第七章 来訪
格子窓の隙間から覗く未明の空を見つめながら、織瀬はそっと胸に手を当てた。心の臓が、今までにないほどの速さで脈打っている。
那岐山龍守と外廷で対面し、その後菊理の説教を聞きながら隠し通路を戻り、明瑠の涙混じりの抱擁に迎えられ──あまりに怒涛の出来事に対したせいで、眼はすっかり冴えてしまっている。
「とりあえず少しでも寝てくださいね。目の下に隈なんて作られたら、朝の化粧が大変なんですから!」
「菊理、姫様に何て言い方を……! 姫様、那岐山侯爵とのことについては菊理から聞きますから、姫様はお休みになってください」
二人の侍女たちによって半ば無理矢理寝室に押し込められたが、とても眠れる気がしない。何よりこの寝台の下にある通路を使い、織瀬は今世で初めて外廷へ出たのである。そう考えれば、今に限らず今後もこの寝室で安眠できるとは思えなかった。
(それにしても、菊理はかなり怒っていたわね……)
外廷からの帰途、今までにない剣幕で織瀬を叱りつける菊理の様子を思い返し、胸が痛んだ。きっと今頃、菊理は明瑠にも織瀬と龍守との間で交わされた約束について伝えているに違いない。
(私は皇女……。いずれ結婚する時には、その相手は朝議で決められることになる。相手は安比家や豊雲家のような上位貴族か……いいえ、葛城公爵がわざわざ政敵に皇女の夫という権威を与えるはずがない。そうなると考えられるのは他国の王族か貴族か……)
いずれにしても、そこに織瀬の意思が入り込む余地はない。そう考えれば那岐山龍守と結婚するというのは、決して悪い話ではないはずだ。少なくとも、生まれ育った橘花国に留まることができる。
(けれど、きっと菊理と同じように明瑠も怒るわよね……)
仮にこの話が耳に入ったとするなら、同母弟である珀亜も同じような反応をするだろう。
「橘花国の為に、なぜ姫様が自分を売るような真似しないといけないんですか!」
そう激昂する菊理に、織瀬は諭すように言った。
「それは、私が皇女だからよ。皇族というのは、国があるから存在できる。だから国を守るためには、持てる全てを賭けなければいけないの」
「そんなの絶対おかしいです!」
「おかしくないわ。それが皇族の務めだもの」
平然とした織瀬の答えに、菊理は唇を噛んだ。
「あたし、時々姫様のことがわからなくなります……。何でもっと自分を大事になさらないんですか。自分を道具のように扱って、さもそれが当然のように……」
今にも泣きだしそうな菊理を前に胸の騒めきに襲われたが、織瀬は自分の選択を微塵も後悔していなかった。むしろこの身ひとつで国が救えるならば、安いものだとすら感じてしまう。
(ごめんなさい。菊理、明瑠……。私はどうしても成さなければならないことがあるの)
罪悪感を押さえこむように襟元を握りしめて、織瀬は那岐山龍守の紅い瞳を思う。誰かに頼らなければ、何一つ成すことのできない自身の無力さを呪いながらも、龍守の瞳にはそれらの負の感情を全て拭い去ってしまうような強さがあった。
初め見廻りに見つかりそうになったときの言動には頭を抱えたけれど、今は彼ならば何とかしてくれるはずという根拠のない確信が織瀬の胸の内に満ちる。
(不思議だわ。彼は言わば、前世の仇とも言える人なのに……)
そっと翡翠色の瞳を閉じて、織瀬は柔らかな寝具の上に身を横たえる。程なくして、織瀬の花びらのような唇から、静かな寝息が聞こえ始めた。
*
「恐れながら、公爵閣下。ここがどこだか知っての仰せですか」
「知っているに決まっていよう。私は翠蓮皇女に会いに来たのだ」
「翠蓮宮は──いえ、後宮は皇族以外の殿方が立ち入ることを禁じられております。どうかお戻りを。姫様にご用でしたら、後ほど朝堂へ参りますから……」
「侍女ごときがいい度胸だ。さっさとそこをどけ」
「ですが……っ」
そこで、何かが床に落ちるような音がして、織瀬は眼を擦りながらゆっくりと身体を起こした。
(私、いつの間にか眠っていたのね。それにしても、今の音は……)
