北の国から`95 初春~秘密/後編
いささか打たれ弱すぎだ、とは思うが、息子が隠遁生活を送りたくなる気持ちはわからないでもない。
人の世は、妖狐が紛れにくくなりつつある。
それも年々急速に、その紛れにくさが増しているのだ。
街中に居を構えるなら固定資産税やら国営放送の受信料を払わないとならず、人の世ではない所に居を構えた場合は出入りする際に人間の目を気にしなければならず、人間と当たり障りのない話をするために必要な知識がやたら増え、あああそう、詮索好きの人間も増えた。
昔も我々の存在を訝しむ人間はいたが、今より夜は長く暗く、生活は過酷で、たいてい一つの所から離れることが出来ず、もっと早く老いて死んだので面倒ごとはうやむやに出来ることが多かったのだ。
今はなかなかそうはいかない。何をするにしても取り繕うことがついて回る。
窮屈だ。
このわずらわしさは歳を取った妖狐ほど強く感じるだろう。
若い者は生まれた時からそうであるから、あまり気にならないらしい。
皐月も妖狐の中では歳をとった方に分類される。
彼が感じる「疲れてしもた」は妥当なのである。
「……………」
名乗るだけあって、この場所には、そこここに、狐が、いる。
せまっくるしい柵ではなく、割とのびのびと暮らしているようだ。
毛色もさまざまである。
ここに一匹、赤茶色の狐がそっと混ざっていてもわかりはしないだろう。
木を隠すなら森、人に化けるのが億劫になった妖狐が狐の姿で隠れるのにここよりいい場所はない。
適当な山でふらふらしていると害獣の冤罪を着せられる羽目になることもあるというし。
「……………」
その時期を狙ったのかどうかは不明だが、妻が留守の際に連絡をよこした皐月が私に告げた近況報告は二つだ。
とりあえず定住している場所があること。
そして所帯を持ったような状態になっているということ。
「……………」
電話口で私が何か言いたげだったのを察したのか、皐月は詳しい事は直接会って話そうと提案して来た。
それが冬のはじまりの話で、すでに季節は春になろうとしている。
連絡は皐月からしかできないので、色々やり取りがややこしかったのである。その間、所帯が破綻したとかそんな連絡はないので、所帯を持ち続けているのだろう。
所帯をもつ。
人間の作り出した言葉だが、意味は育った群れを離れ、それとは別の群れを作ることを指す。
一般的には結婚などが切欠だろう。
皐月がそれを口にする時、常に後ろに「みたいなもん」がついている。
一般的なものとは違うらしい。
所帯の相手が道ならぬ恋のからきたものだとか……?
八汐と違って皐月は癖がないのでよくもてた。
色んなお嬢さんたちが私に彼の攻略法を尋ねに来たがどれも実ることはなかった。皐月がつれなかったのである。まったく。
いつまでもふらふらしている息子にやきもきした妻が皐月を問いただした際に、彼はこう言ったのだった。
「一人選んだら角が立つし、全員まとめて面倒見る甲斐性は俺にはないからのう」
妻に言わせれば「優柔不断極まりない」そうだ。
優柔不断という言葉の現す人物像と皐月の人柄は重ならないとは思うのだが、そんな主張をしたところで私がただただ小言を食らうだけで問題が解決するわけではないので私は妻の意見を否定も肯定もしなかった。
誰に対しても平等に優しい、そんな皐月の均衡を崩すほどの、そう、所謂『運命の相手』のような相手が現れればまた話は別、となるかもしれない。
と思ったが、それはその時皐月を好いてくれた娘さん方に申し訳ない話なので口にしなかった。
優しい皐月を好きになる狐はやはり優しいお嬢さんばかりで、皐月が困っている様子を敏感に察して、静かに身を引いた。
優しいお嬢さんたちなのでいい縁談があって、いい伴侶と所帯を持っているはずである。
「……………」
―――焼け木杭に火、という言葉がある。
そんな言葉が人々の間で定着するということは、比較的よくある話なのだろう。
逃した魚は大きかったという言葉もある。これも同じく定着するほど悔やんだ者たちがいるのだろう。
「皐月」
「んー?」
「そういえば父さん、お、お、お嫁さんにお土産とか買ってくるの忘れてしまったんだが、ちょっと戻って買ってきた方がいい気がしてきた。好きなものとかあるのかい?」
何があってもいいように心の準備は必要である。
あの狐は落雁、あの狐は栗ご飯、おはぎは……ああ、あの狐。カステラ……カステラ……あ、それは妻だ。関係ない。
「やー……いらんかなー。下手なもんだとなんかあったらまずいし」
「なんかあったら」
「犬とかに葱食わせたら死んだりするし。俺ら、平気だけど」
八汐の視線はどこに固定されることもなく、さーっと、この地域で幅を利かせているらしい、馴染み深いようで、なかなか深く知り合うまでには至らない、そんな生き物たちをなぞって行った。
まだ冬毛なのでもふもふしていて、尻尾はもっともふもふしている、油揚げが好物とされている生き物である。
