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第六章 那岐山龍守

 龍守(たつもり)に先導され織瀬(おりせ)が向かったのは、最初に指定した会見場所である倉庫から、ほんの一里ばかり離れた官舎の一室だった。


「こちらへどうぞ、翠蓮(すいれん)皇女。我が配下がすでに人払いを済ませておりますから、どんな密談でも外に漏れることはごさいません」


 窓は全て巧妙に塞がれ、一条の光すら漏れていない。確かに外部に中の様子が知られることは無さそうだが、それは同時にここに立ち入ったが最後、何が起こっても助けを求めることはできないということを意味していた。


(いいえ。そもそも私はここに居るはずのない人間なのだから、会見場所がどこであろうと、那岐山(なぎやま)侯爵に何をされようと、初めから誰かに助けてもらうことなどできなかった。今更臆することなど何もないわ)


 龍守(たつもり)に誘われ、織瀬(おりせ)は意を決して部屋の中へ足を踏み入れる。その後ろに龍守(たつもり)が続き、静かに扉を閉めた。前世では扉が閉まる音が死の宣告のように聞こえたこともあったが、今はむしろこれが始まりなのだと──そうしなければならないと、織瀬(おりせ)は決意を込めて顔を上げた。

 部屋のなかには、宴の場で顔を合わせた那岐山(なぎやま)家の三人の家臣たちが揃っていた。


「随分と遅かったな、龍守(たつもり)。どこで道草食ってやがったんだよ。待ちくたびれたぜ」


 大欠伸をしながら、鳶色の瞳の青年が長椅子の上で身体を伸ばす。


(この人は……確か隼人(はやと)殿といったかしら。やはり彼も、前世とは随分印象が違う……)


 思わずまじまじと見つめてしまう織瀬(おりせ)に対し、家臣たちのなかでは最も年嵩と思われる男が深く頭を下げる。


「皇女殿下。お見苦しいところをお見せいたしまして申し訳ございません。彼は龍守(たつもり)様の護衛を務めております隼人(はやと)という者です。龍守(たつもり)様とは従兄弟同士でおりますゆえ時折あのような言動をいたしますが、彼以外の那岐山(なぎやま)家の家臣は皆まともですから、どうぞ龍守(たつもり)様の監督能力に疑問を持たれることなきようお願い申し上げます。……申し遅れましたが、私は龍守(たつもり)様の相談役を務めております、鷹比古(たかひこ)と申します」

「は……はい。よろしくお願いいたします、鷹比古(たかひこ)殿」


 謝罪からの隼人(はやと)への当て擦り、そして主君への擁護──流れるような言動に、織瀬(おりせ)は苦笑する。おそらくこのような場面は日常的なものなのだろう。


豊雲(とよくも)家もそうだったけれど、皆家臣と仲が良いのね。でもそれにしては、前世での那岐山(なぎやま)侯爵と隼人(はやと)殿は、何かよそよそしい感じだったけれど……)


 小さな違和感に、織瀬(おりせ)は我知らず眉根を寄せる。

 そこへ宴の場で倶知比古(くちひこ)と呼ばれていた年若い青年が進み出て、織瀬(おりせ)に向かって拱手した。


翠蓮(すいれん)皇女殿下、私はこちらの鷹比古(たかひこ)先生の下で学びながら、龍守(たつもり)様にお仕えしております倶知比古(くちひこ)と申します。隼人(はやと)殿がご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。……ほら、隼人(はやと)殿。貴方もこちらに来て皇女殿下に謝罪なさい」