窓の外の陽の高さを見るに、夜が明けてから半刻も経っていないだろう。普段しない夜更かしをしてしまったせいか、頭の芯が鉛のように重い。
(何かあったのかしら。明瑠の声が聞こえた気がしたけれど)
寝台の上に無造作に放ったままになっていた上衣を肩に羽織ると、織瀬は部屋の扉に向かった。しかし織瀬が引き手に触れるより先に、扉が開かれる。
「姫様! すみません、騒がしくて……起きちゃいましたよね」
菊理がいつもの侍女の装束を纏い、そこに立っていた。
「でも起きたならちょうど良かった。その格好では奴を刺激しかねませんから、速攻で着替えましょう。なるべく地味で、防御力高そうな着物持って来ましたから」
「もしかして……さっきの声は葛城公爵なの?」
「そうですよ。とりあえず明瑠が足止めしてますから、今のうちに身支度しちゃいましょう」
化粧道具を卓の上に置き、着物を広げる。寝衣を脱いだ織瀬にその『防御力高そう』な着物を着せ掛けると、てきぱきと着付けをしていく。姿見には、いつになく地味な紺色の装束を纏った織瀬が映っている。
「駄目だ。防御力高そうと思ったけど……姫様が美人すぎるせいで別の意味でそそられるかも……。せめて胸元をもっと閉めて、化粧も控えめに……」
化粧筆を持ってぶつぶつと呟く菊理に、織瀬は訊ねる。
「菊理。葛城公爵は、何故翠蓮宮に?」
「さあ。黄華宮の侍女の話だと、宴の後は皇太后のところに泊まったみたいですけど」
「まさか、私が那岐山侯爵と会ったことに気づいたわけではないわよね」
「それは、大丈夫だとは思いますけど……。あの豺牙とかいう男も、多分姫様の顔は見ていないと思うし……」
「……菊理。さっきは聞かなかったけれど、貴女いつから見ていたの?」
「姫様が始祖神の廟を出たところからですかね。あの金髪野郎が姫様を抱き寄せた時は、殺してやろうかと思ったけど……。咄嗟にその辺にいた野良猫使って見廻りの気を逸らそうとしたけど、豺牙は騙されませんでしたね。ちょっと警戒したほうがいいかも」
「私、貴女たちに信頼されていないのね……」
「なに子どもみたいなこと言ってんですか。信頼してないんじゃなくて、心配してたんですよ。あたしも明瑠も。……さあ、できました」
織瀬の唇に紅をさし、菊理は立ち上がる。
「うん。目の下の隈も隠せてるし、良い感じ。……どうします、姫様。明瑠も頑張ってるみたいだけど、そろそろ限界かも」
葛城公爵と思われる男の声と、それを制止する明瑠の声が、段々と近くに聞こえてくる。
「どちらにしても私が出て行かなければ、葛城公爵は納得しないでしょうね。何の用かはわからないけれど……」
鈍く痛むこめかみを押さえながら、織瀬は菊理とともに寝室を出た。
*
「葛城公爵! そちらは姫様の寝室です。これ以上の狼藉は……!」
「狼藉だと? 貴様、私を誰だと思っている」
珍しく、護衛は豺牙だけのようだった。宴の時と同様全く感情の読めない顔をした男は、無遠慮に宮の中に立ち入った主君の後を、ただ黙って付き従っている。
「おはようございます、葛城公爵に豺牙将軍。このように朝早くから、一体どうなさったのですか?」
静かに扉を開け、織瀬はゆっくりと廊を進む。葛城公爵に対する明瑠を庇うように、その前に立った。
「これは、翠蓮皇女。ようやくお目にかかれましたな。幾度頼んでもこちらの侍女が通してくれませんでね……。皇女のほうからお出ましくださり助かりました」
「明瑠のことをあまり責めないでください。彼女は後宮のしきたりに従ったまでですから。……それで、そのしきたりを破ってまでおいでになるとは、余程火急の用件なのでしょうか」
織瀬は微笑んだ。
皮肉を込めた織瀬の問いに気を悪くした風もなく、乙彦は唇を歪める。
「ええ、実は急いで確かめねばならぬことがありましてな。……翠蓮皇女。昨夜の宴の後、貴女はどこで何をしておりましたか?」
「宴の後ですか。この翠蓮宮に戻り、そのまま就寝いたしました。葛城公爵のお声が聞こえて目が覚めましたが、それまでずっと寝室で眠っておりました」