油抜きのしていない油揚げは食べられたものではないと思うのだが、彼らは、いいのだろうか。それで。
「あ、うん、そっか。よかった。やっぱりそのパターンか。安心した」
「安心って……安らかな心、の、ほうの、安心」
「あんしんに他の意味があるならぜひ聞きたいよ」
「ない……」
「奥歯になにか」
「はさまるじゃろ。そりゃ……なんか……もっと怒られるもんかと」
人妻に手を出すくらいなら、普通の狐を娶ったという話のほうが7億倍ましである。
妖狐の中には「人間は格下、狐なんて畜生、我々妖狐こそ至高の存在。……いや、神は別枠」みたいなお高くとまった家もあるが、家はそうではないし。
妻は一瞬口うるさくなるだろうが、憤りとかではなく想定外の事が起こるとパニックになる現象の亜種みたいなものだ。
最終的には息子の決断を祝福するだろう。
「……怒る……はないけど、興味はあるよ。なんでそういうことになったのか、は。馴れ初めとか。あ、どの子だい」
「ここにはおらんなあ。広いから」
私もかつては狐の姿で野山を徘徊することがあった。
そういう時に見目麗しい狐のお嬢さんとすれ違い、言葉が通じないなりに身振り手振りでご挨拶を試みたことが何度か会ったのだが、逆毛を立てて追い払われたものだ。
無論、下心はなかった。
妖狐の男衆とそんな話になった時に、みな似たような反応を返されると話していたので、野生の狐の雌というのはそういう物なのだろう。
それをどうやって我が息子が射止めたのか。
狐の姿での隠遁生活の中で、普通の狐との対話方法を編み出したのだろうか。
それより今まで頑として靡かなかったこの皐月の心を動かしたお嬢さんとは、一体。
「あー……なんか、去年の夏くらいに向こうから寄ってきて」
「うんうん」
へー、そんなことあるのか。人たらしは狐にも有効なのだろうか。
「捲いても捲いてもついてきて、気が付いたら冬で、周りが番だらけになってきて」
「うん」
「狐の寿命とかしらんけど、早く他の雄と一緒にならんといかんじゃろ?」
「うん」
「早々になんか俺種族違うから雄として使い物にならんとわからせないとと思って、たんじゃが、まさかの子が出来て、仕方なく」
「皐月、ちょっとそこ、あ、あっちの切り株に座りなさい」
「怒ってないって言って、怒ってるじゃなかと、親父さん」
「そりゃ真っ当な手続きを踏んで添い遂げる事にしたなら何も言わないよ。あのさあ!そんな、妻問いもしないで、あまつさえそんな……」
話の途中までトレンディドラマもびっくりのどんでん返しがあるのかと思い、手に汗握った私であったが、汗は冷や汗に変わった。
確かにどんでん返しではあった。あったがしかし。
「だって何考えてんだかわからんのだもん、大体、世の中の番が親父さん達みたいに集まれば話題になるようなすったもんだを経て収まる所に収まらないといかんルールだったら、大半はそこに辿り着けなくて色々絶滅だと思うん」
「皐月」
「……その、別に邪険にしている訳ではなく、何考えてるかわからんし、何が向こうにとっても満足になるのかはわからんけど、それなりにちゃんと面倒見るつもりで、いる」
歯切れの悪い、煮え切らない、不誠実な言葉を紡ぎ続ける息子であったが、彼への怒りは少し温度が下がっている。
話の途中で彼の纏う空気が変わったのだ。
皐月の視線の先にはさっきまでいなかった狐がいる。きれいな毛並みの、親子の狐だった。
「......皐月は、面食いなんだね」
「は?え?なんで、親父さん今俺の心読みなすった?」
「読んでないよ。父親の勘みたいなやつ」
あからさまな破願ではないけれど、視界にその二匹が入って来た瞬間に、優しい顔に変わった自覚がない息子は「そんなのあるの」と気味悪そうに私を見ている。そして、一気に暗い表情になった。
「というかあれか、見ればわかるか」
「……ああ、うん……八汐に……似てるね……」
きれいな毛並みの、まだ若そうな母狐がかいがいしく世話を焼いている子狐は白狐だった。
白狐にしては灰ががっていて、銀色に見える。
ややこしい事に銀狐は黒っぽいうちの妻のような毛並みの事を言うので、じゃああれはなんなんだという話になったのだが、自分で「白金じゃないかな、一番高いし、私にピッタリじゃない」と自称した、私的には発禁のほうがお似合いだと思う、うちの長男の八汐の毛色と一緒だった。
「……こっからだとよう見えんだろうけど顔もなん……」
「……そうなんだ」
「……親父さんたちが親失格だとか教育がなってないとか言われないなら、別に妖狐内でバレてもいいと思ってるんよ、このこと……でも、兄さんにはあんまりしられとうなくて……」
「わかるよ、というか私の教育不行き届きだ」
決して根っからの邪悪な訳ではないのだが、言っていい事と悪い事の線引きが大分人とずれているのだ。うちの長男は。
