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 その日、彼は恋をした。

 水を打ったように、あるいは雷に打たれたように。

 眼から入った情報は一瞬で骨の髄まで行き渡り、彼の全身は死に瀕したように痙攣した。

 その相手を、絶世の美女、とはいうまい。

 傾国の美女とも、幽玄の美女とも、殊色の美女ともいうまい。

 百人いても百人は振り返るまい。

 はっきりいって、さほど美人という訳ではない。

 ではなぜ彼がその少女に恋をしたかといえば――。



 廃墟がある。

 かつては都心だっただろうビル街。そこは、もはやコンクリートの墓場であり、むしろビルの森といった方が正しいだろう。

 増えすぎた人類の影響により、人類はその数の減少を余儀なくされた。

 理由はさまざまである。

 単純な食糧問題もそうだったし、発展した文明の所為ともいえたし、人の数が増えたことによる病気の蔓延、果ては人々の対立でもあった。大小さまざまな問題があったが、ともあれ、今それは問題ではない。

 問題は、衰退した文明の名残に、件の少女が呆と突っ立っている事実のみである。

 彼、鉄代徹也が空を見上げればそこは曇天、厚い雲に覆われた鼠色の絨毯が広がっており、そこから染み出した水滴は布のように辺り一面に降り注いでいた。

 酸の雨ではない、普通の水がビルの隙間と隙間を埋めていく。

 冷たい雨であったし、まだ雨に濡れれば寒い時期である。

 そんな雨の中で、徹也は傘でそれを受けながら、こちらは身体でそれを受けている少女を見ている。

 一目惚れである。

 寒さなどまるで感じないという風に、少女は棒立ちのまま、ただ雨に打たれていた。

 後ろからでは顔は見えない。

 その小さな全身はぐしょりと雨に濡れて、真っ白な服が体に張り付いていた。少女の髪はその衣装を護るかのような純白で、少女の腰の辺りまでその侵食の手を伸ばしていた。

 徹也がその姿を見て、驚愕を禁じ得なかったのは当然だろう。

 徹也はこれまで、このビルの森で人を見たことがない。なぜならこの一帯は、立ち入り禁止となっているからだ。

 この区画が立ち入り禁止である理由は空気の汚染である、と徹也は聞かされていた。もっとも、徹也がこの区画で空気の汚染を感じたことはなかったし、そもそも空気の汚染というなら、この小さな区画のみが立ち入り禁止というのはあまりに不自然だった。