「はあ? 何でお前が俺に命令すんだよ。……つーか師弟揃ってまた俺をディスりやがって──」

「いいからさっさと頭を下げてください。全く相変わらず朴念仁で困りますね」

「はあ!? テメェ今なんつった!?」

「朴念仁と言いました」


 隼人(はやと)は長椅子から立ち上がり、自分よりも目線の低い同僚を剣呑な目つきで睨みつける。しかしそんな視線を向けられても、当の倶知比古(くちひこ)は涼しい顔だ。


「ほら、早く土下座なさい」

「あ、あのっ……私は気にしておりませんから、どうか喧嘩はなさらないでください……! 那岐山(なぎやま)侯爵……!」


 徐々に熱を帯びていく二人の会話に、織瀬(おりせ)は助けを求めるように龍守(たつもり)を振り返る。しかし当の龍守(たつもり)はと言えば、


「……っ、く……ははっ……」


 口元に拳を当てて、ひたすらに笑いを押し殺していた。


「……那岐山(なぎやま)侯爵……?」


 きょとんとして、織瀬(おりせ)龍守(たつもり)を見つめる。


「……っ、いや……失礼。翠蓮(すいれん)皇女の反応があまりに素直なもので、つい……」

「はい……?」


 状況が理解できずに、織瀬(おりせ)は小首を傾げる。


鷹比古(たかひこ)倶知比古(くちひこ)、ご苦労だった。隼人(はやと)を揶揄うのはその辺で良いぞ」

「は」

「これで少し皇女殿下の緊張がほぐれると良いのですが」


 そう言って倶知比古(くちひこ)が微笑んだ。

 織瀬(おりせ)は口元を押さえて龍守(たつもり)を見やる。


「今のはわざと……演技、ということですか……?」

「ええ、勿論。翠蓮(すいれん)皇女には及びませんが、我が配下の演技力もなかなかのものでしょう? ……さて、肩の力も抜けたようですし、早速本題に──」

「ちょっと待て! 何だよ演技って! 聞いてねえぞ!」


 龍守(たつもり)の言葉を遮って、隼人(はやと)が叫んだ。


「五月蝿いぞ隼人(はやと)。時がないのだ、少し黙っていろ」


 小虫を払うように手を振る龍守(たつもり)に、


「テメェ、また俺に何も言わずにいいように使いやがって」

「仕方なかろう。事前に言って、お前に演技ができるか? いや無理だろう」

「それは確かにそうだが……って、そうじゃねえ! あいつらが俺を揶揄うのもいつものこと……って、そうじゃねえ。……あれ?」


 龍守(たつもり)に食い下がりながらも、次第に勢いを失っていく隼人(はやと)に、龍守(たつもり)は愉快そうに肩を揺らす。


隼人(はやと)。言いたいことが頭の中で整理できたら、その時聴こうか。……さて、翠蓮(すいれん)皇女。立ったままというのも何です。こちらへどうぞ」

「……ありがとうございます」


 龍守(たつもり)が引いた椅子に、織瀬(おりせ)は静かに腰を下ろす。

 隼人(はやと)には申し訳ないが、先程の那岐山(なぎやま)家の家臣たちのやり取りは、確かに織瀬(おりせ)の緊張を和らげる効果があったようだ。そうでなければ、密室に自分と四人の男たちしかいないこの状況に、平静でいられるはずがない。

 円卓がひとつ置けるくらいの距離をとって、倶知比古(くちひこ)織瀬(おりせ)の前に椅子を置いた。龍守(たつもり)は羽織ったままだった外套を倶知比古(くちひこ)へと手渡し、おもむろにそこに腰掛ける。

 三人の家臣たちが龍守(たつもり)の傍らではなく、それぞれ少し離れた場所に立って織瀬(おりせ)龍守(たつもり)を見つめているのは、織瀬(おりせ)に威圧感を与えまいとする彼らなりの配慮なのだろうか。


那岐山(なぎやま)侯爵。私の文に応じてくださったこと、まずは感謝いたします」

「とんでもない。皇族からの呼びかけを拒める者など、この橘花(きっか)国にいるはずがありません。……それで、皇女殿下は私にあえて虎穴に入れとの仰せですかな?」


 にやりと皮肉っぽく唇を歪める龍守(たつもり)に、織瀬(おりせ)は静かにかぶりを振る。


「いいえ。そうではありません」

「ほう? てっきりあの好色な従兄殿を排除しろとのご命令かと思いましたが……違うのですか」


 織瀬(おりせ)の父である高徳(こうとく)帝と、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)、皇太后螺鈿(らでん)の継母である水葉(みずは)上皇は姉弟である。つまり系図上、織瀬(おりせ)乙彦(おとひこ)は従兄妹ということになる。


「彼の振舞いが臣下としての分を超えていることは確かです。いずれは今の立場から退いてもらう方法を考えねばなりません。……しかし今私が依頼したいのは、近いうちに起こるであろう葛城(かづらぎ)家に対する反乱を阻止することです」


 その瞬間、室内の空気が一気に冷えるのが分かった。失敗したか、と織瀬(おりせ)の背に冷や汗が流れる。


葛城(かづらぎ)家に対する反乱……ですと?」


 紅い瞳が細められ、探るように織瀬(おりせ)を見つめる。その視線から龍守(たつもり)の心中を推し量るような芸当は、織瀬(おりせ)にはできなかった。


「……はい。そうです」


 絞り出すような声で答える織瀬(おりせ)に、


「ほう……」


 龍守(たつもり)は顎に手を当てて、自分から見て右手側に立つ鷹比古(たかひこ)を見やる。


「今の橘花(きっか)国に、葛城(かづらぎ)公爵に危害を加えようとする不届き者がいるとは思えませんがね。……鷹比古(たかひこ)、お前はどう考える」

「私も龍守(たつもり)様と同意見です。葛城(かづらぎ)公爵の威は、最早この橘花(きっか)国の全てを覆い尽くしていると言っても過言ではありません。もちろん内心では不満を持つ者もあろうかとは思いますが、実際葛城(かづらぎ)家の兵力を考えれば反乱を起こしても成功する確率は低いでしょう」

「……だそうです、翠蓮(すいれん)皇女。せっかく危険を犯して私に会いに来てくださったところ恐縮ですが、貴女のご懸念は杞憂かと思われます。さあ、どうぞ翠蓮(すいれん)宮にお戻りを──」

「七月朔日の未明、安比(あび)公爵家の私兵と西苑軍の一部の兵が、皇宮と葛城(かづらぎ)公爵邸を焼き討ちします」


 織瀬(おりせ)の言葉に、龍守(たつもり)は眉根を寄せる。


「……翠蓮(すいれん)皇女。貴女の想像力には感服いたしますが、不確かな情報で動くほど私も暇ではありません」

「多くの官人たちが害されるでしょう。……貴方も分かっているはずです。こんなことをしても、葛城(かづらぎ)家の権威は揺るがない」

「申し訳ございませんが、何の話だか……」

「お願いですから、知らぬふりは止めてください。貴方にも、安比(あび)将軍から──初臣(はつおみ)殿から誘いがあったのでしょう? でも、貴方はそれを断った。無辜の者たちが命を落とすことになると、分かっていたから……」


 我知らず、胸の奥から熱いものが込み上げる。努めて冷静に龍守(たつもり)を説得しようとしていたのに、唇から溢れるのは感情的な言葉ばかりだ。しかし織瀬(おりせ)は、口を閉じることはできなかった。


「多くの命が失われることが分かっていながら、何もできない……。皇族とは名ばかりで、私には何の力もないのです。ですから、恥を忍んでお願いいたします。どうか安比(あび)家の企てを止めてください。私にできることなら何でもいたしますから……!」


