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第七章 来訪

 格子窓の隙間から覗く未明の空を見つめながら、織瀬(おりせ)はそっと胸に手を当てた。心の臓が、今までにないほどの速さで脈打っている。

 那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)と外廷で対面し、その後菊理(くくり)の説教を聞きながら隠し通路を戻り、明瑠(あかる)の涙混じりの抱擁に迎えられ──あまりに怒涛の出来事に対したせいで、眼はすっかり冴えてしまっている。


「とりあえず少しでも寝てくださいね。目の下に隈なんて作られたら、朝の化粧が大変なんですから!」

菊理(くくり)、姫様に何て言い方を……! 姫様、那岐山(なぎやま)侯爵とのことについては菊理(くくり)から聞きますから、姫様はお休みになってください」


 二人の侍女たちによって半ば無理矢理寝室に押し込められたが、とても眠れる気がしない。何よりこの寝台の下にある通路を使い、織瀬(おりせ)は今世で初めて外廷へ出たのである。そう考えれば、今に限らず今後もこの寝室で安眠できるとは思えなかった。


(それにしても、菊理(くくり)はかなり怒っていたわね……)


 外廷からの帰途、今までにない剣幕で織瀬(おりせ)を叱りつける菊理(くくり)の様子を思い返し、胸が痛んだ。きっと今頃、菊理(くくり)明瑠(あかる)にも織瀬(おりせ)龍守(たつもり)との間で交わされた約束について伝えているに違いない。


(私は皇女……。いずれ結婚する時には、その相手は朝議で決められることになる。相手は安比(あび)家や豊雲(とよくも)家のような上位貴族か……いいえ、葛城(かづらぎ)公爵がわざわざ政敵に皇女の夫という権威を与えるはずがない。そうなると考えられるのは他国の王族か貴族か……)


 いずれにしても、そこに織瀬(おりせ)の意思が入り込む余地はない。そう考えれば那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)と結婚するというのは、決して悪い話ではないはずだ。少なくとも、生まれ育った橘花きっか国に留まることができる。


(けれど、きっと菊理(くくり)と同じように明瑠(あかる)も怒るわよね……)


 仮にこの話が耳に入ったとするなら、同母弟である珀亜(はくあ)も同じような反応をするだろう。


「橘花国の為に、なぜ姫様が自分を売るような真似しないといけないんですか!」


 そう激昂する菊理(くくり)に、織瀬(おりせ)は諭すように言った。


「それは、私が皇女だからよ。皇族というのは、国があるから存在できる。だから国を守るためには、持てる全てを賭けなければいけないの」

「そんなの絶対おかしいです!」

「おかしくないわ。それが皇族の務めだもの」


 平然とした織瀬(おりせ)の答えに、菊理(くくり)は唇を噛んだ。


「あたし、時々姫様のことがわからなくなります……。何でもっと自分を大事になさらないんですか。自分を道具のように扱って、さもそれが当然のように……」


 今にも泣きだしそうな菊理(くくり)を前に胸の騒めきに襲われたが、織瀬(おりせ)は自分の選択を微塵も後悔していなかった。むしろこの身ひとつで国が救えるならば、安いものだとすら感じてしまう。


(ごめんなさい。菊理(くくり)明瑠(あかる)……。私はどうしても成さなければならないことがあるの)


 罪悪感を押さえこむように襟元を握りしめて、織瀬(おりせ)那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)の紅い瞳を思う。誰かに頼らなければ、何一つ成すことのできない自身の無力さを呪いながらも、龍守(たつもり)の瞳にはそれらの負の感情を全て拭い去ってしまうような強さがあった。

 初め見廻りに見つかりそうになったときの言動には頭を抱えたけれど、今は彼ならば何とかしてくれるはずという根拠のない確信が織瀬(おりせ)の胸の内に満ちる。


(不思議だわ。彼は言わば、前世の仇とも言える人なのに……)


 そっと翡翠色の瞳を閉じて、織瀬(おりせ)は柔らかな寝具の上に身を横たえる。程なくして、織瀬(おりせ)の花びらのような唇から、静かな寝息が聞こえ始めた。



 *



「恐れながら、公爵閣下。ここがどこだか知っての仰せですか」

「知っているに決まっていよう。私は翠蓮(すいれん)皇女に会いに来たのだ」

翠蓮(すいれん)宮は──いえ、後宮は皇族以外の殿方が立ち入ることを禁じられております。どうかお戻りを。姫様にご用でしたら、後ほど朝堂へ参りますから……」

「侍女ごときがいい度胸だ。さっさとそこをどけ」

「ですが……っ」


 そこで、何かが床に落ちるような音がして、織瀬(おりせ)は眼を擦りながらゆっくりと身体を起こした。


(私、いつの間にか眠っていたのね。それにしても、今の音は……)


