一寸先は異世界
割と平平凡凡に生きてきた。
優しくない兄とわがままな妹、厳しい母ともっと厳しい父に挟まれ、何不自由なく暮らしてきた。平均よりちょっとだけ勉強が出来てちょっとだけ運動が出来たため小学校はそれなりに楽しかったが、中学校になって僕の平和は壊された。
番長というには大げさだが、いわゆるガキ大将みたいな奴に目をつけられた。きっかけなんてない、誰でも良かったんだろう。焼きそばパン買ってこいと命じられて無視したらものすごい勢いで殴られた。僕は生れて初めて理不尽という言葉の意味を本当に理解できた気がした。
同級生たちの中で背が高い方だが、性格はお人よし通り越して少し気が弱かった為、つけこまれてからが早かった。パシリを無視しては殴られ、焼きそばパンが売り切れれば蹴られ、僕はこれでもかと痛めつけられていた。同級生たちは同情の目で僕を見ていたが、誰も助けてくれなかった。僕も別にそれで余計腐ったりはしなかった。ここで助けに入ったらいじめられるのが自分に変わるだけだと誰もが想像するのが当然だと、僕は中学生らしくもなく達観していた。こういうところが余計いじめられる原因になっていたかもしれないな、と助けるつもりもない担任が言っていた。
息子がしょっちゅう殴られて帰ってくるので母はさすがに心配していたが、とりたてて騒いだり学校に行ったりはしないだけ助かった。兄が不良とまでも言わないが、僕よりも更にぼこぼこになって帰ってくるのがザラだったのだ。まともな顔して帰ってこない二人の兄を見て、まだ小学生の妹は「中学校に行かない」とよく泣いていた。気持ちは分からんでもない。
二年生に上がった。さすがにちょっと問題になり、基本的にクラス替えはしない学校だったが例外的にクラス替えとなり、僕はガキ大将と離れた。さすがに他のクラスにまでちょっかいを出す気はないのか、僕の日々は平和になったが、新しい級友たちは誰も話しかけてこなかった。こちらから一度だけ挨拶したことがあったが逃げられた為、僕から話しかけることはもうなくなった。みな、ガキ大将との関係者と関わりたくないのだろうと僕はまた達観していた。
五月になった頃、僕が歩いて学校から帰っていると、後ろから思い切り蹴られた。懐かしい感触、やはりというかなんというかガキ大将だった。
彼は明らかに苛立っていた。殴られながら言葉を拾うと、彼は僕のクラスの人間に僕を徹底的に無視するように命じていたらしい。それでも僕が登校拒否することもなく毎日通っているから、思い通りにならなくて腹が立ったらしい。女子のいじめか、うんざりした僕を彼はまた殴った。
ボス、先生がまた来ますと、手下が教えると、彼は少し落ち着いたが、怒りはまだまだおさまらない。ちっちゃな頃から悪ガキの兄は、自分から人を殴ることはなかったらしい。どうして、と僕が聞くと、「殴ったところで余計むかつくから」だそうだ。なるほど、目の前の彼が正にそんな風だ。
ふうふう、と鼻息の荒いガキ大将の横で、手下が困ったように彼を見ていた。彼も教師、もしくは親が怖いのだろう。びくつきながら、手下があることを思いついたようにガキ大将に耳打ちした。すると彼は、にいいっといやらしく笑った。そして、恐ろしい言葉を吐いた。
「お前、トロ子を犯してこい」
トロ子こと鈴子のことは、周りにさほど興味のない僕でも知っていた。クラスに一人はいる文学少女で、運動神経が鈍いなんてもんではなく、壊滅的にとろい。よく転び、致命的なドジをよくやらかし、女子には疎まれ、男子にからかわれては半べそかいている。自分が殴られ蹴られてるときも、さすがに彼女のことは同情していた。
そんな子を辱めてこいというのだ、僕はさすがに嫌だと叫んだ。極端な話だが、そんなことするくらいなら殺された方がマシだった。そんな僕を見てまたガキ大将が拳を振り上げようとすると、手下2号が笑顔で向こうから走ってきた。彼が引っ張って無理やり連れてくる三つ編みは、まさかの鈴子だった。
わけもわからずこんなところまで連れてこられ、鈴子はまた泣きそうだった。おろおろと、なぜか僕をじっと見てる。この場で唯一怖そうでない男子だからだろう。
ふと、手下2号が面白そうに、こいつトロ子と付き合いたいってよ、と、勝手に告白した。するとガキ大将と手下一号がおばちゃんみたいに両手をばんばん叩き笑っていた。ああもうどうにでもなれ、ため息が出た。断られるに決まってる。そしたら鈴子の手を引いて逃げよう。情けないが、職員室めがけよう。