 膝のあたりの着物を両手でぎゅっと握りしめながら、織瀬(おりせ)は両眼からあふれ出しそうになる感情を押し込めた。深く、龍守(たつもり)に向かって頭を垂れる。

 しばし、室内を静寂が支配した。


「……一国の皇女が、安易に頭を下げるものではありませんよ」


 龍守(たつもり)が立ち上がり、ゆっくりと織瀬(おりせ)の元へと歩み寄る。


翠蓮(すいれん)皇女、顔を上げてください」

「……」


 そう促されても、織瀬(おりせ)は俯いたままだ。酷い顔をしていることが分かっているから、それを見られたくなかった。


(私は……なぜこんなにも感情的に……)


 自分で自分の心が理解できなかった。


(私はただ、同じ未来を繰り返したくない……。皇女として、橘花(きっか)国を守らなければと思っていただけなのに……)


 頑なに下を向いたまま動かない織瀬(おりせ)と視線を合わせるように、龍守(たつもり)が膝を付く。


「皇族としての矜持よりも、臣下の命を優先なさるのですね」

「……え?」


 龍守(たつもり)の言葉に、織瀬(おりせ)は虚を突かれたように顔を上げた。


「このまま放っておけば……どう転んでも、貴女に不利益はないでしょう。むしろ万に一つも成功すれば、貴女にとっては益になるというのに」

那岐山(なぎやま)侯爵、私は……」

「しかし、なぜ私が初臣(はつおみ)からの誘いを断ったと──いえ、申し訳ございません。翠蓮(すいれん)皇女にはきっと独自の情報網がお有りなのでしょう。あえて明かしてくださらなくても結構です。……時に、先程仰った日時は確かなのですか」

「え?」

「決行が七月朔日の未明という話です。それは確実ですか」

「は、はい……。おそらく……」

「ちっ……初臣(はつおみ)にしては行動が速いな」


 舌打ちとともに、龍守(たつもり)は立ち上がる。


隼人(はやと)。兵は何人集められる」

「明後日だろ、だいぶ厳しいな……。確実なのは五十ってとこか」

鷹比古(たかひこ)安比(あび)家の兵力は」

安比(あび)家単独で動かせるのはおよそ二百。あとは他家で応じる者がいかほどか、現時点では判断しかねます」

「……分家の者たちの兵力を合わせれば、もう百ほどは増えるか。あとは──」


 再び椅子に腰を下ろし、長い指の先で唇を叩きながら思案する龍守(たつもり)に、


龍守(たつもり)様、これはあくまで私の推測なのですが……豊雲(とよくも)公爵家と冬院(とういん)伯爵家も加わる可能性があります」


 躊躇いがちに、倶知比古(くちひこ)が会話に割って入った。


「……なんだと?」


 龍守(たつもり)を始めとする部屋中の視線が、一斉に倶知比古(くちひこ)へと注がれる。倶知比古(くちひこ)はそれに一瞬怯んだように一歩後ずさったが、すぐに気を取り直して龍守(たつもり)へと向き直る。


「先程の宴……安比(あび)本家の方たちは欠席しておりましたが、分家筋や安比(あび)家と懇意にしている家の者たちの姿は見られました。そのなかで、分家の安比(あび)北家の言動が少し気になって……」

「北家の者は何と言っていたのだ?」


 徐々に小さくなっていく倶知比古(くちひこ)の言葉を促すように、龍守(たつもり)が声をかける。


「その、全てはっきり聞き取れたわけではありませんが……火の星が沈み新月が美しく見える、と……幾人かに、まるで挨拶でもするように言っていて……首を傾げる人もいましたが、豊雲(とよくも)公爵と冬院(とういん)伯爵はその意味を理解しているように頷いていて……」

「成程。でかしたぞ、倶知比古(くちひこ)。大した観察眼だ」

「……っ、ありがとうございます!」


 龍守(たつもり)の評価に、倶知比古(くちひこ)はまるで子どものように顔を輝かせた。

 それとは対照的に、鷹比古(たかひこ)はきつく眉根を寄せる。


「しかし豊雲(とよくも)家はともかく、冬院(とういん)伯爵家ですか。あそこは武門の家としても名が通っています。兵の質も他家とは一線を画しておりますゆえ、厄介ですな」

「そうだな。俺と隼人(はやと)がいるとはいえ、五十の兵では厳しいだろう。葛城(かづらぎ)家の兵も精鋭揃いとは聞いているが、不意を打たれればどう転ぶか分からん」


 椅子の背に身体を預け、龍守(たつもり)は天を仰ぐ。


「さて、どうしたものか……」

「なあ。なんで火の星とか新月とかで、豊雲(とよくも)家と冬院(とういん)家が安比(あび)とつるんでるって分かるんだよ?」

「……冬院(とういん)家は五十といったところか。相手は三百五十余り……まだ正式に杖を賜ったわけではない俺に、近衛軍は動かせない。となると葛城(かづらぎ)家の私兵頼りとなるが、どうする鷹比古(たかひこ)

「そうですな……」

「おい龍守(たつもり)! 無視すんなお前ら!」


 大声を上げる隼人(はやと)に一瞥もくれず、龍守(たつもり)鷹比古(たかひこ)は軍議を始めてしまう。倶知比古(くちひこ)はと言えば、未だ龍守(たつもり)の賛辞に酔っているのか、こちらも隼人(はやと)のことを気にかける様子はない。

 さすがに哀れに思って、織瀬(おりせ)はおずおずと声をかける。


「あの……おそらくですが、決行日をそれとなく伝えているのではないかと……」

「ん? 決行日?」

「はい。古の詩に七月流火といって、七月になると火星が西空に傾いて沈む……というものがあるのです。そして暦の朔日は新月ですから、安比(あび)北家の者は七月朔日に決行するということを伝えていたのだと……」