「それを証明できますかな?」
「証明ですか。おかしなことを言うのですね。……公爵閣下、質問の意図をお伺いできますか?」
「いやなに、大したことではないのですがね。私の後ろにいるこの男が、外廷に翠蓮皇女がいたなどと言うものですから」
「豺牙将軍が?」
織瀬はゆっくりと、視線を乙彦からその背後に立つ豺牙へと向ける。全く感情を感じられないと思っていた豺牙だが、織瀬と視線がぶつかると僅かに目を泳がせる。
(……これは、私に探りを入れているのね。豺牙将軍の様子を見るに、確信があるわけではなさそうだわ)
それならば、と織瀬は努めて穏やかな微笑みを浮かべたまま口を開く。
「それは、一体いつ頃のお話でしょうか」
「寅の刻あたりと言っていたな、豺牙」
「は……」
「そうですか。申し訳ありませんが、それは見間違いでしょう。今のその時刻なら、まだ月も昇っていないでしょうし……私と似た背格好のどなたかと、間違えられたのではありませんか」
「翠蓮皇女と似た誰か……。そのような者、宮中におりますかな」
乙彦はあの怖気を感じさせるような視線を、織瀬に纏わりつかせる。悪寒に堪えながらも、織瀬は冷静に言葉を紡ぐ。
「それは、いるでしょう。私は確かに女にしては上背がありますが、そこの明瑠とて同じくらいの背丈です。……それにそもそも、そのような時刻に私がどうやって外廷へ出ると言うのです? 夜間外出の禁がありますから、その時刻はどの門も閉じられております。もちろん、この後宮とて例外ではありません」
「方法などいくらでもあるでしょう。門衛に袖の下を渡すなり、あるいは……皇族しか知らない、秘密の抜け道を使うなど」
「公爵は意外と想像力が豊かなのですね。確かに方法としては不可能ではないのでしょうが……。ではなぜ、私が外廷へ行かねばならないのです? 法を犯してまで、一体何の目的で?」
「那岐山龍守に会っていたのでしょう?」
「……」
内心の動揺を隠すために、織瀬はわざと深く息を吐いた。
「なぜそこで那岐山侯爵の名が出てくるのか、理解しかねますが……。公爵は、なぜ私が那岐山侯爵と会っていたとお思いなのですか」
「この男がそう申しておりますのでね」
「豺牙将軍が、私と那岐山侯爵が会っているところを見たと? ……申し訳ございませんが、宴でお酒を過ごされたのではありませんか? 本当に私を見たのですか?」
織瀬はそっと、翡翠色の瞳を豺牙へと向ける。すると、今までほとんど無言だった豺牙がゆっくりと口を開いた。
「俺は、宴で酒は一滴も口にしていない。あの那岐山龍守という男が、外廷で女と会っていた。そしてその女は、翠蓮皇女だ」
「なぜその女性が私だと? 顔を見たのですか?」
「見ていない。だがあの女は翠蓮皇女に違いない」
「……話になりませんね」
織瀬はあえて怒りを感じさせるような表情を作る。
「葛城公爵。何が何でも私が法を犯したことにしたいという、そのご意志は伝わりましたが……それならばもっと客観的な根拠を提示してください。これでは法廷で私が否認した場合、有罪を主張するのは困難ですよ」
乙彦は、まるで小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「なに、私はこの話を司法の場に持ち込む気はございませんのでね。ただ貴女がお認めくださればそれで良いのです。……那岐山龍守と、一体何の話をなさったのですか」
「前提が間違っている問いに答えることはできません。私は昨夜の宴の後から今に至るまでずっと翠蓮宮におりましたし、那岐山侯爵と会ってもおりません。……ご用件がそれだけでしたらどうぞお引き取りを。あまり長居をなされると、皇太后陛下の怒りを買うのではありませんか」
「おや、なかなか痛いところを突いてくる。もっとも怒りを買うのは私ではなく貴女のほうでしょうがね。……仕方ない。予想以上に貴女が強情なので、今日のところはここで勘弁して差し上げましょう。行くぞ、豺牙」
