恋のため息/風下の北のお嬢様、入浴で悦
グラスの中身が三分の二くらいになったところで、硬質もの同士がやわらかくぶつかる音がわたしのすぐそばでおこった。
カウンターに置いた手のすぐそばに、陶器の小さなポットがあらわれていた。
喫茶店でミルクが入っていたりするやつだ。中身はミルクではなく黄金色。
「ごめんね、飲みにくいんでしょ。好みで足して」
「ちがうんです、全然!疲れも吹っ飛ぶ感じでおいしいんです。もったいないから」
「無理しなくていいから」
あなたのことを会うたびに好きになってしまうのですが、よくない事なので諦めようと決意して、これが人生で最後に口にするあなたの作ったカクテルだから大事にしたいんですとは口が裂けても言えない。
しょうがないので「ほんとうにおいしいはおいしいんですよ?」と言いながら、蜂蜜をほんの少しだけグラスに入れる。
「あ、ごめん、これ使って」
渡された、かき混ぜる棒(名前は知らない)……を使って、底にまっすぐ落ちて行った蜂蜜を拡販する。
ずいぶんぬるくなってしまったが、溶けるのだろうか。
手ごたえが均一になった所で、味見。幾分酸味の尖りが消えた気がする。
これはこれでおいしい。うん。より好み。
グラスが進んでしまいそうになったのであわてて元の場所に戻す。もったいない。でももう一杯頼んでもいいかも。タクシーで帰ればいいんだわ。
などと思いながら視線を上げると、ばっちり椿さんと目が合った。
父の作る、少し焦がし気味のべっこう飴に似ている瞳。
「ど、どうかしました?」
「……ふっ飛ばさなきゃいけないほど、疲れているの?」
「あ、言葉の綾で、そんなには、最近慣れてきましたし」
「そういえば山茶花ちゃんはどこか特定の場所で馴染むふりをしてたりするの?」
「いえあの……内緒です」
あなたの彼女と同じクラスで女子高生やってますとは口が裂けても言えない。
そして、言ってないようね。そうよね一言も話してないものね。
たまたま選んだ学校がそうだっただけで、それで5分の1の確率で同じクラスになっちゃっただけなのに、変に意識されたら、困る。
「そっか、大丈夫?」
「大丈夫です。ぼちぼちやってます」
「なんかあったら言ってね。大して役に立てないけど」
「そんなことないです。ありがとうございます」
会話はこれで終わったと思う。
なのに椿さんは作業をしつつもなんとなくわたしの視界から消えてくれない。
カクテルの出来が気になるのかしら。
それとも疲れているわたしを心配してくれているのかしら。
ちょっと泣きそう。
あまり優しくしないでほしい。少しずつ捨てていた気持ちが勝手に戻ってきてしまう。
でもムキになって疲れてない、カクテルもおいしいです、大丈夫ですって言うのもなんだかおかしい気がする。疑いを深めてしまいそう。
「椿さん」
「うん」
「最近、椿さんはどうなんですか?」
「何が?」
「彼女さんと」
「い、いきなりどうしたの」
「女子は恋バナが大好きなものなので」
「いやべつにそんなおもしろいことはなく普通で」
「普通が聞きたいです。全然ご縁がないので参考に」
「そんな事ないでしょ」
「ないんです」
ぜんぜんなかった。
もうしょうがないのだ。
だから未練のないように、のろけ話を本人の口からきいて、傷口に塩を塗り込んでもらおう。
完膚なきまでに期待をへし折ってもらおう。
そういえばわたしの手の中のアレンジ「いつもの」には塩がついていない。
いいのだ。
塩分はここで補充できる。つじつまが合う。何考えてるのかしらわたし結構酔ってる。
「……どーせ熱々なんじゃろけったくそ悪い。手前本気出しちゃおうかの」
「店長さんはご自分の不始末のせいでしょ。八つ当たりはやめてください」
眉をしかめても美しさが崩れない店長さんが舌打ちをして、椿さんは口をへの字に歪める。
ちょっと怒っていても基本的にやわらかいのよね。
腰に手を当てて、ため息をついた椿さんは珍しく乱暴にグラスにお冷を注いで、一気に飲み干した。
「かわいくないのー」
「それに関してはご期待に沿えなくて申し訳ないんですが、熱々の件に関しましてはご期待に沿えそうですよ。よかったですね!」
※※※※※※
冬は寒い。
という事を信号待ちの時だけ思い出す。
思い出したころには歩行者用の信号はもう青に変わっているから、またすぐに忘れる。
ほんとうだ。意外に家まで歩いて帰って来られる。
歩いてこられたけど電車で帰ってくるより何倍も時間がかかる。当然今はもう結構な夜中だ。
足音を極力立てないように階段を昇って部屋の玄関までたどり着く。
そっとあけて、そっと。
部屋は暗く静かだ。玄関に出した覚えのない靴がある。
帰ってきている。そしてお休み中のようだ。
起こさないようにそっと靴を脱いで、廊下の床に足をつけた。ひどく冷たい。汗をかいているからだわ。
靴に湿気取り入れておかなきゃ。
靴箱から姉手製の、中に炭の入った布袋を取り出して靴の中に入れる。
急に、何も見えなくなった。明かりにびっくりして勝手に瞼が閉じたからだ。
「おかえり」
お、だけ声が乗っていて、あとはほぼ吐息で構成された言葉。
無論発したのは姉である。廊下の電気をつけたのも姉である。