「へえ、そうなのか」


 隼人(はやと)は感心したように頷く。


「さすが皇女様。学があるんだなあ」

「いえ、それほどでも……ありがとうございます」


 屈託なく笑う隼人(はやと)に釣られて、織瀬(おりせ)も思わず微笑んだ。


「それに素直だし。いくら学があっても、龍守(たつもり)みたいに捻くれてちゃな……」

「黙れ隼人(はやと)翠蓮(すいれん)皇女、我が配下の相手をしてくださってありがとうございます。……しかしこれで、皇女の仰った日時の裏づけもとれた。後は我らにお任せください」

「……え?」


 織瀬(おりせ)は翡翠色の瞳を見張り、龍守(たつもり)を見つめる。そんな織瀬(おりせ)の様子に、龍守(たつもり)はふっと唇を緩める。


「何を不思議そうな顔をなさっているのです? 私に反乱を止めてほしいと頼みに来たのでしょう?」

「え、ええ……そうなのですが、先程今の兵力では難しいと……」

「できないとは言っておりません。何とかいたします。……いざとなれば、私とこの隼人(はやと)がそれぞれ百人分の働きをいたしますから」


 背後に立つ隼人(はやと)を親指で示しながら、龍守(たつもり)は笑う。


「本当に……お願いしてよろしいのですか」

「ええ、お引き受けいたします」

「ありがとうございます……!」


 織瀬(おりせ)はほっと胸を撫で下ろす。兵力は心許ないが、前世でも『白蓮国記』でも、那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)は機知権謀に富むと評されていた。今は冗談めいた言い方をしているが、きっと何か策があるに違いない。


那岐山(なぎやま)侯爵、私にできることはありますか。皇宮内の造りなど、もし必要な情報があれば──」

「お気持ちだけ受け取っておきましょう。皇族である貴女が、非常時とはいえ外部に皇宮の秘事を漏らしたとあっては外聞が悪いのではありませんか」

「それは確かにそうですが……」


 織瀬(おりせ)は困ったように目線を落とした。一人の力ではどうにもならないと龍守(たつもり)を頼ったものの、全て任せて何もしないというのは良心が痛む。

 すると龍守(たつもり)は急に何かを思いついたように、


「ではこういたしましょう。首尾よく反乱を止めることができたら、私に褒美をいただけますか」

「え? 褒美……ですか」


 織瀬(おりせ)は意外そうに眼を瞬かせる。


「それはもちろん、依頼を聞き届けていただければ、何らかのお礼はするつもりでいました。ただ貴方もご存知かと思いますが、私は皇族とは名ばかりで何の権力も持ってはいません。もし貴方が望むものが官職であれば──」

「官職なら自力でどうとでもなりますのでご心配なく。それと金銭の類いも不要です」

「では……貴方は私に何を望むのですか?」

「貴女にしか与えられぬものを」


 龍守(たつもり)は椅子から腰を上げると、織瀬(おりせ)の正面に歩み寄る。そして恭しく一礼すると、


翠蓮(すいれん)皇女。貴女の願いを叶えた暁には、貴女に私の妻となっていただきます」

「…………え?」

「貴女の国を思う真摯な心、そして自身よりも臣下の命を案ずる優しさに惹かれました。ぜひ私の妻となっていただきたい」

「……本気で言っているのですか?」

「無論です。それに、何の力も持たぬ皇女殿下が与えられるものとして、その身以外の何があると言うのです?」

「それは──」


 返答に窮したその時だった。不意に背後から激しい突風のようなものが吹き込み、織瀬(おりせ)の視界を見慣れた後ろ姿が塞ぐ。二つに束ねられた髪が靡くのを認めた瞬間、金属同士がぶつかり合う鋭い音が、室内に響き渡った。


「……お姫様の侍女にしちゃあ、えらいじゃじゃ馬だな。どっから入った?」


 主君を狙おうとした苦無の切先を長剣で阻みながら、隼人(はやと)はぎろりと侵入者を睨みつける。龍守(たつもり)の背後にいたはずの隼人(はやと)がいつそこに回り込んだのか、織瀬(おりせ)の目では捉えることができなかった。


「姫様を褒美だって? ふざけないで! どいつもこいつも姫様を何だと思ってるのよ!」

菊理(くくり)、落ち着いて! 宮で待っているよう言ったのに、なぜここに……」


 歯を食いしばって再び隼人(はやと)に切りつけようとする菊理(くくり)を、織瀬(おりせ)は慌てて止める。普段の侍女服ではない、黒衣を纏った菊理(くくり)は苦無を握る手に力を込めたまま、