「は」
踵を返す乙彦の後に、豺牙が続く。大柄な二つの背が早く視界から消えてくれないかと祈るような思いで織瀬が見つめていると、不意に乙彦が歩を止めた。
「そうだ。翠蓮皇女に、もう一つお伝えせねばならぬことがあった」
「……何でしょうか」
織瀬はなるべくうんざりした様子が伝わるように、溜め息混じりに返答する。乙彦はくっと喉を鳴らすと、ゆっくりと織瀬を振り返る。
「先程、南陽皇子の朝餉に毒が盛られていたとの報告がありました」
「な……!?」
「幸い南陽皇子はご無事です。鬼役が一人、血を吐いて華彰のところに担ぎ込まれましたがな」
薄ら笑いを浮かべる乙彦を前に、織瀬はぐっと拳を握りしめた。
「鬼役の容体はどうなのですか」
「しばらく安静にしていれば回復するそうですよ。口にした量も少なかったようですし、毒自体もそれほど強力なものではなかったようです。……ですが次はどうなることやら」
「……どういう意味ですか」
「翠蓮皇女はお優しい。我が妹や姪などは、近侍の者をまるで虫けらのように扱っているというのに、貴女は毒見役のことまで心配なさる。……今回は無事でしたが、もし実弟である南陽皇子に害が及べば、貴女はどのような顔をなさるのですかな」
「……」
織瀬は無言のまま乙彦を見つめる。するとついに耐えきれなくなったのか、背後で菊理が叫んだ。
「葛城公爵! いくらなんでも無礼が過ぎますよ!」
「菊理、止しなさい。貴女の身分で公爵に言葉をかけることは許されません」
「だって姫様……!」
「下がりなさい」
織瀬は真っ直ぐに乙彦の顔を見る。那岐山龍守のような並外れた秀麗さには遠く及ばないが、この男もそれなりに整った顔立ちと精悍な体つきをしている。若かりし頃、この見映えのする兄に皇太后は夢中であったのだろう。
今は摂政の位に収まっているが、葛城乙彦は元々は武人であった。十八年前、宗我家の乱を鎮圧したことで名を上げ、妾の子であったものの前葛城公爵の正室であった水葉帝に子がなかったため公爵位を嗣ぎ、妹を皇后の位に着け──。一筋縄ではいかない相手であることは明白だった。
「翠蓮皇女。今回は鬼役で済みましたが、次は貴女に近しい人間に類が及ぶかもしれません。くれぐれも身を慎まれることだ。……何もしなければ、そう、そのお美しさです。例え毒姫であろうとも、それなりの需要はありましょう」
今度は一度も振り返らず、乙彦は豺牙とともに翠蓮宮を出て行った。
織瀬は唇を噛み締めると、背後の侍女たちを顧みる。
「菊理。祠部司に話したいことがあるの。何とか会えるようにしてくれるかしら」
「祠部司……ですか。今なら朝の卜占のために朝堂にいるだろうから、捕まえられるとは思いますけど」
「では、なるべく急ぎでお願いね。……それと明瑠。貴女は珀亜の様子と、華彰のところへ行って鬼役の具合も見てきてくれるかしら」
「かしこまりました」
それぞれの役目を果たすべく姿を消す侍女たちを見送り、織瀬は思案する。今から取る行動は、結果的に葛城乙彦を助けることになるだろう。甚だ不本意ではあるが、龍守に語った通り、無辜の人間たちの犠牲を最小限に抑えるためにはこれが最善なのである。
(祠部司と話をして……上手くいけば、那岐山侯爵が懸念していた兵力の問題が解決できるかもしれない)
龍守は織瀬に対して何の助力も期待していないようだったが、皇女として橘花国の命運がかかっている状況に、ただ座して待つことは堪えられなかった。
*
遠くから聞こえて来る、どたどたという聞き慣れた落ち着きのない足音。ほとんど意識もないままに眉を顰めると、龍守は気怠げに長い睫毛を上げた。額に落ちかかる髪を無造作に掻き上げると、ゆっくりと寝台から身を起こす。
徹夜自体は慣れたものだが、今日は頭の芯が鈍く痛む。こういう日は、大抵雲行きが怪しくなるものだ。今夜は一雨来そうだな、などと考えていると、足音が部屋の前で止まった。
「おい、起きろ龍守! 大変だ!」
戸が吹き飛ぶのではないかと思われるほどの勢いで、隼人が龍守の寝室に駆け込んで来た。
