てますからあの」って「これから気を付けますから」ってバレなくてもだめでしょ。
「はいはいうんうんまあ悪いようにはしないから」
力でびくともしないなら靴底と床の間に滑りやすくなる液体を出現させればいいのよ。何にも準備もいらずに相手に気取らせずにそんなことできちゃうあたしすごいわ。
「あの、えっ、あの、こてまりちゃさん」
さ、軽い軽い。このまま大丸まで引きずって行って、この服もなんかだぼっとしてるから買った方がいい
けど大丸にバー店員の服って売ってないわよね合羽橋とかにあるのかな、どうせなら山茶花の服着せればいいのにこれ椿のでしょ。駄目でしょ。小春ちゃん傷つくじゃない。
「むりです、あの、わたしとてブ、ブラジャーなるものの知識くらいあります!ひょっとお、お店にいってもさささサイズが、ないです!オーダーとかじゃないとないです!後ろのホックが縦に三つとかじゃないとないんです!そんじょそこらのお店にないですううう」
「えっ、そうなのそんなんあんの」
「えっ……え、えあー、お、おー、お館様ががいってたので、やっぱ違うかもしれませんが、すみません、違うかもです」
この子、瞬時にあたしと自分の胸のサイズ比べて今の発言が失言であることに気付いて謙遜したわ。
本当によくできてるわ。人間みたい。今も失言したと思ってあわあわしてるし。
そんなにあわあわしなくていいのよ。本体は違うんだし。妖狐の雌なんてみんな狐に戻ればぺたんこなんだし。ぺたん孤よ。いい当て字だわ。河童のお酒のアレみたいに不自然に盛り上がってたりしないんだから、あるがままなのよ。
ええあたしだって本気出せばそれなりの盛り上がってる姿になれるけど、今更変更すると「必死ねクスクス」みたいなくっっっだらない突っかかり方してくる奴がいるからしないだけだし。
だし。
「…………えーと、悪かったわ。あなたの言う通り行ってみてそうだったら困るし、ここは晒を巻く、で妥協しましょう。そこの部屋入ってちょっと上脱いでくれる?」
「え、いや、あの……」
「あのね、その服、今日いないスタッフの人の服でしょ、それ」
「ええ、はい、そうみたいです、わたしはお会いしたことがないのですが、ただの一度も、ええ」
「そうなの。さっきあたしと一緒に来たあとの二人のうち繊細で儚げでかわいい方の女の子がね、その服の持ち主の彼女ちゃんなのね」
「そうなんですか、あんなにかしこそうでかわいい方の。三国一の幸せ者ですね」
「そうなのよね。もうね、好きで好きでたまらないみたいなのね。そんな彼氏の服を、知らない女の人が素肌の上にさらっと着てたら、多分すっごく嫌なのよ」
「え」
「多分よくわからない感覚だと思うけど、嫌なのね。代わりの服ないのよね?」
「ないです」
「じゃ、しょうがない。多分小春ちゃん気づいてないから、気づいてないうちにちょっと服あげたりしてばれない様にしたほうがいいの。晒巻くのもエチケットみたいなものだから。恥ずかしいなら目でも瞑ってれば、すぐ終わるから」
「………わかりました、けど、そういうの嫁入り前の娘さんが言うのおやめになった方がいいですからね……なんていうか、悪くとられるっていうか、品がないって言うか、そういう定型文がですね」
「何言ってんのてかなんであたしが嫁入り前なこと知ってんの」
「………」
「……店長さん、何か言ってた……?」
「いえ、おかわいらしいから、あの、決めつけました……失礼しました、あの、お願いします」
この取り繕いよう。ほんとうによくできてるわ。本当に店長さんの縁のものなのかしら。
ぎゅっと目をつむってシャツの裾を掴むさまのあざとさ。
たぶんこれが「ぐっとくる」ってやつだわ。本当に店長さん作なのかしら。もう絶対違う気がしてきた。凝り性の神様からの借りものだわこれ多分。
「…………そんな固く目瞑らなくてもとって喰やしないわよ、あーもうわかった!シャツ着たまんまでいいから!その分誤って過剰に揉んだり触ったりするの多分増えるけどしょうがないんだからね!」
「だから!お嬢さんが、いけませんてば!」
なんかもう不毛な気がするから無視するわ。ササっと巻いて食べかけのアップルパイを食べるわ。とりあえず晒を出さないと。巻きやすい幅で、えーと何尺いるのかしら。
「きゃあ」
ウエストがこれくらいだからー。あ、ほっそ。
「ここここてまりさん!」
で胸がこれ重ッ。鈍器?幅変えなきゃ。あとやっぱ今くらいのサイズでいいわ。あたしは今後盛る事ないわ。胸。
負け惜しみじゃなくて熟考の上の結論だわ。揺るがないわ。いや今触ってるのはすっごい揺れてるんだけど。
おおー。
おおー。
「こてまりさぁ」
「ごめん、いまのはごめん」