「心配だからに決まってるでしょ! 言わんこっちゃない、こんなクソ野郎に丸め込まれて……!」


 そう叫ぶと、隼人(はやと)の背後で薄い笑いを浮かべる龍守(たつもり)に、敵意に満ちた眼差しを突き刺す。


「随分な言われようだな。翠蓮(すいれん)皇女もなかなか個性的な臣下をお持ちのようで。……隼人(はやと)、剣を下ろして良いぞ」

「はあ!? 正気かお前!? こんな殺気しか感じないような女を前にして……!」

「良いから下ろせ」

「……分かったよ」


 渋々ながら隼人(はやと)が武器を納めた瞬間、菊理(くくり)が素早く床を蹴って龍守(たつもり)に飛びかかった。


菊理(くくり)……っ!」


 織瀬(おりせ)が叫ぶのとほぼ同時に、菊理(くくり)の刃が龍守(たつもり)に襲いかかる。しかしその攻撃は、龍守(たつもり)に届くことはなかった。

 疾風のような攻撃をひらりと交わして、


「成程。武人ではなく草……忍びの者か。なかなかに良い腕をしている。鷹比古(たかひこ)の配下の中に放り込めば、上の中くらいの実力になるのではないか?」


 その力量を測る余裕すら見せる龍守(たつもり)に対し、菊理(くくり)は額に青筋を浮かべる。


「この野郎……ッ!」

「おっと、危ないな」


 再び苦無の先が金の髪を掠めるも、龍守(たつもり)は露ほども動じることなく楽しそうに笑っている。

 一向に届くことのない攻撃を何度か繰り返して、さすがの菊理(くくり)も肩で息をし始めた。


「なんだ、もうお終いか? 皇女の護衛がこの程度とは些か期待外れだな。前言撤回して中の上くらいにしておくか」

「……っ、あからさまにあたしのことナメてるわねっ……! こいつムカつく……っ!」

「あー……わかりみがすぎるわ。ムカつくよなー龍守(たつもり)って」

「おい。お前は誰の味方だ隼人(はやと)

「俺はお前がムカつくって意見に共感してるだけだぜ。……それで、どうするこの女?」


 隼人(はやと)の瞳の色が変わった。ついさっきまで軽口を叩いていたとは思えないほど鋭い目つきで、隼人(はやと)菊理(くくり)を見やる。その視線の冷たさに、織瀬(おりせ)は全身の血が凍りつくような感覚に陥った。


「皇女の侍女だか護衛だか知らねえが……龍守(たつもり)に刃向けて、ただで帰れると思うなよ」


 隼人(はやと)が長剣を構える。


「……っ! 待ってください、隼人(はやと)殿!」

「ちょっと姫様!」


 思わず菊理(くくり)を庇うように前に走り出た織瀬(おりせ)に、剣先が突きつけられる。

 織瀬(おりせ)は喉元まで出かかった恐怖を飲み込んで、


「彼女の無礼はお詫びいたします。ですからどうか剣を納めてください」

「姫様! なんで姫様が謝るんですか! 先に無礼なこと言ったのはそこの金髪野郎でしょ!」

「お願いだから菊理(くくり)、ここは堪えて頂戴」

「姫様……!」

「……この辺にしておきましょう。どちらがより無礼かという観点から言えば、こちらが圧倒的に不利ですしな」


 はあ、とひとつ深く溜め息を吐いて、鷹比古(たかひこ)が剣を握る隼人(はやと)の手を押し留めた。


隼人(はやと)殿、剣を納めてください。皇女殿下に侍女殿、怖がらせてしまい申し訳ございません。……龍守(たつもり)様も人を揶揄うのも大概にしてください。隼人(はやと)殿が暴走したら、私の配下を総動員しても止められませんぞ」

「ああ、すまんな鷹比古(たかひこ)。……隼人(はやと)、剣を納めろ」

「……分かったよ」


 隼人(はやと)が長剣を鞘に納めるのを見届けて、織瀬(おりせ)はほっと胸を撫で下ろす。その後ろで、


「あたしは別に怖がってないけど」


 菊理(くくり)が不満そうに唇を尖らせた。


龍守(たつもり)様。先程の皇女殿下への要求は撤回して謝罪なさってください。いくら龍守(たつもり)様でも臣下としての分を超えていらっしゃる。これでは葛城(かづらぎ)公爵と変わりませんぞ」

「お前にしては的外れな批判だな、鷹比古(たかひこ)。こちらは身を危険に晒して皇女の依頼に応えるのだぞ? これくらい望まねば割に合わん」

「割に合う合わないの話ではございません。橘花(きっか)国の民であるならば、皇族の依頼に応えるのは当然のこと。……見返りを求めるのであれば、皇女殿下の依頼は聞かなかったことになされよ」

「お前の言うことは最もだがな。しかしその正論が通じるのは泰平の時だけだぞ」


 龍守(たつもり)は嗤う。


橘花(きっか)国が建国されてから、およそ二百年……。この大陸において、ここまで長く続いた王朝は他にない。ならば今が終わりの始まりでないと何故言える?」


 紅い瞳が、鷹比古(たかひこ)から織瀬(おりせ)へと向けられる。


「歴史を辿れば、いくつかの王朝の終焉において、今の橘花(きっか)国と酷似した状況を見出すことができる。暗愚な王とそれを利用する奸臣、保身に走るばかりの官吏たち──」

龍守(たつもり)様、皇女殿下の御前です。それ以上はお止めください」


 ちらりと織瀬(おりせ)を見やった鷹比古(たかひこ)が諫めるも、龍守(たつもり)は言葉を続ける。


「そして民の苦境に目を向けず、目先の享楽に耽るばかりの貴族たち……」

龍守(たつもり)様!」

「このままでは橘花(きっか)国は今上陛下が最後の皇帝となる。そしてその空いた玉座に座るのは、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)であろうな」


 皮肉げに細められた紅い瞳と、織瀬(おりせ)の翡翠色の瞳がかち合う。


「俺としては、玉座に着く者が誰であろうと一向に構わん。今からでも安比(あび)家の企てに賛同し、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)を追い落とすも良し。または翠蓮(すいれん)皇女の依頼とは関係なく、とりあえず安比(あび)家の反乱を阻止し、その後上手く葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)に取り入り次期王朝での権勢を狙うというのも良し。……おあつらえ向きのネタも、自ら飛び込んで来てくれたことだしな」

「……」


 織瀬(おりせ)は努めて冷静に、龍守(たつもり)の言動の意図を探るように見つめる。


「始めに貴女は葛城(かづらぎ)公爵について、『いずれは今の立場から退いてもらう方法を考えねば』と仰った。翠蓮(すいれん)皇女、貴女は葛城(かづらぎ)家以外の者に被害が出ることを案じているだけで、葛城(かづらぎ)家に対する反乱それ自体を否定しているわけではないのでしょう? もし葛城(かづらぎ)家以外の者に累が及ばず、葛城(かづらぎ)家のみを排除する方法があれば、今のように必死になって反乱を止めようとなどなさらないのではありませんか」