「お、何だよ。起きてるじゃんか」
「お前の騒がしい足音で起こされたのだ。……それはともかく、もっと静かに入ってこれんのか。お前のおかげで、屋敷中の戸の建て付けが悪くなってかなわん」
「小言は後にしろよな! まあ良いや、とにかくさっさと顔洗って着替えろ。面倒くせぇ客が来やがった。今は鷹比古が相手してるけど……」
「面倒な客? 誰だそれは」
「葛城乙彦と愉快な仲間たち」
「……」
龍守は眉根を寄せると、無言のまま隼人の頬を平手打ちした。小気味良い音が、部屋に響く。
「痛ってぇな! いちいち手ぇ出すんじゃねぇよ、暴力反対!」
「そういう肝心な事は初めに言え阿呆」
「お前が戸がどうとか言うから言いそびれたんだろ!」
「お前が万事においてがさつなのが悪い」
「お前に言われたくねぇんだよ馬鹿野郎!」
「ちょっと、何を龍守様に絡んでいるんですか隼人殿! 貴方は伝達ひとつまともに出来ないのですか!」
隼人が開け放ったままになっていた戸から、倶知比古が顔を覗かせる。両手に洗面用の水が入った桶を抱え、両腕に龍守の着替えやら装身具やらを鈴なりに下げている。
「ほら見た事か。倶知比古にも言われているぞ」
「こいつはいつも俺にだけ塩対応だろ!」
「少し黙っていてください隼人殿。──龍守様。お休みのところ申し訳ございませんが、急ぎお支度を。先生が場を繋いでおりますが、どうも不味い状況のようです」
「……不味い状況?」
顔を洗うには邪魔になる長髪をうなじの辺りで括りながら、龍守は問い返す。
「どうした。翠蓮皇女のことがもうばれたか」
「あるいはその可能性も」
「……」
一瞬動きを止めた後、龍守は溜め息を吐きながら桶の水を白皙の面に浴びせかけた。
「予想よりも早いな。危うく後手に回るところだった」
倶知比古から受け取った手拭いで顔を拭うと、寝衣の帯をとき、自身の瞳と似た深紅の衣に袖を通す。括っていた金髪をほどき簡単に梳ると、手慣れた仕草で耳の辺りの高さで小さく髷を作り、簪を刺す。
「よし、寝起きゆえこんなもので良いだろう。……お前たちもついて来い」
衣の裾を翻すと、龍守は颯爽と寝室を出て行った。深紅の衣の背で優雅に揺れる金髪の後に続きながら、隼人がぼそりと呟く。
「ムカつくけどこういう時美形は良いよな。適当にしててもそれなりに見えるんだから」
「全くです」
普段は隼人の言葉にいちいち突っかかる倶知比古も、これに関しては素直に頷きを返す。
「にしても、どっからバレたんだ? 龍守のことだ、自分はともかく皇女のほうは素性がバレないように気をつけてたはずだろ?」
「そのはずです。見廻りに見つかった時も、皇女殿下の顔は見られぬようにしたと仰っていましたから。……あの後元々当てがわれていた部屋に戻り、貴方が船を漕いでいる時に」
「宴で気疲れして滅茶苦茶眠かったんだから仕方ねぇだろ。つーかお前、俺に嫌み言わねぇと死ぬ病気なの?」
「ほとんど何もしていなかったくせに、どこに疲れる要素があったんです?」
「お前なぁ……!」
隼人と倶知比古が言い合いをしている間に、龍守はすでに客間の入り口へと辿り着いていた。躊躇いもなく扉を開けると、多くの人々の心を蕩かせた微笑を薄い唇に湛え、恭しく頭を垂れる。
「公爵閣下にご挨拶申し上げます。我があばら屋に、閣下自ら足をお運びいただけるとは恐縮です。……さて、このような早朝から一体どのようなご用件でしょうか」
室内の複数の視線が、一斉に龍守へと向けられた。一人は鷹比古で、寝不足のせいでいつも以上に険しさを増した眉間に、深い縦皺を刻んでいる。広い客間のうちの上座には、尊大な様子で足を組む乙彦が座し、周囲には護衛であろう五人の男たちが侍っている。その中でも一際目立つ体格をしているのは、つい二三刻前に外廷で顔を合わせた豺牙という武人である。昏い井戸の底を思わせる瞳からは、一切の感情も感じられない──龍守はこの男について、そのような印象を持っていたのだが。