しかし何も言わないなーまさか泣いてるのかなーそろそろ、顔を上げると、信じられないものを見た。鈴子が耳まで真っ赤になっていた。
「本当?」
「…え?」
「私で良ければ…」
えええええええええええええええええ
僕の驚声は空気に消え、一瞬の沈黙の後、またガキ大将たちがおかしそうに爆笑していた。良かったな、良かったな、と肩を叩かれている。
「おい、体育館空いてるか見てこい。写真部からカメラぶんどってこいや」
ほんとにそんな馬鹿みたいなこと始めさせてたまるか、僕は鈴子の手を引いて逃げ出した。ガキ大将たちは面白そうに指差して、いつまでも笑っていた。
職員室に行こうかと思ったが、変に告げ口して鈴子まで目をつけられては堪らないと思った。僕はなるべく人通りが多い道を選んで、どんどん歩いた。ふと、痛っ、と小さな声が聞こえた。僕はいつから鈴子の手を引っ張っていたんだろう。しかもすごい力で。
「ごめん!」
「う、ううん…怖かった…ありがとう」
べそべそ、と泣き始める鈴子を見て、少しだけ王子様気分を味わえた後に、その倍くらいに情けなかった。こんなに弱い女の子に気を使わせ、あんなことを言わせてしまった。
「えと、よかったら送るよ」
「ううん、この先すぐだから」
そうですよね、僕なんて頼りないですしね、まあさすがにあいつらもここまでついてはこないだろうと思っていると、ふと、鈴子が真っ赤な顔で携帯電話を取り出した。
「け…ぃ、たい、番号…」
「は、はいっ」
あっという間に赤外線で連絡先を交換し終えると、鈴子は嬉しそうに笑った。そんな彼女を見て、僕は首を傾げた。どうして連絡先を交換したんだろう。
考えながら彼女を凝視していると、鈴子は真っ赤な顔で、ようやく口を開いた。
「嬉しい…私、前から、千月君のこと、いいなって思ってたの」
「え」
「そ、それじゃあっ」
鈴子が転びそうに帰っていき、僕はその背中が見えなくなるまでずっと目で追っていた。そして彼女が完全に見えなくなる頃、僕は夕焼けに負けないくらい赤くなっていた。
それから、というのも妙な話だが、僕と鈴子は本当に恋人同士になった。
ガキ大将から鈴子への火の粉が心配で、朝は僕が迎えに行き、昼は一緒に食べ、放課後は一緒に帰り、眠くなるまでメールか電話をした。あっという間に距離は縮まった。
付き合ってみると鈴子はよくしゃべり、よく笑う子だった。休日は二人で本屋に行ったり、たまに奮発して映画に行ったり、タダのプラネタリウムに喜んでいったりして、あっという間に一学期が終った。
いいことは続くもので、鈴子が手下2号に引っ張られていったところを目撃した女子のお母さんがそれなりに権力のある方だったらしく、ガキ大将たちはあっという間に大人しくなった。たまに少し遠くから怒鳴られたりしていたが、鈴子がいると僕は無敵だった。全く怖くなかった。
夏休みになると、ますますあっという間だった。花火大会、お祭り、プール、エトセトラエトセトラ、宿題なんてやってられなかった、うそうそ、鈴子が怒るから、一緒に宿題もした。
日々は過ぎ、お盆になった。強制的に祖母の家に家族で行くイベントだ。県外のため、最低一泊はする。携帯も通じないド田舎だ、僕は過去最高に落ち込んでいた。鈴子に会えないうえに連絡取れないなんて、何の拷問だ。本気で凹んでいる僕を見て、兄ちゃんが笑った。
「母さーん。千が彼女とばあちゃん家行きたいって」
「ちょ!?」
「携帯…携帯…うわ、こいつ、気持ち悪。彼女の名前にハートつけてる」
「兄ちゃん、携帯返せよ!!」
勝手に電話をかけられ、彼女いたのかとばかりににやつく家族の視線に耐えられず、僕は庭へ避難した。もじもじ事情を説明すると、電話に出てくれた鈴子は嬉しそうだった。
『私は行きたいけど』
「ほんと!?」
『うん、でも、家族水入らずなのに、お邪魔じゃないかな』
「ないよ!全然!ないよ!田んぼと川しかなくて、全然遊ぶとこないけど…」
『千君がいれば、楽しいよ』
抱きしめたい!!
「泊まることに…っ、なるけど」
『…え、あ、そうか、そうだよね』
「もももももちろん、僕と部屋は違うから」
『私は…別に…』
ちょ、ちょっと鈴子ちゃん、そんなこと言って!お父さん、そんな子に育てた覚えはありませんよ!