多分、あの甥か姪を目にしたらひょいと抱き上げ「本当のお父さんだよー!!」とかやり出すことは想像に難くない。あいつはきっとやる。
さらにろくでもないことを畳みかける。
「兄さんはおもしろい、いいお人なんじゃが……ああ、おふくろさんも落胆するか」
「そんなことはないよ」
まあ卒倒くらいはすると思うが、そのあとは狐だがねこっかわいがりだろう。妻は子ぎつねにめっぽう弱いのである。
ただ――
「妖狐なの?」
「いんや、話通じん。産まれた時から通じるんじゃろ?」
「うん。八汐は「だるい」お前は「はらへった」小手毬は「おかあさん」山茶花は「ねむい」茉莉はなんか……あわあわしていた」
「そか」
普通の狐は何年くらい生きるのだろう。
ここは食うには困らないから本当の野生の狐よりは長生きしそうだが、我々に比べればずっと短い間だろう。
妻はこの件に関して怒って、小言を言って、最終的にはでれでれになり、隙を見てはここに顔を見に来て、そうして自分より先にいなくなる小さな命に――多分涙を流すし、落ち込むだろう。
「堅香子は、まあまたちょっと確実にうるさいけど、なんだかんだうれしいと思うし、黙ってた時の方が拗ねてめんどくさいと思う……が、言う言わないに、言うタイミングは好きにしなさい。めんどくさくならないように私が抑えるから」
「うん、すまんです」
妻も皐月も大事な存在ではあるが、それぞれ独立した、いい大人である。
余計な気を回しすぎるのもなんだ。その時はその時に、してやれることをすればいい。
何ができるかわからないが、あ――
「……もうすぐご飯の時間とかなのかな……?」
タイミングよく会いに来てくれた狐の――というか、息子のお嫁さんと、その……そうかあ。初孫かあ。あ、でれでれするのはあとにしよう。ああ、八汐もあれくらいの頃はかわいかったんだよなあ。いかんいかん。
お嫁さんは子ぎつねをくわえて、あちこちをせわしなくうろうろしている。
全体的にここの狐たちはまったりしているのでよく目立つ。
「ああ、多分俺をさがしてるんよ。朝からいないから。人型だとわからんらしい」
「それは大変じゃないか、戻っておあげよ」
「いやここに入場した人数と出た人数が違ったら大問題じゃろ」
「そんなに厳密にやってるかなあ」
「用心に越したことはない……まあ、そのうち諦めて子供と遊ぶからほっといていい」
「そうかあ」
八汐も昔堅香子が人型になったらそれが母だってわからなくて、人型の堅香子が自分の母親をどうにかしたと勘違いして怒ってたりしてたなあ。
懐かしい。
かわいかったのである。昔は本当に可愛かったのである。
「私も遊びたいなあ」
「え!?混ざる?狐になって?」
「あ、そっか、そういうのもあるか。でも子育て中に他の見たことない、やたらゴージャスな雄が寄ってったらシャーってされるよね多分」
「あー、性格はきつい方だと思う」
「恐妻家が遺伝しちゃったか。すまんね。なんか、ふれあいコーナーとかあったけど、指名制とかじゃないのかなって」
「……去年子ぎつね抱っことかやってるの見た気がするが、もうちょいでかかったと思う。だからまだかな………あと、有料」
「まあ、世の中の大体のじじばばはお金払わないと孫に会えないもんだから、そこはそんなに気に病まなくても。なんか隙を見つけてまた来るよ」
――まあとっかかりは不誠実だが、突然変異で人格が根腐れしてしまったわけでもないようだし、なんとかうまくやっていくのではないのだろうか。
「あ、有料で思い出した。これお祝い」
「えっ、いらんし」
「いやだってなんか必要かもしれないし、持っときなさいって」
備えあれば患いなしである。懐から取り出した祝儀袋を皐月は頑として受け取らない。あ、子供のお祝いは結び切りだめだった。
「いいって、埋めに行くの面倒くさいし」
「埋めって何」
「だってここに隠しておくわけにはいかんから……金とかはもうちょっと地盤のしっかりした山に埋めて隠してあ」
「皐月、お父さんさ、このあと手続きがどんどんややこしくなるに違いないから、なんか架空の会社とか作って銀行口座は確保しとけって言ったよね、昔」
「狐失格だろうと、俺はひとを騙すのは好かんもん」
「いやいやいや、いっぱい預けてあげた方が銀行の人も幸せなんだよ。人助け」
「金を預けたら金が増える意味が解らんもん。何か金でよからぬことをしてるんじゃろ、銀行の人は」
「皐月、やっぱりその切り株に座りなさい」
「あ、俺そろそろ帰ってやらんと、いつもより探す時間が長い」
「皐月」
うちの子達はどうしてこう……一生懸命やったつもりだったのだが、やっぱりどこかで大きなミスをしていたのだろうか。いやでも同じように育てた小手毬はいい子だし。
別に上二人が悪いという訳ではないのだが。
800年近くあって子供を真面目に更生させることが出来ないのに、人間は20歳やそこらできちんと道理のわかる成人に育て上げることが出来て本当にすごいと思う。最近とみにそう思う。