 窓の外の陽の高さを見るに、夜が明けてから半刻も経っていないだろう。普段しない夜更かしをしてしまったせいか、頭の芯が鉛のように重い。


(何かあったのかしら。明瑠(あかる)の声が聞こえた気がしたけれど)


 寝台の上に無造作に放ったままになっていた上衣を肩に羽織ると、織瀬(おりせ)は部屋の扉に向かった。しかし織瀬(おりせ)が引き手に触れるより先に、扉が開かれる。


「姫様! すみません、騒がしくて……起きちゃいましたよね」


 菊理(くくり)がいつもの侍女の装束を纏い、そこに立っていた。


「でも起きたならちょうど良かった。その格好では奴を刺激しかねませんから、速攻で着替えましょう。なるべく地味で、防御力高そうな着物持って来ましたから」

「もしかして……さっきの声は葛城(かづらぎ)公爵なの?」

「そうですよ。とりあえず明瑠(あかる)が足止めしてますから、今のうちに身支度しちゃいましょう」


 化粧道具を卓の上に置き、着物を広げる。寝衣を脱いだ織瀬(おりせ)にその『防御力高そう』な着物を着せ掛けると、てきぱきと着付けをしていく。姿見には、いつになく地味な紺色の装束を纏った織瀬(おりせ)が映っている。


「駄目だ。防御力高そうと思ったけど……姫様が美人すぎるせいで別の意味でそそられるかも……。せめて胸元をもっと閉めて、化粧も控えめに……」


 化粧筆を持ってぶつぶつと呟く菊理(くくり)に、織瀬(おりせ)は訊ねる。


菊理(くくり)葛城(かづらぎ)公爵は、何故翠蓮(すいれん)宮に?」

「さあ。黄華おうか宮の侍女の話だと、宴の後は皇太后のところに泊まったみたいですけど」

「まさか、私が那岐山(なぎやま)侯爵と会ったことに気づいたわけではないわよね」

「それは、大丈夫だとは思いますけど……。あの豺牙(さいが)とかいう男も、多分姫様の顔は見ていないと思うし……」

「……菊理(くくり)。さっきは聞かなかったけれど、貴女いつから見ていたの?」

「姫様が始祖神の廟を出たところからですかね。あの金髪野郎が姫様を抱き寄せた時は、殺してやろうかと思ったけど……。咄嗟にその辺にいた野良猫使って見廻りの気を逸らそうとしたけど、豺牙(さいが)は騙されませんでしたね。ちょっと警戒したほうがいいかも」

「私、貴女たちに信頼されていないのね……」

「なに子どもみたいなこと言ってんですか。信頼してないんじゃなくて、心配してたんですよ。あたしも明瑠(あかる)も。……さあ、できました」


 織瀬(おりせ)の唇に紅をさし、菊理(くくり)は立ち上がる。


「うん。目の下の隈も隠せてるし、良い感じ。……どうします、姫様。明瑠(あかる)も頑張ってるみたいだけど、そろそろ限界かも」


 葛城(かづらぎ)公爵と思われる男の声と、それを制止する明瑠(あかる)の声が、段々と近くに聞こえてくる。


「どちらにしても私が出て行かなければ、葛城(かづらぎ)公爵は納得しないでしょうね。何の用かはわからないけれど……」


 鈍く痛むこめかみを押さえながら、織瀬(おりせ)菊理(くくり)とともに寝室を出た。



 *



葛城(かづらぎ)公爵! そちらは姫様の寝室です。これ以上の狼藉は……!」

「狼藉だと? 貴様、私を誰だと思っている」


 珍しく、護衛は豺牙(さいが)だけのようだった。宴の時と同様全く感情の読めない顔をした男は、無遠慮に宮の中に立ち入った主君の後を、ただ黙って付き従っている。


「おはようございます、葛城(かづらぎ)公爵に豺牙(さいが)将軍。このように朝早くから、一体どうなさったのですか?」


 静かに扉を開け、織瀬(おりせ)はゆっくりと廊を進む。葛城(かづらぎ)公爵に対する明瑠(あかる)を庇うように、その前に立った。


「これは、翠蓮(すいれん)皇女。ようやくお目にかかれましたな。幾度頼んでもこちらの侍女が通してくれませんでね……。皇女のほうからお出ましくださり助かりました」

明瑠(あかる)のことをあまり責めないでください。彼女は後宮のしきたりに従ったまでですから。……それで、そのしきたりを破ってまでおいでになるとは、余程火急の用件なのでしょうか」


 織瀬(おりせ)は微笑んだ。

 皮肉を込めた織瀬(おりせ)の問いに気を悪くした風もなく、乙彦(おとひこ)は唇を歪める。


「ええ、実は急いで確かめねばならぬことがありましてな。……翠蓮(すいれん)皇女。昨夜の宴の後、貴女はどこで何をしておりましたか?」

「宴の後ですか。この翠蓮(すいれん)宮に戻り、そのまま就寝いたしました。葛城(かづらぎ)公爵のお声が聞こえて目が覚めましたが、それまでずっと寝室で眠っておりました」