 ともかく、この区画は政府より立ち入り禁止とされていたし、実際徹也がこの区画で自分以外の人影を見たのも、今日が初めてだった。

 徹也がその新鮮な驚きのまま立ち尽くす中、雨に打たれ続ける少女がゆっくりと、徹也の方を振り向いた。

 雨に降られ純白の髪が張り付いた顔は、やはり絶世の美女というほどではない。

 しかし、可憐という他なかった。

 それも有り体にいって、徹也の好みであった。また、無人の廃ビルに雨が立ち込める中での、少女との出会いは思春期の少年にとっては劇的に過ぎた。

 なによりも、その少女の透明な赤い瞳に恋をした。

 ザアアアアアアと、天の雫が落ちる。音に紛れて、少女が何事かを呟いた。何を呟いたかは、徹也には定かではない。全ては雨の布幕に覆われて、流れて消えた。

 思わず聞き返そうと、徹也は少女に歩み寄る。

 一方で少女は、徹也から目を離さず、かといって歩み寄るでも、もう一度口を開くでもない。完全に沈黙を保っている。

 あと三歩進めば抱きしめられるような間合いまで近づいた時、声が聞こえた。

「――そこを、動くな」

 少女が発した、その鈴を転がすような声に、徹也は面食らって立ち止まる。

 瞬間、徹也と少女の間を、轟音とともに目にも止まらぬ速さで通過する物体があった。

 無数の物体はアスファルトやコンクリートを穿ち、砕いて停止した。

 反射的に物体が飛んできた方向を見る。そこには、いつの間にか、四人の警官がいた。手にはそれぞれ、黒い物を持っている。

 徹也はそれを本や映画で見たことがある。しかし、本物のそれを見たのは生まれて初めてだし、それを警官が当たり前のように使ったことも信じられなかった。

 それは、リボルバータイプの拳銃だった。

 それは、この法治国家日本において最大の禁忌とされる、殺人の為の道具だった。

「……な、なんだよそれ。人殺しの道具じゃないか!」

 そんな徹也の、場違いな台詞に戸惑ったのは警官で、

「君! その娘から離れなさい!」

 と、叫ぶ。徹也は面食らって、訳も分からず反発した。

「何なんですか! あなたたち!」

「警察だ! その娘は危険だ! 離れなさい!」

 互いが互いを理解できず、ただただ叫び合った。ビルの森にあって、それは不毛というしかなかった。

 そんな中、少女は三歩近寄り、徹也の首に腕を回して言う。

「動くな。動けばこの少年を殺す」

 唐突な少女の言葉に徹也は放心し、手に持った傘を手放してしまった。頭上から降りしきる雨と、背中に当たる少女の体が冷たい。

 警察が慌てて銃を構えると、首筋にも冷たい物が押し当てられた。徹也の視界からは、それは見えない。

「よせ! 無関係な民間人を巻き込むな!」

「巻き込みたくないならあなたたちが退けばいい。それとも、ここでわたし諸共無関係な民間人を殺す?」

「その少年は無関係だ! 離したまえ!」

「……話にならない」

 そう切り捨てて、少女が身を強張らせた。その筋肉の緊張が直に背中に伝わって、しかし徹也は身震いも許されない。

「あー、お嬢さんよ」

 と、手に持った拳銃をゆっくりと地面に置き、両手を上げた男がいた。初老のその男が両手を上げるに呼応して、周りの警官たちも銃を下していく。

「……なに」

 少女は警戒して腕に力を籠め、徹也は首に少しの痛みを感じた。

「俺たちがここで退いて、そしたらそこの少年を解放してくれるのかい?」

 その言葉に噛みついたのは周りの警官たちの一人で、まだ若い、二十代半ばといったぐらいだろうか。

「何を言っているんですか! ここであの女を取り逃がせばもう行方は掴めなくなります! 厳罰ものですよ! 何かあって、その責任を負えるんですか!?」

 初老の警官はその若い警官を諭すように言う。

「なら、あの少年を見殺すのも厳罰もので、その責任はいったい誰が負えるんだ?」

 徹也を人質にとった少女はそんな会話など眼中にない、というように自分の要求を告げる。

「この少年の身分証を置いていく。あなたたちはそれを持って帰ればいい。少年がその身分証を自分の足で取りに行けば、納得できるでしょう?」

 言って、少女は片手で徹也のポケットを弄り、財布を見つけると、器用にその中から徹也の生徒証を取り出した。

「鉄代徹也。都立第一高校二年生。顔写真も載ってる。徹也、あなたで間違いない?」

 コクコクと必死に頷く。首元に当たる何かが少し食い込んで、慌てて首を振るのを辞めた。

 その様子に若い警官は激昂して、二人に銃を突きつけた。

「貴様! そんな言葉が信用できると思うか! 後から解放する? ふざけるなよッ!」

「おい、お前――」

 初老の警官が注意しようとしたその瞬間に、少女は言った。

「信用できないのはわたしも一緒。これ以上あなたたちに時間を取られるぐらいなら、わたしはこいつを殺してあなたたちに投降する。そうすれば、警察はわたしを殺せないでしょう? その後、脱獄でも何でもしてみせる」