(……何だ? 妙な目で俺を見ているな)
それは、今まで多くの者たちから龍守が向けられてきた感情と、同じ色をしているように思えた。
(憎悪……いや、嫉妬? この男に何かした覚えは全くないのだがな)
そこまで考えたところで、龍守は豺牙から視線を外す。人となりに関する情報もほとんどない中で、豺牙の感情を推しはかるなど、時間の無駄だ。龍守は微笑を崩さずに乙彦に紅い瞳を向けた。
あからさまに苛立った様子で、乙彦は指先で卓を叩く。
「……早朝だと? お前は普段からこのような時分まで惰眠を貪っているのか。宮廷では全ての官吏たちが出仕している時刻だぞ」
「これは失礼を。昨夜の宴での酔いが抜けておらず、つい寝過ごしてしまったようです。言われてみれば、随分と陽が高い位置にありますな」
「妙なことを言うものだな。お前が酔った姿を見た者など、ついぞ聞いたことがないが」
「顔に出ぬだけで、それほど酒に強いわけではないのですよ。今も二日酔いで頭痛がする始末でして」
「本当にただの二日酔いか?」
「どういう意味でしょう」
「夜明け前に、外廷で女と会っていたのだろう?」
「……」
龍守はこれ見よがしに溜め息をついてみせた。
「そちらの豺牙将軍からお聞きになったのですか。やれやれ、このような些事を報告するとは無粋なことをなさる。せっかく帝都に戻ってきたのです。少しくらい羽を伸ばしたところで罰は当たらないでしょう?」
「帝都では子から寅の三つ時までは外出を禁じられていることは知っているな?」
「もちろんでございます。それ故に、宴の後もほとんどの参加者は宮中に留め置かれたのですから」
「そうだな。そしてそれ故に、お前は四年前私の小姓を殺した」
「……」
龍守は瞑目すると、静かに乙彦の前で膝を折った。
「……龍守様」
倶知比古が小さく呟く声が聞こえたが、龍守は構わず床に額を付く。
「……何の真似だ」
「私ごときが謝罪したところで、失われたものが戻ることはございませんが、それでも一言詫びを申し上げたく。その節は大変申し訳ございませんでした」
「……」
探るような視線が、額づいた龍守の上に突き刺さる。乙彦がその気になれば、ほんの一振りで龍守の首を落とすことも可能だろうが、この男はそこまで馬鹿ではないと龍守は踏んでいる。
生まれだけで実権を握れるほど、政事は甘くない。先帝は国政への関心が薄かったと言われているが、大尉の位にまで登った父や、後宮の深くに仕えた祖父の話を聞く限り、少なくとも即位してすぐの高徳帝はそのような印象とは無縁であった。とすれば、その高徳帝を政事から遠ざけた原因があったに違いない。そしてそれこそが、今龍守が相対している葛城乙彦なのである。
「……面を上げろ」
乙彦の声に、龍守は一呼吸置いて顔を上げる。
「私がここに来たのは、貴様に直接確かめるためだ。……貴様は、私に対して──葛城家に対して、含むところがあるのだろう?」
「正直に申し上げれば、ありますね」
龍守は唇の端を上げ、事も無げに言った。余りに自然なその言葉に、豺牙以外の護衛の者たちは呆気にとられ、数拍遅れて腰の刀に手を掛ける。
「貴様、公爵閣下に対して何という口を……!」
殺気立つ四人の護衛たちと、微動だにせず龍守を見下ろす豺牙を見やり、乙彦は鼻を鳴らす。
「ふん……。この状況で随分と正直なのだな」
「正直なことが、数少ない私の美徳だと自負しておりますもので」
背後で隼人が何かを呟く声が聞こえた。おおかた「嘘つけこの野郎」とでも口にしたのだろう。そこをすかさず倶知比古が肘打ちを加えているであろう様子まで見えずともありありと想像できて、龍守は我知らず笑みを深くする。
その笑いを別の意味に取ったのか、乙彦が語気を強める。
「言い忘れていたが、私の護衛はこの五人だけではない。出迎えに出たそこの陰気な男は見ているだろうが、門前に百人の兵士を連れて来た。……見たところこの屋敷には余り兵がおらぬようだな。私の言葉ひとつで、貴様の命などどうとでも出来るが、それでも今の言葉を取り消す気はないか?」