「それを証明できますかな?」

「証明ですか。おかしなことを言うのですね。……公爵閣下、質問の意図をお伺いできますか?」

「いやなに、大したことではないのですがね。私の後ろにいるこの男が、外廷に翠蓮(すいれん)皇女がいたなどと言うものですから」

豺牙(さいが)将軍が?」


 織瀬(おりせ)はゆっくりと、視線を乙彦(おとひこ)からその背後に立つ豺牙(さいが)へと向ける。全く感情を感じられないと思っていた豺牙(さいが)だが、織瀬(おりせ)と視線がぶつかると僅かに目を泳がせる。


(……これは、私に探りを入れているのね。豺牙(さいが)将軍の様子を見るに、確信があるわけではなさそうだわ)


 それならば、と織瀬(おりせ)は努めて穏やかな微笑みを浮かべたまま口を開く。


「それは、一体いつ頃のお話でしょうか」

「寅の刻あたりと言っていたな、豺牙(さいが)

「は……」

「そうですか。申し訳ありませんが、それは見間違いでしょう。今のその時刻なら、まだ月も昇っていないでしょうし……私と似た背格好のどなたかと、間違えられたのではありませんか」

翠蓮(すいれん)皇女と似た誰か……。そのような者、宮中におりますかな」


 乙彦(おとひこ)はあの怖気を感じさせるような視線を、織瀬(おりせ)に纏わりつかせる。悪寒に堪えながらも、織瀬(おりせ)は冷静に言葉を紡ぐ。


「それは、いるでしょう。私は確かに女にしては上背がありますが、そこの明瑠(あかる)とて同じくらいの背丈です。……それにそもそも、そのような時刻に私がどうやって外廷へ出ると言うのです? 夜間外出の禁がありますから、その時刻はどの門も閉じられております。もちろん、この後宮とて例外ではありません」

「方法などいくらでもあるでしょう。門衛に袖の下を渡すなり、あるいは……皇族しか知らない、秘密の抜け道を使うなど」

「公爵は意外と想像力が豊かなのですね。確かに方法としては不可能ではないのでしょうが……。ではなぜ、私が外廷へ行かねばならないのです? 法を犯してまで、一体何の目的で?」

那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)に会っていたのでしょう?」

「……」


 内心の動揺を隠すために、織瀬(おりせ)はわざと深く息を吐いた。


「なぜそこで那岐山(なぎやま)侯爵の名が出てくるのか、理解しかねますが……。公爵は、なぜ私が那岐山(なぎやま)侯爵と会っていたとお思いなのですか」

「この男がそう申しておりますのでね」

豺牙(さいが)将軍が、私と那岐山(なぎやま)侯爵が会っているところを見たと? ……申し訳ございませんが、宴でお酒を過ごされたのではありませんか? 本当に私を見たのですか?」


 織瀬(おりせ)はそっと、翡翠色の瞳を豺牙(さいが)へと向ける。すると、今までほとんど無言だった豺牙(さいが)がゆっくりと口を開いた。


「俺は、宴で酒は一滴も口にしていない。あの那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)という男が、外廷で女と会っていた。そしてその女は、翠蓮(すいれん)皇女だ」

「なぜその女性が私だと? 顔を見たのですか?」

「見ていない。だがあの女は翠蓮(すいれん)皇女に違いない」

「……話になりませんね」


 織瀬(おりせ)はあえて怒りを感じさせるような表情を作る。


葛城(かづらぎ)公爵。何が何でも私が法を犯したことにしたいという、そのご意志は伝わりましたが……それならばもっと客観的な根拠を提示してください。これでは法廷で私が否認した場合、有罪を主張するのは困難ですよ」


 乙彦(おとひこ)は、まるで小馬鹿にするように鼻を鳴らす。


「なに、私はこの話を司法の場に持ち込む気はございませんのでね。ただ貴女がお認めくださればそれで良いのです。……那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)と、一体何の話をなさったのですか」

「前提が間違っている問いに答えることはできません。私は昨夜の宴の後から今に至るまでずっと翠蓮(すいれん)宮におりましたし、那岐山(なぎやま)侯爵と会ってもおりません。……ご用件がそれだけでしたらどうぞお引き取りを。あまり長居をなされると、皇太后陛下の怒りを買うのではありませんか」

「おや、なかなか痛いところを突いてくる。もっとも怒りを買うのは私ではなく貴女のほうでしょうがね。……仕方ない。予想以上に貴女が強情なので、今日のところはここで勘弁して差し上げましょう。行くぞ、豺牙(さいが)

「は」


 踵を返す乙彦(おとひこ)の後に、豺牙(さいが)が続く。大柄な二つの背が早く視界から消えてくれないかと祈るような思いで織瀬(おりせ)が見つめていると、不意に乙彦(おとひこ)が歩を止めた。


