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門前仲町小夜曲  作者: ろじかむ
恐れ入ります、恐れ入ります、当て馬にもならない道産子が通ります。あっ、ご協力ありがとうございます。
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テールレス・ドックには、はちみつを添えて

 父母姉(みんな)が口をそろえて「心配だ」って脅すからものすごく身構えちゃったけど、全然平気じゃない。

 学生生活も二週間経ったけど、全然余裕。


 いったい何を心配していたのか。

 末っ子だから?や、もう末っ子じゃないんだけど、長らく末っ子だったし。


 よく考えればもともとそんなに大変じゃないのよ。

 人にうまくまぎれる練習だから別に勉強とかそんなに頑張ってしなくていいし。

 まあでも、留年とか補習とかはごめんだからそこはごまかす。

 裏工作してテストはパス。

 そもそも裏工作しないとこんな時期に転校生にもなれないし。


 成績が出てから勉強教えてって言われたけど「人に教えるの下手なの、ごめんね」でなんとかごまかせた。


 部活も生徒会も誘われても面倒だから「家の用事があってまとまった時間は今なかなか……」とやんわり回避。


 あとはお弁当と休み時間くらいなものでしょう?

 余裕じゃない。

 よその家は違ったりするけど、うちは人間のふりしてテレビも新聞も見てたから雑談くらい余裕で出来るわ。


 なにが心配だったのかしら。


 いじめ?ああ、最近流行ってるしそうよね。こういう言い方はやだけど事実だからしょうがないけど、わたしって美人だから靴に画びょう、的ないじめとか想像したのかしら。


 とりあえずないわ。

 あっても、わたし結構気が強いから大丈夫だと思う。


 うちの家族が我が強すぎるから薄れて見えるだけで、わたしだって結構なものだと思うのよ。

 問題ない。


 だからー、今やってるのは朝の満員電車に耐える、授業を真面目に受けているふりをする、クラスメイトの雑談に応じる、お弁当を食べる、掃除をする、電車に乗って帰る、姉様と分担している家事をこなす、くらいで。


