状況が変わったらしいので上京してみたという事情のある次女、甘やかされて生きて来たので当然自重せず(2)
目的地には姉様曰く運動がてら歩いて行ける距離らしいんだけど、土地勘がないので電車にします。
最寄駅の秋葉原へ徒歩で向かう。
えーと、黄緑の外回りか水色の大船方面行きの電車、どっちに乗っても、着く。
首都圏の路線図おかしくない?どうなっているのこれ。
こんなごちゃごちゃして、さらに営団地下鉄もあるんでしょう。おかしいわよね。おかしい。端っこはこれまだ都内なの?
何度見ても全貌を把握できない路線図を眺めているうちにあっというまに目的の駅に着いた。
変な改札から出ちゃうと大変なことになってしまうのは知っているわ。
丸の内南口から出るのよね。そうそう。
案内板を探すと逆にいることが分かったので、ホームの反対側まで移動する。
ホーム、長い……しかも人がいっぱい。
なんとか丸の内南口まで通り過ぎて、階段を出る。
思っていた感じと、違う。
ふつうならいつもこの駅通り過ぎたり乗り換えるだけで、降りたりしないんだもの。
改札を出たところのドーム状の屋根を見上げる。
サーカスの人が落ちないようにする網みたいなものが天井近くに張ってあった。
ああ、そうだわ。
地下にあるって言っていた。
大事なことを思い出し、目に入った階段を駆け下りる。
八重洲方面に向かう通路の途中にその場所はあるのだという。進行方向右側の壁に。
ちゃんと見つけられるのかしら。
怪しくならない程度に右側の壁を気にしながら、わたしは歩き出す。
予想より扉がいっぱいある。駅員さんが出てきた。なんなのかしら。
迷路みたい。
少し不安になって来たけれど、たぶんそれはもうすぐ消える不安。
異質な扉がそこにあった。
一見見ただけではきっとそうは思われないだろう。
他の扉と同じように、壁と同じクリーム色のペンキで塗られた、金属製の扉だ。
よく見ると他の扉にはもれなくついている、銀色の、ボタンがいっぱいついた部品みたいなものがついていない。
ここだわ。
扉に手をかけて引っ張ると抵抗なく開いた。少し重かったけれど。
煉瓦のトンネルが、そこにあった。足を踏み出す。
道行く人は誰もわたしをとがめない。
自らの重みを利用して、うしろの扉が元の場所に戻った。
わたしは歩き出す。
ない物をあるように見せる、ときには香りや手触り付きで。という術は妖狐の中にも使える者はいる。けど、これはもっと異質なもの。
多分どこかに実在する場所とあそこを、人間の言葉を借りれば空間を捻じ曲げて、無理矢理くっつけているのだ。
方法は予想がつかない。
そういえば神様ってものに会うの、わたし初めてだわ。
緊張するけど、べつにわたし神様に会いに行くわけじゃないし。だから大丈夫。
ゆっくり歩いて、突き当り。道は左右に分かれていた。どっちか聞いていない。
左の方が気配が多いから、多分こっちだろう。
なんかの木で出来た一枚扉を開ける。やっぱりあたりだった。
ここは所謂,バーという所らしい。
バーとはお酒を嗜むお店らしい。
客席があって、お客さんっぽい人がいて、カウンターがあって、お酒があるから、確かにそうなのだろう。カウンターの中にいる人は、予想とは違った。ちょっとあせる。
「ごめんください、あの――」
「かしこまらんでいいよ、好きな所に」
伸びやかな声に促されて、私はお店に足を踏み入れる。
お店中の視線がわたしに集まっているけど、気づかないふりをしてカウンターの席についた。
コートを脱いで、きれいに畳んで、鞄も置いて。
カウンターのだいたい斜め向かいに座っていたお客さんと目が合った。
眼鏡で白衣の――これがセンセイって人ね。
答え合わせみたいで少し愉快な気持ち。