「そうだ。翠蓮(すいれん)皇女に、もう一つお伝えせねばならぬことがあった」

「……何でしょうか」


 織瀬(おりせ)はなるべくうんざりした様子が伝わるように、溜め息混じりに返答する。乙彦(おとひこ)はくっと喉を鳴らすと、ゆっくりと織瀬(おりせ)を振り返る。


「先程、南陽(なんよう)皇子の朝餉に毒が盛られていたとの報告がありました」

「な……!?」

「幸い南陽(なんよう)皇子はご無事です。鬼役が一人、血を吐いて華彰(かしょう)のところに担ぎ込まれましたがな」


 薄ら笑いを浮かべる乙彦(おとひこ)を前に、織瀬(おりせ)はぐっと拳を握りしめた。


「鬼役の容体はどうなのですか」

「しばらく安静にしていれば回復するそうですよ。口にした量も少なかったようですし、毒自体もそれほど強力なものではなかったようです。……ですが次はどうなることやら」

「……どういう意味ですか」

翠蓮(すいれん)皇女はお優しい。我が妹や姪などは、近侍の者をまるで虫けらのように扱っているというのに、貴女は毒見役のことまで心配なさる。……今回は無事でしたが、もし実弟である南陽(なんよう)皇子に害が及べば、貴女はどのような顔をなさるのですかな」

「……」


 織瀬(おりせ)は無言のまま乙彦(おとひこ)を見つめる。するとついに耐えきれなくなったのか、背後で菊理(くくり)が叫んだ。


葛城(かづらぎ)公爵! いくらなんでも無礼が過ぎますよ!」

菊理(くくり)、止しなさい。貴女の身分で公爵に言葉をかけることは許されません」

「だって姫様……!」

「下がりなさい」


 織瀬(おりせ)は真っ直ぐに乙彦(おとひこ)の顔を見る。那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)のような並外れた秀麗さには遠く及ばないが、この男もそれなりに整った顔立ちと精悍な体つきをしている。若かりし頃、この見映えのする兄に皇太后は夢中であったのだろう。

 今は摂政の位に収まっているが、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)は元々は武人であった。十八年前、宗我そが家の乱を鎮圧したことで名を上げ、妾の子であったものの前葛城(かづらぎ)公爵の正室であった水葉みずは帝に子がなかったため公爵位を嗣ぎ、妹を皇后の位に着け──。一筋縄ではいかない相手であることは明白だった。


翠蓮(すいれん)皇女。今回は鬼役で済みましたが、次は貴女に近しい人間に類が及ぶかもしれません。くれぐれも身を慎まれることだ。……何もしなければ、そう、そのお美しさです。例え毒姫であろうとも、それなりの需要はありましょう」


 今度は一度も振り返らず、乙彦(おとひこ)豺牙(さいが)とともに翠蓮(すいれん)宮を出て行った。

 織瀬(おりせ)は唇を噛み締めると、背後の侍女たちを顧みる。


菊理(くくり)祠部(しぶ)司に話したいことがあるの。何とか会えるようにしてくれるかしら」

祠部(しぶ)司……ですか。今なら朝の卜占のために朝堂にいるだろうから、捕まえられるとは思いますけど」

「では、なるべく急ぎでお願いね。……それと明瑠(あかる)。貴女は珀亜(はくあ)の様子と、華彰(かしょう)のところへ行って鬼役の具合も見てきてくれるかしら」

「かしこまりました」


 それぞれの役目を果たすべく姿を消す侍女たちを見送り、織瀬(おりせ)は思案する。今から取る行動は、結果的に葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)を助けることになるだろう。甚だ不本意ではあるが、龍守(たつもり)に語った通り、無辜の人間たちの犠牲を最小限に抑えるためにはこれが最善なのである。


祠部(しぶ)司と話をして……上手くいけば、那岐山(なぎやま)侯爵が懸念していた兵力の問題が解決できるかもしれない)


 龍守(たつもり)織瀬(おりせ)に対して何の助力も期待していないようだったが、皇女として橘花国の命運がかかっている状況に、ただ座して待つことは堪えられなかった。



 *



 遠くから聞こえて来る、どたどたという聞き慣れた落ち着きのない足音。ほとんど意識もないままに眉を顰めると、龍守(たつもり)は気怠げに長い睫毛を上げた。額に落ちかかる髪を無造作に掻き上げると、ゆっくりと寝台から身を起こす。

 徹夜自体は慣れたものだが、今日は頭の芯が鈍く痛む。こういう日は、大抵雲行きが怪しくなるものだ。今夜は一雨来そうだな、などと考えていると、足音が部屋の前で止まった。