「もし、だなんて……そのように仮定の話をすることに意味があるとは思えませんが」

「意味はありますよ。例えば、翠蓮(すいれん)皇女が葛城(かづらぎ)公爵に害意を抱いているとお伝えするのはどうでしょう」

「私の不用意な一言だけを根拠にですか? それによって私を除こうとするほど、葛城(かづらぎ)公爵は臆病な人物とは思えませんが。それに私は葛城(かづらぎ)家に対する反乱を阻止しようと動いているのです。それだけでも私が葛城(かづらぎ)公爵に害意など持っていないという根拠になります」

「いいえ、なりません。……そもそも安比(あび)家の反乱計画を明るみに出る前に潰してしまえば、それは根拠としての意味を失います。それに私は、葛城(かづらぎ)公爵に伝えるなどとは一言も申し上げておりませんよ」

「……では、誰に伝えると言うのです」

「皇太后陛下に」


 その一言で、織瀬(おりせ)は自らの間違いに気づいた。一方菊理(くくり)は、眦を吊り上げて龍守(たつもり)に食ってかかる。


「ちょっとあんた! 姫様を皇太后に売るつもり!?」

「さて……それは姫君のご返答次第だな」


 龍守(たつもり)はふっと微笑した。このような状況でなければ、思わず見惚れてしまいそうな眼差しが、織瀬(おりせ)へと向けられる。


「……那岐山(なぎやま)侯爵。貴方は一体何が望みなのですか」

「たった今申し上げたはずです。私は貴女が欲しい」

「それは何故ですか」

「おや、理由も一緒に申し上げましたが? 貴女の人柄に惹かれたと」


 織瀬(おりせ)は額を押さえて溜め息を吐いた。


「……私に惹かれた? たった今、初めて言葉を交わしたのにですか?」

「勿論、貴女のその美しさも理由の一つではありますがね。要するに一目惚れという訳です」

「……たった今、貴方が嘘つきだということは分かりました」


 翡翠色の瞳に、僅かに軽蔑の色を滲ませた織瀬(おりせ)を見やり、龍守(たつもり)は肩を竦める。


「意外と辛辣な物言いをなさるのですね。これでも私は本気なのですが」

「……貴方は、一時の感情で物事を決めるような方なのですか?」


 織瀬(おりせ)の言葉に、龍守(たつもり)の笑いが一瞬消えた。


「正直に言っていただけないのなら、私から言います。……貴方が欲しているのは、私ではなく皇族の権威ですね?」

「……」

那岐山(なぎやま)家は新興貴族です。初めに爵位を得たのは、水葉(みずは)上皇の宮に仕えていた貴方のお祖父様。その時は伯爵であったようですが、その後私の父である先帝の時、貴方のお父様が大尉の位とともに侯爵位を得た。……貴方自身の栄達もあり、貴族たちの中では三大公爵家に次ぐ力があるなどと言う者もありますが、実際は違うのでしょう?」

「……良くご存知でいらっしゃる。その通りですね。祖父は元々水葉(みずは)上皇の前──第十代皇帝の後宮に仕えていた宦官です。上皇に気に入られて爵位まで賜ったのはひとえにその才知ゆえですが、なまじ容姿が優れていたために上皇をたらし込んだなどという陰口を未だに叩かれている。父に関しては──これは余り言い訳できませんね。出自に関しては何処の馬の骨とも知れぬ、祖父が何処かから拾ってきた捨て子のようです。政治的な才覚は皆無ですが金策には鼻が利いて、とうとう侯爵位などという畏れ多いものを買ってしまいました。まあそのお陰で私は色々と恩恵を受けているので、表立って批判は出来ませんが」


 皮肉げに嗤う龍守(たつもり)を、織瀬(おりせ)は真摯な眼差しで見つめる。


「貴方に対する、聞くに堪えない言葉を耳にしました。それから、貴方の昇格についての的外れな噂も……」


 正確には前世で聞いたのだが、きっと今世でも同じように謂れなき中傷に晒されているのだろう。


「穢らわしい贅閹(ぜいえん)の息子とか、官位を金で買ったとかいうものですか? 翠蓮(すいれん)皇女の清らかな耳朶を汚してしまったとは、大変申し訳ない」

「……龍守(たつもり)様」


 主君の会話を遮ることを憚ったのか、長らく沈黙を守っていた倶知比古(くちひこ)が、気遣わしげに龍守(たつもり)の名を呟く。そんな倶知比古(くちひこ)に微かに笑いかけると、龍守(たつもり)は再び織瀬(おりせ)に向き直る。


翠蓮(すいれん)皇女。私は貴女の聡明さを計り違えておりました。回りくどいことはせず、初めからこう申し上げるべきでした」


 そして龍守(たつもり)は、織瀬(おりせ)の前に恭しく膝を付く。


翠蓮(すいれん)皇女。我が那岐山(なぎやま)家は権力と財力は足りておりますが、ただ一つ、貴族としての正統性に欠けております。もし貴女が私の妻となり、子を成していただければ──私の次代を皇族の血を引く者が継ぐならば、那岐山(なぎやま)家の大きな憂いが消えることになるでしょう」

「……それが、貴方が私に近づいた本当の理由ですね」

「その通りです」

「……」


 頭を垂れた龍守(たつもり)がどんな表情をしているのか、今の織瀬(おりせ)には窺い知ることはできない。しかし少なくとも織瀬(おりせ)に惹かれたなどという曖昧な理由よりも、今龍守(たつもり)が述べた打算的なそれのほうが、織瀬(おりせ)の知る『那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)』という男に相応しいように思えた。