 本当余裕なのよね。


 ま、空いた時間でそのへん散策とか、親戚の家行ってこまごまの用事とか頼まれているからそこそこ忙しいはいそがしいけど。

 全然顔見せてなかったから皆話長いし。

 しかもだいたたい自分の武勇伝で最近のわたしの生活に役立つことじゃないし。


 このへんは疲れる。

 むしろこのへんこそ疲れる。

 結構がんばってる。


 だからたまの息抜きくらい許されるはず。


 フルートグラスの一番細い所に指をかけてそっと持ち上げる。

 ほんとうに繊細なつくりだから、へし折っちゃいそうといつも緊張する。


 そんな事やりかねないのは下の兄様だけだけど。

 もうひいふう……弟の茉莉が産まれた時に顔を見たきりだから、もう3年くらい顔を見ていないわ。

 どこで何をしているのかしら。まあ、いいんだけど。そういう人だから。


 グラスを持ち上げたのは中のものを飲むためなのでそのように。


 飲み口が唇に触れる瞬間が好き。

 薄さが心地いい。

 実家にあるコップは、湯呑かもっとあつぼったいグラスか、父様のおちょこくらいだったからこの感触は新鮮だ。

 薄玻璃を流れ落ちて来たものを、舌の上で受け止める。

 瑞々しいオレンジ味が、口の中で小さく弾けて消えた。

 現時点でこのミモザが一番お気に入り。

 やっぱりお酒に甘味は欲しい。

 甘くないお酒のおいしさはまだわからない。


「――――」

「――――」


 ここでは、絶えず誰かしらが何かしらを話している。

 よく聞こうとすれば会話を拾えるが、そうしようとしないと、あまりよくわからないくらいの声の音量が心地いい。もっとにぎやかな時もあるけど。

 ここにいる人の殆どは、海千山千どころか海京山京くらいの世の中のベテランさんだからか絶妙に空気を読むのが上手い。そうっとしていてほしいときはほっといてくれる。


 おいしい飲み物があって、居心地が良くて。


「あ、の、いつも飲んでますよね。それ」

「うん。ちびちび飲むには丁度いいんだ」


「強いんですか?度数」

「あーまあ、ウォッカだからねえ」


「あー……あの、センセイと同じの、わたしにも」


 カウンターのはす向かいに座っていたセンセイからカウンターへと声の宛先を変える。

「え」という声と共にカウンターの中の人が振り返った。驚いた顔の椿さんだ。

 週に一回。金曜日だけ、わたしは彼のいるお店にこうして通うことにしている。


「山茶花ちゃん、あれはやめた方が」

「まだ今日は全然大丈夫なので、大丈夫です」


「度数の話じゃなくて。悪い事言わないから……あの、度数とメインの割りものは同じにするから、ちょっと配分代えさせて?味気に入らなかったらお代いらないから」


 真剣な顔でそう言われては「じゃあそれで」と答えるしかない。

 そういう表情だとすこしりりしく見えるのね。


 ふうん。


 センセイのより少し背が高く、持ち手のあるグラスを手に取った椿さんは、グラスを細目で睨んで頷いて、それを作業台に置いた。

 注ぎ口に特殊なストローのついたウォッカの瓶を手に取り中身をグラスに。


「そういえば椿くんいつのまにかあの砂時計みたいの使わなくなったよね」

「目分量の方が早いですからね。分量はぴったりだと思いますよ。ほら」

「おー。プロっぽい」


 三角錐が頂点を突き合わせた形の銀色の器具の中にグラスの中身が注ぎ込まれた。ぴったりだった。


「見て覚えられますからね。お菓子職人さんとか一ポンドがだいたいわかったりするらしいですよ。素材がべつのものでも。すごいですよね」

「金貸しになったらいいんじゃないそれ。あ、だめか。肉は専門外だ」

「シャイロックが実際やるよりは誤差が少なそうですけどね」


 途中から何の話かよくわからなかったので彼の動きを視線で追う。

 センセイのいう所の砂時計みたいなやつを持った椿さんと目が合う。


「それって、計量カップみたいなものなんですか?」

「そうだよ。大きい方が45ml、小さい方が35ml、だいたいこの二つで事足りるんだよね」

「へえー」


 関心している間に、ウォッカと思しき液体がグラスにまた帰っていく。

 そして柚子ジュースと思しきもの。注いだ瞬間に柚子の香りがこちらまで飛んでくる。

 柚子って鼻の奥で柚子だって認識するわよね。あれなんなのかしら。


「アカシア……やっぱりみかん……」


 ぶつぶつ呟きながら椿さんは戸棚から黄金色の何かが詰まった瓶を取り出した。


「はちみつですか、椿さん」

「はちみつですよ、山茶花ちゃん」


 スプーンひとさじすくって、そのままスプーンをグラスに。


「あったかくなっても大丈夫?先に聞くべきだった」

「あ、大丈夫です」


 微笑みに効果音をつけるならふわ、なのよね。


 グラスにはお湯が注がれている。

 念入りにかき混ぜられて、グラスの中で渦が生まれた。

 中心から抜き取られたスプーンはシンクへ静かに置かれる。

 冷蔵庫から銀色のバットを取り出した椿さんはトングで中身をバットからお皿に移してから、もう一度トングでそれをつまんで、自分の口に運んだ。


「あ、行儀悪いなー」

「口にははさみついてないですから衛生的には大丈夫ですー。味見しないで出すわけにはいかないので」


「なにそれ」

「センセイのおかげで柚子の皮が大量にあるので、もったいないんではちみつ漬けにしたんですよ。で、あしたパウンドケーキにしようと思って。味馴染ませてお店に出るのは日曜です」


「なんでそゆの告知しないんかのう椿や」

「売り切れたら手前がしこたま怒られるからじゃ。文句あるか」

「ははーあ。麗さま、ははーあ」


 店長さんはとても偉い神様っぽいのに誰に怒られるのかしら。

 謎だわ。詮索はしないけれど。


 いつのまにか柚子のはちみつ漬けはグラスの中に移動していた。

 細切りにされた柚子がグラスの中で各々泳ぎ始める。


「あー。見栄えが悪かった」

「そうですか?蒲公英が散ってるみたいでかわいいですよ」


 なんとなく釈然としない表情の椿さんは、「正直にだめだったらだめでいいから」と言いながら、目の前にグラスを置いた。

 熱そう。

 グラスのふちから息を送り込んで冷まして、それからほんの少しだけ口に入れる。


「………すっ、っぱいですね」

「あーやっぱり。ごめん」

「いえあの、大丈夫です。びっくりしただけで」


 センセイの「いつもの」アレンジバージョンは身がきゅっと強ばるほどに、酸っぱかった。


 何度かいつものが作られている所を見ているセンセイの「いつもの」は、わたしのもののように薄められている形跡はなかった、はず。


「センセイのそれはもっとすっぱいってことですよね……?」

「だからちびちびやるのに最適なんだよ?」

「センセイはお年寄りだから味蕾が9割がた死滅してるから平気なんだよ。大丈夫?べつのにするかはちみつ、もっと足す?」


「あ、いえ、しゃっきりするのでこれはこれで」

「段々つらくなってくるかもしれないから、いつでも言ってね」


 そう言って、椿さんはわたしの目の前からいなくなる。

 カウンターはそんなに広くないから、顔の向きを変えれば目の前にはなるのだが、じっと見るのもなんだ。


 多分優しいから「どうかした?」とこっちを気にかけてくれてしまう。

 昔みたいに。


 お客さんは彼と喋ることを楽しみにして来ているっぽいひとがちらほらいる。

 わたしが独占してはいけないのだ。

 独占していい理由も権利も持っていない。

 ただ週に一度姿を見ることができて、声を聞けて、それで十分なの。


 でも会うたびにいい所を見つけて、好意が増してしまう。

 もう来ないほうがいいのかしら。多分来ない方がいい。


 ……今日で最後にしよう。


 終電が近いから、この一杯でおしまい。

 もったいないから少しずつ、大事に飲んで帰ろう。

 出会ってから今日までの思い出は、いつもの、の酸味のなかにほんの少し現れる甘味のやさしさに似ている。

 鞄に入っていた文庫本に意味もなく目を通したり、たまにセンセイと話したりしながら、わたしはさよならの支度をすこしずつ始める。


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