「鈴ちゃん!愛しっ」
「千!電話長ぇ!!行くのか行かないのか早く聞け、車片付けるの俺なんだよ!!」
結局、行くことになった。母は喜ぶあまり翌日に出発しようと言いだした。鈴子の予定が空いていてよかった。
朝早くに、運転席に父、助手席に母、後ろに僕と兄、更に後ろに鈴子と妹。いつものワゴン車で出発した。席順にちょっと、いやかなり不満があったが、さすがに家族の前でごねられなかった。
妹はちょっと人見知りのため最初は鈴子を警戒していたが、彼女が優しいと分かるとすぐに打ち解けて、一緒に歌ったりしていた。母と兄の遠慮のない質問責め、わがまま放題の妹、嬉しそうな父、僕は恥ずかしいながらも幸せの絶頂だった。鈴子の歌声を聞きながら、僕は夢見心地で眠ってしまいそうなとき、ふと、道がないことに気付いた。
「え」
身を裂かれるような痛みは一瞬で、まばたきすると、なぜか、森の中で横になっていた。最初は夢かと思ったが、ぬかるむ土も、降ってくる雨もどうしようもなく現実だった。どうにか体を起こすと、目の前には巨大な崖が高々とあった。
携帯ゲームのしすぎで視力が悪い目をこらしながら見上げていると、ガードレールに見えなくもなかった。まさか本当にあの先道がなくて、あそこから車ごと落ちてしまったのか―ぞっとしたものが背中を走った。自分の体をぺたぺたと触ってみる。どこも怪我した様子もない、妙にだるいがそれだけだ。不思議に思いながらも、僕は歩き出した。家族と鈴子の名前を交互に呼びながら歩き出した。
返事がない。車もない。誰もいない。おかしい―言い寄れぬ恐怖が僕の体内を走った。自分だけ少し遠くに投げ出されたにしても、この無傷ぶりはおかしい。そもそも自分が崖の下に落ちたんだろう、車ごと落ちたんだ、みんなとそこまで遠くに離れているわけ―
中二らしく頭をフル回転させた。自分だけ落ちた可能性。自分は眠くて窓際に寄りかかっていたし、ありえなくもない。崖上に向かって大声を張り上げてみたが、誰か覗きこんでくる様子も、声が返ってくる様子もない。
ふ、と、ポケットの中の文明の利器の存在を思い出した。携帯電話だ。とりあえず誰でもいいか連絡取ろうとすると、圏外だった。電話も出来ないまだそこまで田舎じゃなかったはずだ。直前まで、鈴子と妹が携帯アプリで遊んでいたし。
落ちた拍子で携帯電話が壊れたかもしれない、何度も再起動してみたが駄目だった。携帯は諦めた、僕は崖を上ってみようかと思ったが、降りつける雨と滑る足元、ほぼ直線に近い崖、十数センチも登れなかった為、僕は崖も諦めた。
とりあえず歩こう―僕は歩き出した。
歩いて、歩いて、どれくらい経っただろう。誰にも会わない。誰にも会えない。時折思い返したように家族の名前や鈴子の名前を呼んでみるが、当然返事もない。携帯電話も取り出してみる。相変わらず圏外、そろそろ充電が切れそうだ。雨にうちつけられながら、おかしい、とまた思った。
未受信メールの表示すらない。携帯が電波のない状態で、メールが届いたときのあれだ。電話が通じないなら、メールの一通くらいくれてもよさそうだ。考えたくなかったが、僕が以外全員死んでしまった可能性を考えた。ありえなくもないが、それにしても助けが来なさすぎる。歩いているとはいっても子供の、おまけにこんなふらふらした足だ。恐らくたくさん来てくれるであろう人たちが見つけられないものだろうか。
もうじっとしていようと考えるときもあったが、止まった瞬間、寒さで凍えそうだったため、体を動かし続けるしかなかった。思えばこの寒さも疑問だった。今、八月だぞ。
もしかして怪我はしていないが体の異常があったかもしれないが、もうそんなこと考えている場合ではなかった。とにかく歩いた。誰かに会えることを祈って。
長くなったが、これが僕だ。いじめられたこともあったが、幸せになった途端、これか。神様意地悪しすぎじゃないか。もう、疲れた。どれだけ歩いただろう。数時間、数日、数十日―…
もう感覚もない、いつまでも続く森、また森、空腹と孤独と疲労はとうに絶頂を超え、僕はとうとう意識を投げ出した。せめて鈴子とチューしたかった、我ながら最低レベルの、それが遺言になると思っていた。