「おい、起きろ龍守(たつもり)! 大変だ!」


 戸が吹き飛ぶのではないかと思われるほどの勢いで、隼人(はやと)龍守(たつもり)の寝室に駆け込んで来た。


「お、何だよ。起きてるじゃんか」

「お前の騒がしい足音で起こされたのだ。……それはともかく、もっと静かに入ってこれんのか。お前のおかげで、屋敷中の戸の建て付けが悪くなってかなわん」

「小言は後にしろよな! まあ良いや、とにかくさっさと顔洗って着替えろ。面倒くせぇ客が来やがった。今は鷹比古(たかひこ)が相手してるけど……」

「面倒な客? 誰だそれは」

葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)と愉快な仲間たち」

「……」


 龍守(たつもり)は眉根を寄せると、無言のまま隼人(はやと)の頬を平手打ちした。小気味良い音が、部屋に響く。


「痛ってぇな! いちいち手ぇ出すんじゃねぇよ、暴力反対!」

「そういう肝心な事は初めに言え阿呆」

「お前が戸がどうとか言うから言いそびれたんだろ!」

「お前が万事においてがさつなのが悪い」 

「お前に言われたくねぇんだよ馬鹿野郎!」

「ちょっと、何を龍守(たつもり)様に絡んでいるんですか隼人(はやと)殿! 貴方は伝達ひとつまともに出来ないのですか!」


 隼人(はやと)が開け放ったままになっていた戸から、倶知比古(くちひこ)が顔を覗かせる。両手に洗面用の水が入った桶を抱え、両腕に龍守(たつもり)の着替えやら装身具やらを鈴なりに下げている。


「ほら見た事か。倶知比古(くちひこ)にも言われているぞ」

「こいつはいつも俺にだけ塩対応だろ!」

「少し黙っていてください隼人(はやと)殿。──龍守(たつもり)様。お休みのところ申し訳ございませんが、急ぎお支度を。先生が場を繋いでおりますが、どうも不味い状況のようです」

「……不味い状況?」


 顔を洗うには邪魔になる長髪をうなじの辺りで括りながら、龍守(たつもり)は問い返す。


「どうした。翠蓮(すいれん)皇女のことがもうばれたか」

「あるいはその可能性も」

「……」


 一瞬動きを止めた後、龍守(たつもり)は溜め息を吐きながら桶の水を白皙の面に浴びせかけた。


「予想よりも早いな。危うく後手に回るところだった」


 倶知比古(くちひこ)から受け取った手拭いで顔を拭うと、寝衣の帯をとき、自身の瞳と似た深紅の衣に袖を通す。括っていた金髪をほどき簡単に梳ると、手慣れた仕草で耳の辺りの高さで小さく髷を作り、簪を刺す。


「よし、寝起きゆえこんなもので良いだろう。……お前たちもついて来い」


 衣の裾を翻すと、龍守(たつもり)は颯爽と寝室を出て行った。深紅の衣の背で優雅に揺れる金髪の後に続きながら、隼人(はやと)がぼそりと呟く。


「ムカつくけどこういう時美形は良いよな。適当にしててもそれなりに見えるんだから」

「全くです」


 普段は隼人(はやと)の言葉にいちいち突っかかる倶知比古(くちひこ)も、これに関しては素直に頷きを返す。


「にしても、どっからバレたんだ? 龍守(たつもり)のことだ、自分はともかく皇女のほうは素性がバレないように気をつけてたはずだろ?」

「そのはずです。見廻りに見つかった時も、皇女殿下の顔は見られぬようにしたと仰っていましたから。……あの後元々当てがわれていた部屋に戻り、貴方が船を漕いでいる時に」

「宴で気疲れして滅茶苦茶眠かったんだから仕方ねぇだろ。つーかお前、俺に嫌み言わねぇと死ぬ病気なの?」

「ほとんど何もしていなかったくせに、どこに疲れる要素があったんです?」

「お前なぁ……!」


 隼人(はやと)倶知比古(くちひこ)が言い合いをしている間に、龍守(たつもり)はすでに客間の入り口へと辿り着いていた。躊躇いもなく扉を開けると、多くの人々の心を蕩かせた微笑を薄い唇に湛え、恭しく頭を垂れる。


「公爵閣下にご挨拶申し上げます。我があばら屋に、閣下自ら足をお運びいただけるとは恐縮です。……さて、このような早朝から一体どのようなご用件でしょうか」


 室内の複数の視線が、一斉に龍守(たつもり)へと向けられた。一人は鷹比古(たかひこ)で、寝不足のせいでいつも以上に険しさを増した眉間に、深い縦皺を刻んでいる。広い客間のうちの上座には、尊大な様子で足を組む乙彦(おとひこ)が座し、周囲には護衛であろう五人の男たちが侍っている。その中でも一際目立つ体格をしているのは、つい二三刻前に外廷で顔を合わせた豺牙(さいが)という武人である。昏い井戸の底を思わせる瞳からは、一切の感情も感じられない──龍守(たつもり)はこの男について、そのような印象を持っていたのだが。


