命・比重【2012年6月7日】
妊娠が発覚して、そして出産へ。まさか五人目で、こんな事態になるとは、僕も妻も予想していなかった。
数時間前まで笑顔で話をしていた妻が今、隣で苦痛の表情でラマーズ法で息をしている。
妊娠がわかった時、僕達夫婦、そして子供達、両親達に困惑の表情があがった。
今回で五人目。出産を決めたのは妻だった。妻以外は皆反対した。けれども出産をする妻本人の強い希望に僕は折れた。妻の意思が強かったから。
三十代後半の出産、それは妻の身体に大きな負担を与える事は承知している。けれども本人がそれを望んでいる。困惑の表情の中に、喜びに満ちた光を持っていた。
そして今、妻は妊娠中毒症かもしれないような状態の中、必死に遠退く意識と戦いながら出産の時を迎えようとしている。
僕に出来る事。祈ること。支えること。手を握り、傍にいてあげること。それ以外何もできない。背中や腰を摩ってあげても、場所が違うらしい。女性にしかわからない痛み。出産前の女性にしかわからない苦しみ。代わってやれるものなら代わってやりたい。そんな生易しいものじゃないだろうけど。そんな簡単な言葉しか浮かばない自分が嘆かわしい。
血圧の上昇。両足の浮腫。蛋白尿。体重増加。そんな中、出産予定日を迎えた。何も兆候無し。産婦人科の医師は、陣痛促進剤での強制出産へと踏み切った。
翌日の午前八時三十分入院。入院直後、陣痛促進剤と血圧降下剤の点滴開始。点滴を始めて三時間、何の兆候も無いまま時間だけが経過していく。そして昼食の最中、事態は急変した。
激しい腹痛と腰の倦怠感。吐き気があり、ラマーズ法で息を始める。身体を捩り悶絶する妻。手を握り、腰を摩るしか出来ない僕。そして……。
午後二時頃、当初出産状態ではなかったにもかかわらず、陣痛促進剤の効果もあり浣腸を施行後分娩室へ移動。
立ち会い出産は、事前に講習会を受けた者だけが許可された事であった為、僕は分娩室の前の椅子に座ったまま祈る他になかった。手に汗をにぎりしめ、耳鳴りと頭痛がする。それでも、そんなのは今の妻の苦しみに比べれば、溜息が出る程生温いことだ。
高齢出産の危険性は知っている。熟知している訳ではないけれど、知らない訳ではない。その少ない情報だけが脳内を廻る。時折聞こえる妻の「ヒッヒッフ〜」という声。祈る事しか出来ない僕。それしか出来ない僕は……無力だ。
声が聞こえると、不安と安心が心を支配する。声が聞こえなくなると、不安だけが心を黒く染める。無力な僕に許された無力な精神力は、そんなものしかなかった。逃げ出したい。この場から立ち去りたい。けれども、それを僕は許さない。だって、今の妻の苦しみは、僕の罪でもあるんだから。
午後三時、まだ出産しても良い状態ではないらしい。普段泣き言を言わない妻が「ぃ痛ぁぁああ〜い!!」と泣き叫んでいる。どうすればいい? 僕に何が出来る? 無力な僕には何が出来るんだろう……?
午後三時十五分、第五子誕生。助産婦の「おめでとう!!」という声の後に、今、光の中に落とされた命の産声を聞く。同時に妻の声が消えた。喜びと同時に不安が頭を過ぎる。
午後三時三十二分、助産婦から声が掛かり入室を許可された。体重二千八百五十五グラム、身長四十八.四センチメートルの女の子。母子共に元気。思わず涙が溢れ出た。体温が三十六.三度と低いと助産婦が言っていたけど、元気そうで何より。
そんな他人からみれば、たわいもない一時の出来事を綴った雑記。僕の思いと状況が入り交じった雑記。
それで終わりだと思っていた。
午後六時三十六分、子宮収縮の点滴を行っていた妻が急激に苦しみだした。それまでもそれなりには痛みを訴えていたが、病室に戻った直後のことだった。出産の時と同じような苦しみの声。そしてドクターの診察と共に、妻は再度分娩室の中へと車椅子で連れられていった。
午後七時三十分、出血量が多く、輸血の必要性があるとの事で、総合病院へ転院。命への危険性もあるとの事。妻の命がどうなってしまうのかとハラハラしながら、先に総合病院に移動して妻の到着を待つ。
午後八時十分、妻が救急車に乗せられ搬送されてきた。すぐに処置室ではなく分娩室へ運ばれる。僕は蚊帳の外で、妻の無事だけを懸命に祈り続けていた。
午後八時三十分、分娩室へと通された僕は、妻の落ち着いた表情を見て極端な安心感から崩れ落ちそうになった。すぐに妻の手を握り、出来る限り妻に不安感を与えないように声掛けする。妻は子宮収縮剤の点滴を受けながら、痛みと戦い苦悶の表情を浮かべていた。
午後十時、点滴も終了し病室へ案内された。四人部屋にもかかわらず、一人部屋状態。妻は、僕の身を案じて早く帰るように言っている。僕は、もう少し居てると伝えたが、居ても何も出来ないので帰宅する事にした。妻へ出血が酷くなったり、トイレに行きたくなったらナースコールを押すこと。処方された内服薬をきちんと服用することを約束して。
夜、夢を見た。あの多量出血の時、妻が死んでしまう夢。僕は、医師の胸倉を鷲掴みにして叫んでいた。
「だからアイツが言ってただろ!! 胃の調子が悪いって!! 随分前から浮腫もあっただろうが!! 貴様のせいだ!! 貴様が殺したんだ!!」と。
涙を流して怒鳴り散らしていた。自分の命なんて、ヘリウムガスより軽いものだと思っているこの僕が……。
いやぁ、今回は大変でした……。でも、貴重な体験でもありました。
本当は、成長記録として連載化する予定でしたが、私の仕事が不規則なため断念。
もし、また続きが書きたくなったら、別の短編で。(笑)