「うん、ものすごく似てるね」
「えっ」
「これお前さんは本当にもー……とりあえずここは店じゃから。何にするかの?」
カウンターの中にいた店員さんがセンセイと思われるひとを嗜めて、わたしに向き直る。
背が高くて、青みがかった黒髪が印象的な、とびきりきれいな女の人だ。
あんまりてらてらしていない生地で出来たチャイナドレスがよく似合っている。
このひとが多分、店長さん。
挨拶は聞かれたことを答えてからにしよう、とりあえずは―――
「ロングアイランド・アイスティーで」
「はいはいなー」
気合いとは無縁の返事をして、女の人は天井近くにぶら下がっているグラスを並べて宙づりにするやつ――正式な名前はなんなのかしら……――いくつかあるそれの中から、細長い逆三角形みたいなグラスを手に取った。
続いてしゃがんでカウンターの中でごそごそと……
「麗ちゃん……麗ちゃん……うーらーらーちゃ」
「なんじゃ見てわからんか作業中ぞ」
「ロングアイランド・アイスティーはアイスティー使わないから。それしまって。初めてのお客さんにフィーリングで作ったもん出そうとしないで」
「えーそうなん?何と何と何?」
「本職呼びなよ本職」
「手前だって立派に」
「うんうんすごいすごい。頑張ってる頑張ってる」
センセイの言葉にむくれながら、女の人はカウンターに置いてあるベルを乱暴にはたいた。
澄んだ高い金属音がお店に響く。
小走りの足音がどこからか聞こえてくる。
どこから聞こえてくるのか探す前に、答えが現れた。お店の奥の扉が開いて、人が出てきた。
人間じゃないけど。
「はいはーい」
ずっと会いたかったひとがそこにいた。
着ているのは多分、お店の制服なんだろう。初めて見る格好にどきどきする。
真っ黒のアームカバーを慣れた手つきで外しながら颯爽とカウンターの方――こちらに向かって歩いてくる。
どきどきする。
ずっと見つめていると心臓が壊れてしまいそうで、健康のためにはきっとあまり見ない方がいいんだろうけど、目が離せない。
本来の毛色よりは暗いけど、人間にしては明るい髪色、狐の時のままの紅茶色の瞳、八汐兄様と同じくらいの背だけど、兄様より細い、けど華奢って訳じゃなくて――昔抱き上げてもらったときの腕は、びっくりするほどしっかりしていたもの。
あ、目が合った。
「あ、あー……え、山茶花ちゃん……だよね?」
「そ、そうです。お久しぶりです、椿さん!」
びっくりした後、彼は全然変わらない、優しい微笑みを向けてくれた。
うれしくてつられて笑ってしまったけど、これは普通。
別に片思いの相手じゃなくてもする反応。
大丈夫。わたし、変じゃない。
※※※※※※
お店の裏で帳簿の整理をしていたらしい彼は、それをいったん中断してお店に出てくれることになった。
「へー。じゃあ、本格的に東都に腰を落ち着ける感じなんだ」
「まだおためしですけど。やっと茉莉も落ち着いたところだしそろそろ、って」
そうそう。わたしだって何にもしたくなくて無気力に、実家で脛かじりしてた訳じゃないんだから。
母様ひとりじゃなにかと末っ子の面倒を見るのが大変だから、残ってたのに。
大変そうだからなかなか言い出せなかったのもあるし。
それにしても頼んだお酒は結構きつかった。
見た目がかわいくて通っぽいからそれにしようってずっと前から決めてたんだけど、現物はちょっと違った。
せっかく作ってもらったものだから、残さないように、ちゃんと飲む。
「身体は大丈夫なの?」
彼の表情も声色も心配そのもの。相変わらず優しい。
うちの家が今の北海道に移住したのは、空気が悪くて私がしょっちゅう体調を崩していたからだ。ほかにもこまごました理由があるんだけど、妖狐の間で広まっているのはその話。