唯一母様が小言を言う、男物のLLサイズのトレーナーをワンピース代わりに着ているから肩の6割と足の8割くらいが露わになっている、いつもの寝間着スタイルの姉だった。
「おそくなってすいません。以後気を付けます」
「いや、いいんだけど。危なくないと自分で判断したなら。でもさ、補導とか気を付けて?」
「なにそれ」
お店にお出かけするときはちゃんとお化粧して、服も大人っぽい。
補導って夜出歩いている子供がされるものでしょうに。
「や、言い方違うのかな……学校の先生が、生徒がほっつき歩いてないか見回ったりするらしいじゃん盛り場を」
「そうなの?」
「そうそう。先生ならあんたの顔分かるでしょ」
「顔がめっちゃ似てる姉のふりをすればいいんじゃない?家族構成は把握してるはず」
「まあ、とっさにそんな機転きくならいいんだけど。あ、でも三者面談とかあたしがいくんでしょ。だめよ……なんかー、クラスの子に聞いたりしたほうがいいわよ」
「そうする」
月曜日にやらなくてはいけないことが増えた。忘れないようにしないと。
「ん。んじゃ、おやすみ」
「うん。明日起こす?」
「勝手に起きるから大丈夫。じゃ」
「うん」
あくびしながらよたよた寝室に向かう姉を見送って、お風呂場に向かう。
するするした素材のワンピースを脱ぎ捨てる。
ネットに入れるの後でいいや。
湯船のお湯はちょっと冷めていた。
追い炊きを押して、頭とか身体を洗いながら温まるのを待つ。
お風呂に長く浸かっていられるのもいいわ。
早く入りなさい早く出なさいとかうるさい事言われないし(実家でもここでも基本的にお風呂は一番最後に入っているのに)、姉様と入浴剤の好みが近いから毎日いい感じ。
白いやつあんまり好きじゃないのよ。お花とか柑橘の入浴剤がいいの。
今日は柚子です。柚子づくしだわ。しゃっきりする。
全部洗い終わっても追い炊きは完了していなかったけど、裸で突っ立って待つよりはましだから身体を沈める。まだちょっとぬるすぎる。二番風呂だからお湯がやわらかい。
北海道よりこっちの方が断然暖かいけれど、建物の作りが全然違うから家の中という点ではこっちの方が寒い。ので、あったまってからでないと。
お風呂の中でやることはないから、なんかぼうっといろんなことを考えちゃう。
というか、帰り道、それしか考えてなかったんだけど。
毎朝、朝ごはんをお部屋で一緒に食べるのが日課なんですって。
でも、朝早く出歩かせるのが心配だから、彼女の家で朝ごはんを食べることになったんですって。
でも、それだと二人の時間がないから、ごはん食べた後彼の部屋に一緒に行って、通学する時間までお茶をすることになったんですって。
で、彼女が申告していた「この時間に出れば大丈夫」って言ってた時間が大丈夫じゃなかったんですって。
二週間、しかもテスト期間も遅刻したので、さすがに担任からお家に電話があったんですって。
で、怒られたんですって。
でも本人は成績落としてないし別にいいじゃんって態度だったんですって。
彼もたしなめたんですって。
そしたら彼女、へそまげて、日曜日のデートキャンセルって言い出したんですって。
朝ごはん食べたら速攻学校行くようになっちゃったんですって。
「……ハァ?って感じなんですけど」
確かに連日、遅刻してたわ。それで今週はしていなかった。
この話、登場人物で間違っているの彼女しかいないのに、どうして臍を曲げる必要があるのかしら。
そんなに大事にしてもらって、わたしよりずっと多くの時間一緒にいられるのに、あんなに寂しそうな顔をさせて。
わたしだったら絶対、そんなひどい事しないのに。
「……………」
だったら、は、余計だった。何も考えないように、目を瞑る。脚にかかる追い炊きの熱を受け止めるのに集中することにする。
なんか、でも、あの子、おかしいのよね。
偶然同じクラスになっちゃって、別に仲良くする理由がないから一言もしゃべってないけど。グループ違うし。でもまあ目には入る。ひっかかるところが、ちょっとある。
探したらもっとあるのかしら。
「人間と添い遂げようと思うとか、正気の沙汰じゃないですよ」
最近彼女さんと別れたらしい粋連がそんな事言ってた。お互いに割り切った遊びの関係というやつだったらしい。
そうよね。
普通の男女だって些細なことで別れたりするものね。ましてや彼女の方は子供だし。
好き好き言ってたのに、いきなり冷めるとかありそう。
学生同士で付き合うよりは一緒にいられる時間少ないし。
事実それが原因でへそまげてるんでしょう?
さらにそこに人間と妖狐という種族の壁よね。実際何があるのかは具体的には解らないけれど。
いずれ別れることになるのなら、その決め手になりそうなことを早めに洗い出したらどうなるのかしら。
別に持ち直すならそれでいいわ。祝福する。
でも、そうじゃなかった時――――
「あっつ!」
ごぼり、と、大きな追い炊きの熱気が足の上を撫でていく。
慌てて立ち上がって、足を使って湯船の中身を均等に混ぜ返していく。
どうしよう、なんか月曜日が楽しみだわ。
お湯に入っていない部分は寒いはずなのに、不思議と今がそれを感じない。