「分かりました。貴方の願いを聞き入れましょう」

「……おいおい、マジかよ」

「ちょっと、何言ってるんですか姫様!」


 龍守(たつもり)以外の全ての視線が、揃って驚愕の色を湛えて織瀬(おりせ)を見つめた。


「ただし、皇族の婚姻は国事です。私が受け入れたところで、それが朝議で認められるとは限りません」

「無論、承知しております。そしておそらく、葛城(かづらぎ)家は反対するでしょうね。我が家に権威まで加われば、葛城(かづらぎ)家にとって脅威となる」

「はい。ですから差し当たって安比(あび)家の反乱を阻止し、表面上は葛城(かづらぎ)家に付いたふりをしていただき……機を見て葛城(かづらぎ)公爵を除いていただきたいのです」

「成程、やはりそちらが本当のご依頼ですか。どうあっても虎穴に入らなければならない……私のことを嘘つきと仰いましたが、貴女もなかなかの食わせ者だ」

「そうしなければ、虎子を得ることができないのです。……どうか、橘花(きっか)国を救うために力を貸してください。貴方にとっても益になることのはずです」

翠蓮(すいれん)皇女を得られると思えば、割りに合わぬなどとは言えませんね。……しかし、本当に私が橘花(きっか)国を救ってしまってよろしいのですか。葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)を追い落として、そこに私が座ってしまうかもしれませんよ」

「……私は、貴方に託した私自身を信じています」

「ほう。今までの言動とは違って、随分と危なっかしい根拠ですね。……しかしまあ、そのようなところも可愛らしい」


 多くの人々の心を騒めかせたであろう甘い声と表情で、龍守(たつもり)は告げる。


「かしこまりました。橘花(きっか)国は、この那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)がお救いいたします」



 *



 翠蓮(すいれん)皇女と龍守(たつもり)との会見は、およそ半刻ほどで終わりを告げた。龍守(たつもり)としては随分と長く言葉を交わした感覚がしたが、室内を赤々と照らす火時計の灯りは嘘をつかない。


「後宮へ戻られるなら、お供いたしましょう」


 そう龍守(たつもり)は申し出たが、


「帰りは菊理(くくり)がおりますから、ご心配には及びません」


 微笑みとともに丁重に断られてしまった。

 深々と頭を垂れる翠蓮(すいれん)皇女と、まるで親の仇でも見るような目つきで睨みつけてくる侍女を見送りながら、それにしても皇女はどうやって後宮を抜け出して来たのだろうとの疑問が頭を過ぎる。鷹比古(たかひこ)の配下を使って後を尾けさせるかとも思ったが、結局面倒になって、何の指示も出さずに龍守(たつもり)は椅子に深々と腰を下ろした。


「さて、どうしたものかな……」


 腕を組み、天を仰ぐ。翠蓮(すいれん)皇女の前でも呟いた一言が、再び口をついた。


龍守(たつもり)にしては珍しいな。完全にお姫様に乗せられただろ」


 そんな龍守(たつもり)を上から覗き込みながら、隼人(はやと)がにやにやと笑っている。


「ああ、油断した。てっきり箱入りの深窓の姫君だと思っていたが、違うらしい。あれは本気で国を救う気でいるぞ」

「だけど、国を救うったってなあ……。なんでまた、あのお姫様は龍守(たつもり)を頼ったんだか。どう考えてもお前、救国の英雄ってガラじゃねえだろ。どっちかっつーと悪役だもんなあ……」

「……」


 龍守(たつもり)は無言のまま、紅い瞳を閉ざす。


「私は翠蓮(すいれん)皇女殿下は見る目がお有りだと思います。龍守(たつもり)様はいずれ、この国の頂点に立つお方ですから」


 期待に満ちた口調で言う倶知比古(くちひこ)に、


「……いや、頂点に立っちゃマズいんだよ。それじゃ破滅エンドだ……」


 隼人(はやと)の呟きは、龍守(たつもり)以外の者の耳には届かなかった。龍守(たつもり)もあえて聞こえなかった振りをして、


「ここはやはり先程翠蓮(すいれん)皇女が言ったように、安比(あび)家の反乱を阻止しつつ、上手く葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)に取り入って、折を見て奴を蹴落とすしかないな」

「言葉で言うのは易いですが、その方法を考えるのが厄介ですな」


 鷹比古(たかひこ)も腕を組んでため息混じりに言う。難しい顔をしたまま黙り込む主君と師の顔色を伺いながら、倶知比古(くちひこ)がおずおずと口を開いた。


「あの……龍守(たつもり)様も皇女殿下に仰っていましたが、葛城(かづらぎ)公爵を除くのが目的ならば、無理に安比(あび)家の反乱を阻止しなくてもよろしいのではありませんか。首尾よく事が運べば、そこで葛城(かづらぎ)公爵を除くことができますし、もし失敗したとしても葛城(かづらぎ)家も無傷では済みませんので、勢力の弱体化を狙えるかと」

「駄目だ。安比(あび)家の……奴らの作戦では葛城(かづらぎ)家以外の者への被害が大き過ぎる。数に任せて皇宮や公爵邸を襲撃して、一体どれだけの官人が死ぬことになる?」

