漆黒の大穴と不可能の世界
蜘蛛はぴくりとも動く事は無い。いや、動いたらそれは正にホラーだ。horrorだ。何故英語にしたし。
「ふいーー……」
長い溜め息を吐く。こんなに疲れたのは久々だ。全身が鉛の如く重い。遅々とした足取りで蜘蛛の亡骸から剣を引き抜くと、やはり深紅の血がべっとりと刀身を染めていた。
本来ならば存在してはならない、忌まわしき生を受けた化け物。
《ウロボロス》か。通常存在する生物が此処ーーー《下界》から溢れ出る障気、《ミセリアの光》を浴びる事で変化した生物。無論、活動範囲は《下界》のみであり、如何に異形の化け物とは言え《ボイド》へ落とせばそれだけで絶命させる事が出来る。
「それでもキツいよなぁ……」
俺は後ろの方を向く。薄暗い緑色通路は途中で途切れている。
その先に有るのは、漆黒の大穴。直径1セルクルは優に超えているだろう。ただ1つの光すらも見えない、暗黒が広がっている。深さは想像も出来ない。まあ、間違いなく死ねるだろう。
《ボイド》。《下界》の中心ーーーと言うか、体積をほぼ占領するのがこの大きな《穴》だ。故に《下界》の通路はボイドを取り囲む構造で、縦に広い。
基本的に下に潜れば潜るほどウロボロスは出現し易い。それも強いウロボロスが。俺が今いる場所は最下層の通路が10だとすれば、7程度の深度だ。かなり強い。命が保証される等有り得ない。
だが。
「見返り、結構デカいんだよな」
いつの間にか蜘蛛の体は綺麗さっぱり無くなっている。しかし其処に1つだけ、あるものが鎮座していた。
口端に笑みを浮かべる。
これだ、俺はこいつが狙いだったんだ。
これは所謂 《ドロップ》したアイテムだ。生命活動が停止した瞬間にミセリアの光は体を蹂躙し、消滅させる為にウロボロスの死体は残らない。
ただ、必ず1つだけ、どのウロボロスも自分の《存在の証》とも言える物を残すのだ。形見、とでも言えば良いか。其れをウロボロスは体内で細胞を纏め、体の一部に宿す。
「……おお、こいつは《腕》に宿したみたいだな」
先程の機械蜘蛛が遺した物は《腕》だった。白銀の金属が幾つも繋がり、その内部では蜘蛛の腕が蠢いている。通路のブラックライトを乱反射し、俺が軽く力を込めると電流が渦巻いた。
上等。
「……やっぱり、危険に見合う価値はある、な」
ハイリスク・ハイリターンだが、こんな事をしている奴らはごくごく一部の物好き達だ。
そもそも。
この《下界》で暮らしている人間など、それこそごく僅かな人間なのだ。普通の人間は《下界》の存在こそ知るが、実際に行った者は居ないだろう。御伽や遠い昔の勇者の話で聞く、といった程度か。
この《下界》と上の世界ーーー《上界》を隔てるのは1つだけだ。しかし其れは、全てを拒絶する絶対不可侵の巨壁。下界最上部で哀れな俺を含めた下界連中を跳ね返す鉄壁。あれがある限り、俺達はこの地獄で生き続けねばならない。
では何故、そのような強固な壁を造り、完全に分けるのか。
理由は単純明快。《一度行けば、帰ってこれない世界》。
それが、《下界》なのだ。