(……何だ? 妙な目で俺を見ているな)


 それは、今まで多くの者たちから龍守(たつもり)が向けられてきた感情と、同じ色をしているように思えた。


(憎悪……いや、嫉妬? この男に何かした覚えは全くないのだがな)


 そこまで考えたところで、龍守(たつもり)豺牙(さいが)から視線を外す。人となりに関する情報もほとんどない中で、豺牙(さいが)の感情を推しはかるなど、時間の無駄だ。龍守(たつもり)は微笑を崩さずに乙彦(おとひこ)に紅い瞳を向けた。

 あからさまに苛立った様子で、乙彦(おとひこ)は指先で卓を叩く。


「……早朝だと? お前は普段からこのような時分まで惰眠を貪っているのか。宮廷では全ての官吏たちが出仕している時刻だぞ」

「これは失礼を。昨夜の宴での酔いが抜けておらず、つい寝過ごしてしまったようです。言われてみれば、随分と陽が高い位置にありますな」

「妙なことを言うものだな。お前が酔った姿を見た者など、ついぞ聞いたことがないが」

「顔に出ぬだけで、それほど酒に強いわけではないのですよ。今も二日酔いで頭痛がする始末でして」

「本当にただの二日酔いか?」

「どういう意味でしょう」

「夜明け前に、外廷で女と会っていたのだろう?」

「……」


 龍守(たつもり)はこれ見よがしに溜め息をついてみせた。


「そちらの豺牙(さいが)将軍からお聞きになったのですか。やれやれ、このような些事を報告するとは無粋なことをなさる。せっかく帝都に戻ってきたのです。少しくらい羽を伸ばしたところで罰は当たらないでしょう?」

「帝都では子から寅の三つ時までは外出を禁じられていることは知っているな?」

「もちろんでございます。それ故に、宴の後もほとんどの参加者は宮中に留め置かれたのですから」

「そうだな。そしてそれ故に、お前は四年前私の小姓を殺した」

「……」


 龍守(たつもり)は瞑目すると、静かに乙彦(おとひこ)の前で膝を折った。 


「……龍守(たつもり)様」


 倶知比古(くちひこ)が小さく呟く声が聞こえたが、龍守(たつもり)は構わず床に額を付く。


「……何の真似だ」

「私ごときが謝罪したところで、失われたものが戻ることはございませんが、それでも一言詫びを申し上げたく。その節は大変申し訳ございませんでした」

「……」


 探るような視線が、額づいた龍守(たつもり)の上に突き刺さる。乙彦(おとひこ)がその気になれば、ほんの一振りで龍守(たつもり)の首を落とすことも可能だろうが、この男はそこまで馬鹿ではないと龍守(たつもり)は踏んでいる。

 生まれだけで実権を握れるほど、政事は甘くない。先帝は国政への関心が薄かったと言われているが、大尉の位にまで登った父や、後宮の深くに仕えた祖父の話を聞く限り、少なくとも即位してすぐの高徳帝はそのような印象とは無縁であった。とすれば、その高徳帝を政事から遠ざけた原因があったに違いない。そしてそれこそが、今龍守(たつもり)が相対している葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)なのである。


「……面を上げろ」


 乙彦(おとひこ)の声に、龍守(たつもり)は一呼吸置いて顔を上げる。


「私がここに来たのは、貴様に直接確かめるためだ。……貴様は、私に対して──葛城(かづらぎ)家に対して、含むところがあるのだろう?」

「正直に申し上げれば、ありますね」


 龍守(たつもり)は唇の端を上げ、事も無げに言った。余りに自然なその言葉に、豺牙(さいが)以外の護衛の者たちは呆気にとられ、数拍遅れて腰の刀に手を掛ける。


「貴様、公爵閣下に対して何という口を……!」


 殺気立つ四人の護衛たちと、微動だにせず龍守(たつもり)を見下ろす豺牙(さいが)を見やり、乙彦(おとひこ)は鼻を鳴らす。


「ふん……。この状況で随分と正直なのだな」

「正直なことが、数少ない私の美徳だと自負しておりますもので」


 背後で隼人(はやと)が何かを呟く声が聞こえた。おおかた「嘘つけこの野郎」とでも口にしたのだろう。そこをすかさず倶知比古(くちひこ)が肘打ちを加えているであろう様子まで見えずともありありと想像できて、龍守(たつもり)は我知らず笑みを深くする。

 その笑いを別の意味に取ったのか、乙彦(おとひこ)が語気を強める。


「言い忘れていたが、私の護衛はこの五人だけではない。出迎えに出たそこの陰気な男は見ているだろうが、門前に百人の兵士を連れて来た。……見たところこの屋敷には余り兵がおらぬようだな。私の言葉ひとつで、貴様の命などどうとでも出来るが、それでも今の言葉を取り消す気はないか?」