「それは……ですが、国を救うためには必要な犠牲では……」


 時折視線を落としながらもそう主張する倶知比古(くちひこ)に、龍守(たつもり)は紅い瞳を開けて真っ直ぐに向き直る。


倶知比古(くちひこ)。国を動かすのに必要なのは、なにも権力だけではない。無数の官人たちの一見取るに足らぬ働きがあるからこそ、このような状況でも橘花(きっか)国は命脈を保っていられるのだ。……もし葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)という頭を切り捨てて、その上官人たちという手足まで捥いでしまえば、いよいよ橘花(きっか)国は滅亡へとひた走ることになるぞ」

「ですが、今の宮廷は葛城(かづらぎ)公爵に諂う者ばかりというではありませんか。そのような者たちが残れば、例え葛城(かづらぎ)公爵がいなくなっても橘花(きっか)国の危機が去ったとは言えぬのではありませんか」


 だんだんと熱を帯びる倶知比古(くちひこ)の主張に、それまで黙って会話を聞いていた隼人(はやと)が肩を竦める。


倶知比古(くちひこ)。お前の言うことは正論だけどよ、世の中みんなが正論で生きられるわけじゃねぇんだよ」

「どういうことですか、隼人(はやと)殿」

「だからさ、お前は龍守(たつもり)の下でしか働いたことねぇから分かんねぇだろうけど……。世の中にはこの上司ろくでもねぇなって思いながらも、『はいかしこまりました』って言わなきゃなんねぇ事が山ほどあんだよ」

「なぜそのようなことを……。官人としての矜持はないのですか」

「そうしねぇと給料貰えねぇもんな。矜持のために自分だけならともかく、家族まで飢えさせるわけにいかねぇだろ」

「…………」


 隼人(はやと)の言葉に反論こそしないものの、倶知比古(くちひこ)はまだ納得しがたいと言うように眉根を寄せる。そんな倶知比古(くちひこ)の様子に龍守(たつもり)はふっと笑みをこぼす。


倶知比古(くちひこ)橘花(きっか)国の建国当時、大きな戦乱の後にも関わらず、安定した国家運営がなされたのはなぜだと思う」

「……それは、初代の武照ぶしょう皇帝陛下が類稀なる指導力を発揮したからで……」

「それもある。しかし最も大きな要因は、武照帝が前王朝の多くの官人たちをそのまま用いたことだ。史書に記された事を信じれば、武照帝は前王朝の皇女を皇后とし、生き残った皇族たちにも爵位を与えている。……勿論、不穏な動きを見せた者は粛正の対象となったようだがな。とにかく、そのようにして生き延びた者たちのなかから、後に功臣と呼ばれる者も多く出た。まさに前王朝の膿だけを出し切り、手足を生かす……上手いやり方だ」

「ま、極論を言えば下っ端は自分の生活が保証されれば、頭が誰でもそんなに気にしねぇもんな。葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)がいなくなっても、殆どの官人たちは普通に自分の仕事してんじゃねぇの?」

「そういうことだ。故に国の手足まで切り落としかねん暴挙は阻止せねばな」

「……かしこまりました。私はまだまだ浅はかでございますね」


 下を向く倶知比古(くちひこ)の肩を、隼人(はやと)が勢いよく叩く。


「まぁそう落ち込むなよ。俺も新人の頃はお前みたいにイキってたなー」

「私は貴方にではなく、龍守(たつもり)様に申し上げたのです。それに少しは力加減を考えてください」


 ぷいと横を向いてしまう倶知比古(くちひこ)を見て、龍守(たつもり)隼人(はやと)が笑った。


「さて。ではとりあえず俺が葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)に取り入って、隙を見て暗殺でもするか」

「……お前、さらっと物騒なこと言ってんじゃねぇよ。つーかお前に暗殺なんてできんのか?」

「任せておけ。これでも人を誑かすのは得意だ」

「そっちじゃねぇし、お前のそれはほぼ女限定だろ。……あのな、暗殺ってのはこっそりやるもんだ。お前みたいに存在そのものが派手な奴には向いてねぇんだよ。そういうのは鷹比古(たかひこ)の配下にでもやらせれば──」

「……非常に申し上げにくいが、無理ですな」


 鷹比古(たかひこ)が苦渋の表情を浮かべる。


「都に戻ってからこのひと月……勿論暗殺目的ではなく、あくまで葛城(かづらぎ)公爵の動向を探るために幾人か草を放ちましたが、首尾は良いとは言えません。葛城(かづらぎ)公爵は決して臆病ではありませんが、非常に用心深い。常に周囲を側近で固めている上、自身の武術もなかなかの腕のようです」


 鷹比古(たかひこ)の言葉を聞き、龍守(たつもり)はもっともらしく頷く。


「ならばやはり、俺がその側近になるしかないな」

「ですが、龍守(たつもり)様自ら火中に飛び込むと言うのは……」

「心配だよなぁ。絶対何かやらかすに決まってる……」


 方向性の違う心配をする倶知比古(くちひこ)隼人(はやと)を一瞥し、龍守(たつもり)は立ち上がる。


「さて。そろそろ有明の月も昇ることだ、このあたりで撤収するぞ。安比(あび)家のことは、屋敷に戻って仮眠を摂った後に改めて考えようではないか」

「そうだな。……ああ、言われたら何か眠くなってきたわ。ほぼ徹夜だったもんなぁ」


 欠伸をしながら身体を伸ばす隼人(はやと)に、わざとらしく倶知比古(くちひこ)が腕をぶつける。


「痛ってぇな、何すんだよお前!」

「さっき肩を叩いたお返しです。……ほら、ぼうっとしてないで、さっさと出ますよ。龍守(たつもり)様の話だと見廻りも増えているようですし、早く元々あてがわれている部屋に戻らないと怪しまれます」

「へいへい、分かったよ」


 肘打ちを喰らった脇腹を押さえながら、隼人(はやと)は主君と同僚たちが扉をくぐるのを見届けた後に、部屋を出て行った。

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