「ええ。……恐れながら、そのように考えているのは私だけではないと思われますよ。身分の貴賤を問わず、多くの者たちが閣下の振舞いに疑問を持っている。何も言わぬのは、単に閣下からの報復を恐れているからに過ぎません。ですが──」
龍守はそこで言葉を切り、再び頭を垂れる。
「私は閣下のやりようは、とても賢いものだと感じております」
「……どういう意味だ」
「この四年間、さまざまな地を治めて感じたことがございます。人というのは得てして、支配されたがるものなのだと。……口先では自由が欲しいなどと喚いておきながら、いざそれを目前に差し出されると、怯え遠ざけようとする。結局のところ支配される哀れな自身を言い訳にして、何もせぬことを正当化する者たちばかりが蔓延っている。……何もせず不平ばかり言っていれば良いのですから、これほど楽なことはない」
「……」
乙彦は眼を細めて龍守を見つめている。
「ゆえに貴方のような方が、この国には求められているのだと私は感じております。この国の多くの者たちは、人ではない……言うなれば、家畜のように扱われることを望んでいるのですから」
顔を上げて皮肉げに笑う龍守と視線を合わせ、乙彦もまた同じように笑みを浮かべる。
「四年前とは別人のようだな。随分と冷笑的な物言いをするようになった」
「単に世間知らずだっただけです。お恥ずかしながら、ようやく現実が見えてまいりました」
「良かろう」
乙彦は満足気に龍守を睥睨した。
「近衛将軍の叙任は今日の午後に行う。正午までに出仕せよ」
「……はて。叙任式は確か、大喪の礼より七日が過ぎたのちにと伺っておりましたが」
「皇帝陛下の思し召しだ。数日出世が早まることに、何か不都合でもあるのか?」
「とんでもない。謹んでお受けいたします」
「橘花国のために励むのだぞ。貴様の態度次第では、私も色々と考えてやらんでもない」
「は」
恭しく頭を垂れながらも、龍守は名状し難い不快感を感じた。
(どうやら葛城乙彦は、俺を取り込もうとしているようだ。それはともかく、今日近衛将軍に叙任されるのなら、安比家の反乱を止めるために必要だった兵力の問題も解決される……)
せめて安比家の反乱が近衛将軍就任後であれば、とは龍守も思っていたところである。それならば反乱を止めるために充分な兵を動かすことも可能であり、皇宮も守りやすくなる。
(もしや……)
不意に龍守の脳裏に、翡翠色の輝きがよぎる。外廷で顔を合わせた時には何の力も持たないなどと謙遜していたが、皇帝も出席する儀礼の予定を変えることができる者など限られている。
(翠蓮皇女……思ったより使えるかもしれんな)
利用できるものは何でも利用するのが信条の龍守としては、まさに願ったり叶ったりといえよう。しかしここまで都合良く物事が進むと、薄気味悪くすらある。
(皇帝の思し召しとは、詰まるところこの男──葛城乙彦の意思ということだ。こいつは俺に何をさせようとしている……?)
減ったと思えばまた新たに生じる懸念に、龍守は内心で舌打ちした。そんな龍守の心情を知ってか知らずか、乙彦は初めよりも幾分和らいだ声で口を開く。
「さて。ではもうひとつ訊いておこうか。お前が今朝がた会っていたのは、翠蓮皇女だな」
その問いは、ある種の試金石であった。己の目的のためにはこれを肯定するのが正解だと解ってはいるものの、龍守の矜持はそれを許さなかった。
「いいえ、違いますが」
「……何だと?」
龍守の返答に、乙彦の声の温度が一気に下がる。
「私ごときが、そのような高貴なかたと逢引きなどできるはずがございません。私が逢っていたのは大楽署に仕える女官で、名を日向と──」
乙彦は突如、卓の上に口をつけられぬまま置かれていた湯呑みを掴むと、龍守の頭上で手首を返した。その中身を浴びせかけられた金色の髪から、夥しい雫が滴り落ちる。
「……っ、おい……!」
呆気に取られる者たちのなかで真っ先に動いた隼人を、龍守は目線で制した。そして何事もなかったかのように立ち上がると、濡れた髪を片手で掻き上げる。