「ええ。……恐れながら、そのように考えているのは私だけではないと思われますよ。身分の貴賤を問わず、多くの者たちが閣下の振舞いに疑問を持っている。何も言わぬのは、単に閣下からの報復を恐れているからに過ぎません。ですが──」


 龍守(たつもり)はそこで言葉を切り、再び頭を垂れる。


「私は閣下のやりようは、とても賢いものだと感じております」

「……どういう意味だ」

「この四年間、さまざまな地を治めて感じたことがございます。人というのは得てして、支配されたがるものなのだと。……口先では自由が欲しいなどと喚いておきながら、いざそれを目前に差し出されると、怯え遠ざけようとする。結局のところ支配される哀れな自身を言い訳にして、何もせぬことを正当化する者たちばかりが蔓延っている。……何もせず不平ばかり言っていれば良いのですから、これほど楽なことはない」

「……」


 乙彦(おとひこ)は眼を細めて龍守(たつもり)を見つめている。


「ゆえに貴方のような方が、この国には求められているのだと私は感じております。この国の多くの者たちは、人ではない……言うなれば、家畜のように扱われることを望んでいるのですから」


 顔を上げて皮肉げに笑う龍守(たつもり)と視線を合わせ、乙彦(おとひこ)もまた同じように笑みを浮かべる。


「四年前とは別人のようだな。随分と冷笑的な物言いをするようになった」

「単に世間知らずだっただけです。お恥ずかしながら、ようやく現実が見えてまいりました」

「良かろう」


 乙彦(おとひこ)は満足気に龍守(たつもり)を睥睨した。


「近衛将軍の叙任は今日の午後に行う。正午までに出仕せよ」

「……はて。叙任式は確か、大喪の礼より七日が過ぎたのちにと伺っておりましたが」

「皇帝陛下の思し召しだ。数日出世が早まることに、何か不都合でもあるのか?」

「とんでもない。謹んでお受けいたします」

「橘花国のために励むのだぞ。貴様の態度次第では、私も色々と考えてやらんでもない」

「は」


 恭しく頭を垂れながらも、龍守(たつもり)は名状し難い不快感を感じた。


(どうやら葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)は、俺を取り込もうとしているようだ。それはともかく、今日近衛将軍に叙任されるのなら、安比(あび)家の反乱を止めるために必要だった兵力の問題も解決される……)


 せめて安比(あび)家の反乱が近衛将軍就任後であれば、とは龍守(たつもり)も思っていたところである。それならば反乱を止めるために充分な兵を動かすことも可能であり、皇宮も守りやすくなる。


(もしや……)


 不意に龍守(たつもり)の脳裏に、翡翠色の輝きがよぎる。外廷で顔を合わせた時には何の力も持たないなどと謙遜していたが、皇帝も出席する儀礼の予定を変えることができる者など限られている。


翠蓮(すいれん)皇女……思ったより使えるかもしれんな)


 利用できるものは何でも利用するのが信条の龍守(たつもり)としては、まさに願ったり叶ったりといえよう。しかしここまで都合良く物事が進むと、薄気味悪くすらある。


(皇帝の思し召しとは、詰まるところこの男──葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)の意思ということだ。こいつは俺に何をさせようとしている……?)


 減ったと思えばまた新たに生じる懸念に、龍守(たつもり)は内心で舌打ちした。そんな龍守(たつもり)の心情を知ってか知らずか、乙彦(おとひこ)は初めよりも幾分和らいだ声で口を開く。


「さて。ではもうひとつ訊いておこうか。お前が今朝がた会っていたのは、翠蓮(すいれん)皇女だな」


 その問いは、ある種の試金石であった。己の目的のためにはこれを肯定するのが正解だと解ってはいるものの、龍守(たつもり)の矜持はそれを許さなかった。


「いいえ、違いますが」

「……何だと?」


 龍守(たつもり)の返答に、乙彦(おとひこ)の声の温度が一気に下がる。


「私ごときが、そのような高貴なかたと逢引きなどできるはずがございません。私が逢っていたのは大楽だいがく署に仕える女官で、名を日向(ひむか)と──」


 乙彦(おとひこ)は突如、卓の上に口をつけられぬまま置かれていた湯呑みを掴むと、龍守(たつもり)の頭上で手首を返した。その中身を浴びせかけられた金色の髪から、夥しい雫が滴り落ちる。


「……っ、おい……!」


 呆気に取られる者たちのなかで真っ先に動いた隼人(はやと)を、龍守(たつもり)は目線で制した。そして何事もなかったかのように立ち上がると、濡れた髪を片手で掻き上げる。


「これはこれは。お手が滑ってしまわれましたかな、公爵閣下? 倶知比古(くちひこ)、代わりの茶をお持ちしろ」

「は、はい。ただいま──」

「その必要はない」


 乙彦(おとひこ)は椅子から立ち上がり、真っ直ぐに扉へ向かって歩き始めた。その後ろに慌てて続く四人の護衛たちが横を通り過ぎたところで、龍守(たつもり)乙彦(おとひこ)に声をかける。


