一粒で二度おいしいのか一以下なのかは人による(1)
そうでした。
寒い時期のコンクリートというものはとても冷たいものでした。
久々の感触です。
でも同じ場所に座り続けていると自分の熱でコンクリートもだんだんあったかくなるのでもう少しの辛抱です。
もう凍えるほど寒い季節は終わりましたし、今日はたくさん着こんできたので大丈夫なのです。
へっちゃらです。
夜だから無理どれも無理だろう、と時間つぶしの道具を持たずにきてしまったのですが、廊下用の明かりがずっとついているのでここでも読書が出来そうでした。
家に戻る訳にもいかないですから、このまま手ぶらで待ちたいと思います。
じっとしているのは得意でした。
きっとまだ、得意なはず。
「…………」
時間の事を考えず、楽しい事を考えればいいのです。
そうです、好きな絵本を頭の中でゆっくりゆっくりめくったりしていました。
楽しかった思い出を反芻したり。
ながれぼしを、さがしたり。
「…………」
私が長らく流れ星だと思っていたものは、夜間飛行中の飛行機のライトでした。
テレビでよく見る流れ星は、ゆっくりそんなものを見ていられないから、親切に早回しになっているのだと納得していました。
林間学校で得意げに「流れ星」と言ってしまい、大恥をかいたんです。思い返しても恥ずかしい。
恥ずかしさを逃すために足をじたばたさせたいのですが、ご近所迷惑なので我慢、我慢です。
「……………」
そんな話を耳に入れたおとーさんとおかーさんが、流星群の日に天体観測に連れ出してくれましたっけ。
そのあと別の日に夜の羽田空港にも連れて行ってくれて「ほら、あんなにびゅーんと早いんだから、そりゃ、見間違えるわよねえ」と、慰めてくれたことは覚えています。
「……………」
あ。
自転車が走ってくる音が聞こえる気がします。
身を乗り出して確認したいのですが、見つかってはいけないので我慢です。
もっとずっと待っていられますが、できれば一分一秒でも早く会いたいので、そうだったらいいなと願います。
この建物の前で自転車が止まったような気がします。
がさごそして、階段を昇ってくる気配な気がします。
階段を昇ってくる足音は止まらないので、このまま三階まで来てくれたらいいのに、それでその人が――
「え?小春さん」
期待通りの、待っていた人でした。
立ち上がって駆け寄りたい気持ちなのですが、我慢です。
出口に(?)近いと家に強制送還される可能性が上がる気がします。
今は夜分遅く失礼しますと挨拶してもなお失礼なくらいの夜ですし、ここは椿さんのお部屋の前で、本当は私、こんなところにいてはいけない状況なのです。
「…………」
何を言おうか考えている間に、椿さんが目の前まで来てしまいました。慌てて立ち上がります。
「いきなりごめんなさい、あの」
「どうしたんですか。あ、いや、とにかくとりあえず中に」
言いながら椿さんは手早く鍵を開けて、部屋に入れてくれました。
合鍵は持っているのですが、勝手に入るのもどうかと思って。
玄関の電気をつけてから心配そうに私の顔を覗き込み「どうしたんですか?」と、もう一度椿さんが聞いてきます。
「今日は、とても、椿さんに会いたくて」
そうです。眠る前に一目見るだけでは足りなくて、朝に会える時まで待てなかったのです。
ですから、お仕事帰りのこの瞬間を待ち伏せしてしまいました。
椿さんは難しい顔をしています。
「……なんか、ありました?」
実際はありました。
いままでまったく、すれ違うこともなかったのに、あの人に会ってしまいました。
それでそのまま何回か会ってしまいました。
断ることが怖くて言いなりになったのではなく、私にも理由があったのでそれを受け入れました。
きっともう会うことはないでしょう。
連絡手段がないので、待ち合わせの時間は帰り際に決めていました。
最後に会った日――もう昨日ですが――は約束をしませんでした。
そしてあの人が私にさせたかったことを断りました。
断ったことに腹を立てて、待ち伏せとか、うちに来たりとかされても、もうあの人の要求を呑む気はありません。そういう時どうすればいいか、おかーさんに教えられている手順を淡々とこなすだけです。
それでおしまい。
おしまい、なのですが、まだ気持ちがおしまい、には、なってくれないのです。
色々な気持ちが私の中に散らかったままなのです。心がざわざわして落ち着きません。
どうすればざわざわが収まるのかは知っています。
こんがらがって一緒くたになってしまった気持ちを、少しずつほどいて、ひとつずつにしていけばいいのです。
理由があったからとはいえ、おかーさんに嘘をついてあの人に会っていたという罪悪感。
それをおかーさんが知ってしまったら裏切られたように思われないか、悲しませたりすることになるのでは、それが怖い気持ち。
あの人と対峙しても怯えたりはしなかった自分に対しては高揚しています。
気持ちにそんなラベルをつけて、心の中にある棚の適切な場所にしまっていけば、ひとまず落ち着くのです。そうです。
ですが、その作業は私にとってはとても億劫なもので、疲れてしまうのです。
頑張る元気が欲しいのです。
それはご飯を食べたり眠ると出てくる元気ではなくて、椿さんと一緒にいるとなぜかとてもたくさん出てくる元気なのです。
「そんなふうに見えますか?」
「なんだか、最近元気がない様に見えます。嫌な事とかありました?」
「ないです」
ありましたけど、ないのです。
あの人がまた私に会いに来たりしない限り、このことは秘密にしていたいのです。
家族を困らせたり、心配かけたりしたくありません。
そして、椿さんに私の昔のことを思い出してほしくないのです。
「本当ですか?」
「はい」
椿さんの手に触れると、そのまま手をつないでもらえました。
期間中はあまり触らないで、と言われていますが、実際触って怒られることはまずありません。
優しい椿さん。
私が椿さんの事を好きなのは優しいからですが、椿さんが私の傍にいてくれる理由が優しいから、なのは、よくない、と思うのです。
困っている人には親切に、そんな優しさの延長で、椿さんがかわいそうな私に同情して、ずっと成長を見守っていてくれたから、そんな理由で好きだと言ってくれたのかな、とか、そんなことを、あまり会えない間に思いついてしまったのです。
かわいそう、だと思われる出来事はなるべく減らしたいのです。
今までの分はもう仕方がないのですが、これからの分を。
「椿さん」
返事を待たずに椿さんに抱き着いてしまいました。
コートはひんやり冷たくて、まだ冬の気配がします。