「これはこれは。お手が滑ってしまわれましたかな、公爵閣下? 倶知比古、代わりの茶をお持ちしろ」
「は、はい。ただいま──」
「その必要はない」
乙彦は椅子から立ち上がり、真っ直ぐに扉へ向かって歩き始めた。その後ろに慌てて続く四人の護衛たちが横を通り過ぎたところで、龍守は乙彦に声をかける。
「もうお帰りですか、公爵閣下」
「これ以上貴様と話していても、時間の無駄だからな」
乙彦は龍守を振り返ることなく、傍らの兵士に視線を投げ、扉を開かせる。
「少しは賢くなったと思ったのだがな。期待はずれだ」
「公爵閣下のご期待に叶いませんでしたこと、非常に残念です。……ですが閣下ともあろうおかたが、何をそれほどまでに恐れておいでです? 今の橘花国で、貴方を凌ぐ者など存在しないでしょうに──例え皇族であろうとも」
龍守の問いには答えずに、乙彦は部屋を出て言った。その後ろをおもむろに付き従う豺牙が、龍守に向かって一瞥を投げる。その視線にえも言われぬ嫌悪を感じたが、それはおくびにも出さずに龍守は低頭して乙彦を見送った。
やがて乙彦も兵たちの足音も聞こえなくなってからしばらくして、家臣たちが龍守のもとへと駆け寄った。
「龍守様、大事ありませんか」
「ああ鷹比古。何ともない、むしろ洗髪の手間が省けたくらいだ。……それにしても倶知比古。お前、葛城乙彦に茶ではなく白湯を出したな?」
「どうせ茶を出したところで、毒殺を恐れて口などつけぬでしょうから。……茶葉は貴重なのですから、無駄遣いしないほうが良いでしょう? 一番濃い色の湯呑みを使いましたから、気づかれてはいないと思いますよ」
懐から手拭いを差し出しながら、倶知比古は涼しい顔をしている。龍守は苦笑しつつもそれを受け取り、
「全くお前も良い性格をしているな。……隼人?」
扉を睨みつけたまま固まっている隼人に、訝しげに声をかける。
「いつまでそうしている気だ。葛城乙彦は愉快な仲間たちとともにご帰宅したぞ」
「龍守、あの大男……よくわかんねぇけどヤベぇぞ。気をつけた方がいい」
「……ああ」
手拭いで髪を拭きながら頷く龍守と隼人の顔を交互に見ながら、倶知比古が尋ねる。
「大男とは、豺牙将軍のことですか。確かにあの護衛たちの中では一際目立っていましたが……」
倶知比古から視線を向けられた鷹比古も無言で頭を振る。隼人は呆れたように、
「お前ら、あいつの眼ぇ見て何も感じなかったのかよ? よくわかんねぇけど、龍守相当恨まれてるぜ」
「……思い当たる節が全くないのだがな」
「お前、最近あいつの女にちょっかいかけたりしてねぇよな?」
「豺牙に女がいるかどうかすら知らんし、帝都に戻ってから俺がちょっかいをかけたのは翠蓮皇女だけだ。向こうから寄ってくる方に関してはいちいち覚えていない」
「あー……こりゃその寄って来た中に居たやつだな、きっと」
やれやれと肩を竦めた隼人は、
「それはそうとして……」
と鷹比古を睨みつける。
「鷹比古お前……葛城乙彦が来て、すぐに俺たちに知らせなかっただろ?」
「ちょっと、何を言っているんですか隼人殿──」
「門前で四半刻ほどお待ちいただきましたかな」
悪びれもせず言う鷹比古に、倶知比古は眼を見開き、隼人は深く溜め息を吐く。
「やっぱりか……。おかしいと思ったんだよなぁ、あちらさん初っ端から喧嘩腰だし……おおかた龍守が二刻は寝たいとか言ってたのを律儀に守って──」
「橘花国の未来と同じくらい、龍守様の睡眠時間確保も肝要ですからな」
「……ったく、ここには龍守強火しかいねぇのかよ」
辟易とした様子で椅子に腰を下ろした隼人は、気を取り直して龍守に人差し指を突きつける。
「いいか龍守。とにかく勝手なことすんなよ。特に午後の叙任式、フツーにしてろよ。フツーに」
「言われずとも分かっている」
「ほんとかねぇ……」
疑いの眼差しを横顔に感じながら、龍守は翡翠色の瞳を想いつつ、長い指先で唇を叩き始めた。