 底冷えのするような声だった。徹也からはその表情は見えなかったが、声は少しの笑みを含んでいて、徹也はもう半分以上泣きそうだった。

「ハッタリだ!」

 そう叫んだ若い警官をこそ、徹也は地獄に落ちろと呪わずにはいられなかった。

ますます膠着状態に陥っていく状況に徹也が絶望しかけたその時、少女は言った。

「徹也、わたしが合図をしたら、わたしたちから見て右側に逃げる。何があっても絶対に喋っちゃダメ」

 その言葉に反応したのは、やはり年若い警官だった。

「やはり、その少年も無関係ではなかったな!? おかしいとは思ったんだ、こんな廃棄区画に逃げ込むこと自体がな!」

 初老の警官がその言葉を窘めようとした瞬間、少女たちの頭上で風が吹き、雲の絨毯は切れ、その間から一筋の光が降り注いだ。光は、測ったように警官たちの目を焼く。

完璧なタイミングで、少女は地面に落ちた徹也の傘を思い切り右側に蹴とばし、走り出した。

「走れ!」

徹也は手をグンと引かれ、転びそうになりながら駆け出した。その背後で、銃声が鳴り響く。

疑問やら悲鳴やらを叫びそうになりながらも、徹也は懸命に口を閉ざし、足を動かした。

二人の靴が水溜りを踏み抜く音を、銃声が掻き消していく。

 何年も忘れられた廃墟に、火薬の音が響いて、消えた。

 全ての音が止んだ時、そこにはもう少女たちの姿はなく、警官たちは急いで少女たちの後を追った。警官たちから見て、左側である。



 一方で、先程の現場から最寄りの、二人から見て左側の、ビルの中に避難した徹也は少女に向き直り、疑問をぶつけていた。

「さっきのあれ、どういうこと?」

 聞きながら、少女の持つ鈍色のナイフに目をやる。道具としてはさほど珍しくもないが、拳銃を見た後で、さらにいえばそれを突きつけられ人質とされた後となっては、完全に凶器にしか見えない。

少女はナイフを、それこそ手品のように体のどこかに仕舞いながら、律儀に答えた。

「見ての通り、わたしは追われている」

「なんで?」

「さあ、危険だから、らしいけど。わたしは人を殺したこともないし、物を盗ったこともない。心当たりも、まあ……ない」

「嘘でしょ?」

「…………」

 むき出しのコンクリートに囲まれたビルの玄関口に、沈黙が降った。何とはなしに少女の目線を追うと、観葉植物が植えられていただろう鉢が無惨にも割れていた。

「とにかく、巻き込んだことは謝る。まさか、こんな廃棄区画に人がいるなんて思わなかったから」

「……じゃあ、なんで君はここに来たの? 人質がいなきゃあそこで捕まってたんじゃない?」

 徹也の至極真っ当な疑問に少女は首を振る。

「そうでもない。あの瞬間、あの場所で雲が晴れるのはわかってたから、あとは追っ手を誘導して時間を稼げばよかった。そのために色々考えてたんだけど、君がいたから……」

「……それは悪かったけど、いや、僕が悪いのかな?」

「誰が悪くても関係ないよ。それより、これからどうするかな」

 言いながら、少女はビルの奥に進んでいく。特に考えもせず、徹也もそれに続いた。というより、それ以外の選択肢など、そもそも思い付きすらしなかった。

「これからどうする、って、どうするの。君は警察に追われてるんだから、逃げるか自首するかのどっちかしかないじゃない?」

 言いながら、少女の後を追って階段を昇って行く。少女の迷いのない足取りに対し、徹也はおっかなびっくりである。

ひたすらに階段を昇りながら、振り向きもせず少女は言う。

「巻き込んでしまって悪かったけど、君は素直に警察に事情を話した方が良い。ナイフを突きつけられて脅されたんだ。向こうも情状酌量してくれる」

 徹也は壁に入った細かなヒビを流し見ながら、聞く。

「だから、君はどうするの?」

 そうして、階段を最後まで登りきると、屋上に出るドアが施錠されてそこにあった。

 少女はどこからともなくナイフを取り出し。南京錠に差し込む。先程これを首筋に当てられていたのだと、徹也は再び冷や汗を流した。

 ナイフは明らかに料理に使われるような可愛らしい物ではなく、その鋼色の刀身がしっかりと艶消しされた、少女の体ぐらいなら一突きで貫通してしまいそうなほど凶悪なものだった。

 少女はそのまま、鍵ごとドアを思い切り蹴り抜いた。不快な金属音とともに鍵がドアごと破壊される。その手際があまりに小慣れていて、また徹也は怖くなる。

 この少女は、何者なのだろうか?

