笑ってください。それはもう
―――次の日から僕は絶不調です。
夜は何だか眠れないし、サンドイッチを切り分けなくてはいけないのに指を切りました。
食欲はないし本も一ページも読めず、帳簿も一桁間違えて店長さんがびっくりして話しかけてきたのにうわの空。
そんな日々が一週間くらい続いたらしいです。
そのあたりのことを僕はまったく覚えていません。
さすがにおかしいと、店長さんとお客さん達が僕を寄ってたかって問い詰めて、僕は不調の理由に見当がつかず、ああこれが死期ってやつなのかもと思い、脳裏を駆け巡る光景を思いつくままに喋り倒しました。
ちょっと泣けてきました。
彼女と会っていたことは、皆さんになんとなく伏せていたのですがそれも喋りました。
最初は深刻そうに聞いていた神様たちがどんどん呆れ顔になって行って、僕の話が終わった後口々に
「それな、恋」
「ギャップにやられたんでしょ」
「早めにキープしとかんからじゃ」
などと言い出しました。何を言ってるんですか、子供ですよと否定したら、誰も話を聞いてくれませんでした。
「そうとしか見えん」
「あほらしなあ」
「心配して損した」
だそうです。
僕だって女性との交際経験くらいあります。まあ、そんなに多くないですけど。
ですがこんな症状になった事はないんですよ。だから違うんですといっても
「だから本気なんじゃろ」
「そういうのだけ昼行燈か」
「狐が嫁とられたとか傑作じゃのー」だそうです!
全然解ってもらえなくて苛々してしましたが、そのうち頭が冷えて来て調子も元に戻ったのに彼女の事だけは頭から離れなくなってしまいました。
――――小春さん。
それが彼女の名前です。長くてつやつやした黒髪に、きらきらした瞳、長いまつげ。
以前は鈴を転がすような声でしたが、今はどうなんでしょう。
まだ、たまご蒸しパン好きなんでしょうか。
「まっくろくろすけって本当にいるんですか?」と聞いてきたあの笑顔。
いるかもってあの時は言いましたが現実には多分いません。妖狐の僕が見たことが無いのですから。
そんな思い出ばかりが浮かんでは消えず、ただただ、僕の心にぎうぎうに詰まってゆきます。
そうです、いつのまにやら僕は彼女に恋をしてしまっていたのです。
ですが叶わぬ恋です。彼女は新しい家族を手に入れ、誠実そうなボーイフレンドが隣に。
すべては僕が願った通りに事が運びました。狐冥利に尽きます。
謀りごとがうまく行かない昨今、実にスマートな仕掛けで人をだませたではないですか。
きっともう僕なんかのことは忘れて、来年あの公園に来ることはないのでしょう。
これでいいんです。きっと僕のこの気持ちも死ぬ間際に種の保存をしたいとかそういう動物的なあれです。忘れましょうこんな気持ち。
でも最期に一目会いたい。
そう思って僕は彼女に会いに行く事にしました。小さな子供に化けて彼女の家へ。
冬の朝でした。
秋に見た時より、また大人になっていました。彼女は踊るような足どりで、出かけてゆきます。デートでしょうか。
もう少しだけ彼女を見ていたくて、跡を付けました。
着いたのは、かつて彼女がブランコに揺れていた公園でした。彼女はベンチに腰かけて本を読みだします。
霜風がスカートをそっと揺らし、彼女はあいている手でそれを押さえます。一枚の絵みたいにきれいな光景。
と、彼女の視線がこちらへ。
「あれ、そんなところでどうしたの?」
あ、見つかってしまいました。逃げないと。彼女はにっこり微笑んで僕に手招きをしています。
「よかったら、お菓子でもどうですか?」
そうして鞄から彼女が取り出したのは金平糖の袋です。
なんだか心がきゅうとなってつい、寄って行ってしまいました。
ベンチをぽんとされて彼女の隣に座ります。掌に金平糖をざらざらと出してもらいました。彼女は袋か
らつまんで。二人でぽりぽりと食べます。おいしい。
「ひとり?」
「そうです」
「そっかー」
僕の頭を撫でてくれます。くすぐったい。
「おねえさんは、デートですか?」
おませさんですね、と彼女は僕に笑いかけます。
コートにスカートにブーツなんて、そんな大人の格好するようになったんですね。
「デートになればいいのに、です」
好きな人を待ってるんです。
と、彼女は言いました。
彼女の好きな人は優しくて、穏やかで、隣にいると幸せで、でも大人なので彼女を相手にしてくれないそうです。
また偶然通りかかって、姿だけでも見えないかと期待しているんですって。
「つねさんって言って、とても素敵な人なんですよ」
彼女は幸せそうに微笑みながら、僕の頭を撫で続けます。
胸が、痛い。
どうしようもなくなってしまって、お菓子のお礼を言ってそのまま逃げました。
こんなに嬉しいのにこんなに苦しい。行くんじゃなかった。あの人が好きです。
想いを伝えて、通じ合ったらなんて素敵なんでしょう。でも僕はいなくなるんです。
このまま言わないほうがいい。でも言いたい。
答えは出ずに、約束の日になりました。僕はまだ生きていました。
咲き始めの桜を背に僕に微笑んで来る彼女はめまいがするほど美しく、迷いのない口調で僕を好きだと言ってくれました。うれしい。ですが諦めてもらわないと。
そこで僕の命がもうそんなにない事を伝えました。
だから、一緒にはいられないんです。でも、僕のこの思い、気づかれずに伝えたい。
「そうだ。飴でも、いかがですか」
そうして僕は何も知らない彼女に思いを込めた飴を差し出します。
一方的に押し付けて、もう本当に卑怯だと思います。
それを口にした彼女の瞳からは大粒の涙。
そうですよね、彼女には重い話です。
ずっとそばで、その涙をぬぐってあげたかった。
僕の心はざわめきますが気取られてはいけません。
そう、目の前の池のようにしんと静かで平らでなくてはいけません。
そのとき風がびゅう、と吹いて
目にごみが入ったらしく痛がる彼女。思わず触れてしまいました。
やわらかい。
抱き寄せてしまいそうになる自分の手を必死でおさえます。
やがて開いた黒い瞳がじっと僕を見つめて、では、友達になってほしいと言います。
「私の名前、日向小春です。よろしければあなたのお名前を、教えて下さい」
――――そうして彼女は僕が応えたくて仕様のなくなるような質問を仕掛けてきたのです。