心配してくれてうれしいけど、その心配はしなくて大丈夫ですって伝えなくちゃ。
「もうすっかり。むこうに移ったのも、こっちだと術の修行を人に見つからないようにするのが難しいって理由もありますし。そんなに大げさなものじゃないんです。今日なんか、朝5時に起きてそのまま散歩しちゃいました」
「まだ暗かったでしょ?」
「ええ」
「散歩は日が出てる間じゃないといけないよ」
「寒くても大丈夫ですって」
「そうじゃなくて」
めずらしく強い口調だった。
面食らってると「言い方怖かったね、ごめん」と、彼は笑う。
「若くてきれいな娘さんは、そんな時間に歩いちゃだめなんだよ。危ないから。人の女の子はそうしているから、人の世界に馴染んで暮らすためには、ね?」
「……そうですね。そうします」
やっぱりわたし、この人が好き。
「……なんですか、センセイ。その眼は」
「いや、別に……」
母様とか、それこそ粋連みたいに頭ごなしにそうしろって言ってくるんじゃなくて、ちゃんと納得できる理由があって、たしなめてくれるところとか。
「あれじゃの、手前あと一匹会えばこの一家コンプリートじゃな」
「店長さん、その数え方嫌なんですけど……!」
――初めて会ったのは、4歳の時だったと思う。
姉様に連れられて、前の家に遊びに来てくれたんだったわ。そう。
臥せっていたわたしの話を聞いて「まだ読んでないやつだといいんですけど」って、絵本をお土産にくれたの。
忘れもしない、ぐりとぐら。
読み終わって、おやつにパンケーキを焼いてくれたんだった。
「ボクはあと二……に、につね」
「上手い事言ってやったみたいなドヤ顔やめてくれませんかセンセイ。というか今こそ本殿にいないといけない時期じゃないんですかセンセイ」
「そーじゃそーじゃ」
「帰れ帰れー」
「眼鏡―」
「地球上の近眼に謝ってくれるかなそれはちょっと」
「お前の信者今殺気立ってるから、こんなところで油売ってるってバレたら殺されるぞ」
「最近の人間は神をも殺す勢いじゃからな」
「こわやこわや」
それからちょくちょく遊びにきてくれるようになって、よく遊んでくれたっけ。
8歳で北海道に移住するからねって言われた時、一番最初に頭に浮かんだのはこの人に会えなくなることだった。泣いたなあ。
何度か会いに来てくれた時は、嬉しくてその日眠れなかったっけ。
ずっと会いたくて、でもなかなかそうはいかなくて、直接会うの、そう、4年ぶりくらい?
「ごめんねえガラの悪いお年寄りばっかりで。びっくりしたでしょう」
「えっ、いえっ、全然そんな」
どうしよう、何も話聞いてなかった!大丈夫かしら。微笑んでいれば大丈夫かしら。あっ、笑ってる。多分ごまかせたわ。
「こっちはもう慣れた?」
「人が多いのがびっくりするくらいで。でも毎日楽しいです」
「そっか、よかった。小手毬ちゃんがいるからまあ、大丈夫だろうけど、何か困ったことあったら言ってね。出来ることがあるかもしれないから」
本当、相変わらず優しい。
そこが好きで、ちょっと嫌い。
わたしは精いっぱい微笑みを作る。
「彼女さん以外の女の人に、そういう事言ったらだめですよ。きっと怒りますよ」
「えっ、あ、そっか……聞くよねそりゃ」
聞いて、そりゃ傷つきますよ。でも表に出さない。困らせたくないのと女の意地だ。
「おめでとうございますってなんかへんですね。でも、おめでとうございます」
「あ、うん……ありがとう」
驚いて、ばつが悪そうで、そのあと嬉しそうにはにかんで。くるくると変わっていくその表情は全てに照れくさそうが含まれている。初めて見る顔だった。
好きな人の事を知るのは楽しい。
楽しいはずなのに、今は少しつらい。