 少女は雨で濡れた屋上を歩き、そこから広がる世界を睥睨する。

 徹也もまた、その光景を見た。それは、見たことも無いような景色だった。

 雲と晴れ間の絶妙なバランスは、夕陽が曇天を照らして黄昏色に染める、世界の終わりのような色を醸し出している。

 黄昏色は空だけではない。灰色のコンクリートの朽ちたビルの森も、その割れずに残っているガラスも、あちらこちらに割れ目をつくる濡れたアスファルトも、全てが終焉の色を跳ね返していた。

 水と光が、過去の人類の世界を照らしている。

 あまりの光景に息を呑む徹也の隣で、感情を見せない少女の赤い瞳が遠くを見ていた。

 しばらくして、少女がひとつくしゃみをした。

 ビルの上は風が強く、また夕暮れは容赦なく二人の濡れた体から温度を奪っていく。

「寒いね。このままじゃ風邪をひく。取り敢えずこの区画から出て、体を拭くなり着替えるなりしない?」

 そう言った徹也を、やはり感情の見えない冷えた目で、少女は見た。

「わたしは追われているから、一緒に居ると君に迷惑がかかると思うけど」

「……そ、れは、いまさらだね」

「?」

 小首を傾げる少女に、徹也は何と言おうか迷った。

 迷惑ならもうかけられたが、共に行動すればさらに面倒が起ることはわかる。なぜだか警察に追われている少女は、恐らく犯罪者なのだろう。ナイフも持っている。

 それでも、いま一緒に居るのは、それを分かった上のことで、少女もそれを理解していたと思っていたのだが。

「……えーと、困ってる人を見たら助けなさい、ってのが親の教えで」

 苦し紛れの言い訳は、どうやっても人を納得させられるようなものではなかった。失敗した、と内心冷や汗を流す徹也に、少女は何食わぬ顔で答える。

「……なるほど、道徳観の違いか。じゃあ、協力してもらってもいいかな?」

 唖然とした。同時に、自分がこの娘を守ってやらねば、という謎の使命感に駆られて、コクコクと首を振る。

 少女も頷き、ビルから見渡せる旧市街地、現廃棄区画の遥か先を指差す。

「まずはここから出たい。出来る限り人目に付かないように。できる?」

 徹也は面食らって、思ったことをそのまま口に出した。

「人目って、そもそもこの廃棄区画に人なんていない、……よね?」

 出会って始めて、少女の顔に表情が浮かんだ。徹也も同じ顔をする。

 怪訝な表情である。



 それでも、先の警官がいるかもしれなく、警戒しながら目白区へ移動する。

 移動中は徹也が道を指示し、少女が警戒しながら先導した。

 移動している内にも気温はどんどんと下がり、吐く息が白くなる。無理をしては身体を壊すが、かといって周りのビルの電源は生きてはいないだろう。原始的な方法で火を熾す技術など徹也が持っているはずもなく、二人は奪われる体温に逆らうためにも、自然駆け足になった。

 思いの外少女の足は速く、徹也は付いて行くだけで精一杯で、土地勘のない少女はその速度に合わせるしかない。

 ほとんどマラソンに近い運動量の徹也はまだよかったが、身体能力の高い少女は運動にではなく寒さで息を切らしていった。その様子に焦りながらも、走るしかない徹也は、とにかくベストを出そうとがむしゃらに足を動かし続ける。

 人の住まない街。ゴーストタウン。

 この街は死んでいた。死んだ街が、闇に消えていく。徹也と少女が走り抜けるごとに、流れる景色は呑まれていく。前を見れば、遠くに明かりがある。沈みゆく太陽ではなく、昇りゆく月でもない。それは、人工の星だ。文明の光が、二人の行く先にあった。

 ビルの屋上を後にして、おおよそ一時間ほどで廃棄区画を抜けたが、その頃には少女の体の震えは無視できないものになっていた。


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