「もうお帰りですか、公爵閣下」

「これ以上貴様と話していても、時間の無駄だからな」


 乙彦(おとひこ)龍守(たつもり)を振り返ることなく、傍らの兵士に視線を投げ、扉を開かせる。


「少しは賢くなったと思ったのだがな。期待はずれだ」

「公爵閣下のご期待に叶いませんでしたこと、非常に残念です。……ですが閣下ともあろうおかたが、何をそれほどまでに恐れておいでです? 今の橘花国で、貴方を凌ぐ者など存在しないでしょうに──例え皇族であろうとも」


 龍守(たつもり)の問いには答えずに、乙彦(おとひこ)は部屋を出て言った。その後ろをおもむろに付き従う豺牙(さいが)が、龍守(たつもり)に向かって一瞥を投げる。その視線にえも言われぬ嫌悪を感じたが、それはおくびにも出さずに龍守(たつもり)は低頭して乙彦(おとひこ)を見送った。

 やがて乙彦(おとひこ)も兵たちの足音も聞こえなくなってからしばらくして、家臣たちが龍守(たつもり)のもとへと駆け寄った。


龍守(たつもり)様、大事ありませんか」

「ああ鷹比古(たかひこ)。何ともない、むしろ洗髪の手間が省けたくらいだ。……それにしても倶知比古(くちひこ)。お前、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)に茶ではなく白湯を出したな?」

「どうせ茶を出したところで、毒殺を恐れて口などつけぬでしょうから。……茶葉は貴重なのですから、無駄遣いしないほうが良いでしょう? 一番濃い色の湯呑みを使いましたから、気づかれてはいないと思いますよ」


 懐から手拭いを差し出しながら、倶知比古(くちひこ)は涼しい顔をしている。龍守(たつもり)は苦笑しつつもそれを受け取り、


「全くお前も良い性格をしているな。……隼人(はやと)?」


 扉を睨みつけたまま固まっている隼人(はやと)に、訝しげに声をかける。


「いつまでそうしている気だ。葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)は愉快な仲間たちとともにご帰宅したぞ」

龍守(たつもり)、あの大男……よくわかんねぇけどヤベぇぞ。気をつけた方がいい」

「……ああ」


 手拭いで髪を拭きながら頷く龍守(たつもり)隼人(はやと)の顔を交互に見ながら、倶知比古(くちひこ)が尋ねる。


「大男とは、豺牙(さいが)将軍のことですか。確かにあの護衛たちの中では一際目立っていましたが……」


 倶知比古(くちひこ)から視線を向けられた鷹比古(たかひこ)も無言で頭を振る。隼人(はやと)は呆れたように、


「お前ら、あいつの眼ぇ見て何も感じなかったのかよ? よくわかんねぇけど、龍守(たつもり)相当恨まれてるぜ」

「……思い当たる節が全くないのだがな」

「お前、最近あいつの女にちょっかいかけたりしてねぇよな?」

豺牙(さいが)に女がいるかどうかすら知らんし、帝都に戻ってから俺がちょっかいをかけたのは翠蓮(すいれん)皇女だけだ。向こうから寄ってくる方に関してはいちいち覚えていない」

「あー……こりゃその寄って来た中に居たやつだな、きっと」


 やれやれと肩を竦めた隼人(はやと)は、


「それはそうとして……」


 と鷹比古(たかひこ)を睨みつける。


鷹比古(たかひこ)お前……葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)が来て、すぐに俺たちに知らせなかっただろ?」

「ちょっと、何を言っているんですか隼人(はやと)殿──」

「門前で四半刻ほどお待ちいただきましたかな」


 悪びれもせず言う鷹比古(たかひこ)に、倶知比古(くちひこ)は眼を見開き、隼人(はやと)は深く溜め息を吐く。


「やっぱりか……。おかしいと思ったんだよなぁ、あちらさん初っ端から喧嘩腰だし……おおかた龍守(たつもり)が二刻は寝たいとか言ってたのを律儀に守って──」

「橘花国の未来と同じくらい、龍守(たつもり)様の睡眠時間確保も肝要ですからな」

「……ったく、ここには龍守(たつもり)強火しかいねぇのかよ」


 辟易とした様子で椅子に腰を下ろした隼人(はやと)は、気を取り直して龍守(たつもり)に人差し指を突きつける。


「いいか龍守(たつもり)。とにかく勝手なことすんなよ。特に午後の叙任式、フツーにしてろよ。フツーに」

「言われずとも分かっている」

「ほんとかねぇ……」


 疑いの眼差しを横顔に感じながら、龍守(たつもり)は翡翠色の瞳を想いつつ、長い指先で唇を叩き始めた。

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