第五章 星影の下で
織瀬の起こした『毒姫』騒ぎのせいで台無しになりかけた宴は、龍守の剣舞をきっかけに元の喧騒を取り戻し、やがて葛城乙彦の退席をもって散会となった。
翠蓮宮に戻った織瀬は、真っ先に明瑠と菊理に礼を言う。
「ありがとう、二人とも。私の演技に協力してくれて。……でも、明瑠。あの最後の台詞は打ち合わせになかったと思うのだけれど……」
「最後の台詞というと……」
首を傾げる明瑠に、
「あれじゃない? ほら『こんなにもお美しいのに、これでは殿方に愛されることも……』ってやつ」
「ああ、あれか。……申し訳ありません、姫様。あの場面ではこの台詞が良いのではないかと思っていたのですが、事前にお伝えすると姫様に却下されると思い……」
「当たり前でしょう。なぜあんな恥ずかしい台詞を……とっさに返す言葉を思いついたから良かったものの……」
「しょうがない。言いたくなっちゃったんでしよ、明瑠?」
なぜか菊理が庇うように、うんうんと頷く。
「ああ。どうしても姫様のお美しさを伝えなければと思い……」
「うん。なかなか耽美な感じでよかったと思う」
「そうだろう。渾身の演技だったんだ」
「菊理も明瑠も……何を言っているのか分からないわ」
二人の会話に、織瀬は溜め息を吐く。
「でも、とりあえず那岐山侯爵の助け舟もあって、葛城公爵は私たちの演技を信じたようだし、当面は向こうから何かしてくることはないかしら」
「そうですね。それにしても、華彰先生には事前に協力を仰いでいましたが……那岐山侯爵には、姫様が助力を頼まれたのですか?」
「いいえ。文にはこの件については何も記していないわ。……おそらく、私たちの意図を察して、自発的に協力してくれたのでしょう」
「信用していいんですかね、那岐山龍守……。あの男、姫様の前世で橘花国を滅ぼしたんでしょう? 姫様に文をよこしたのも、宴の場で助けたのも、何か企んでのことなんじゃ……」
「そうね。その可能性はあるわ」
菊理の懸念を、織瀬は冷静に肯定する。その上で、
「でも前世での彼は、少なくとも葛城公爵のような横暴な振舞いはしていないし、敵である貴族連合軍の陣中でも礼節を守っていた。……それに今になって考えてみると、どうしても陣中で会った彼と、簒奪と言う言葉が結びつかないの」
織瀬は静かに、窓の外の月の無い夜空を見つめる。
「胸の奥に秘めた野望を、巧妙に隠しているだけかもしれない……。だけど少なくとも今、葛城公爵に対抗出来るだけの力があり、私に協力してくれそうな人は彼しかいないわ」
「……本当に行くつもりなのですか、姫様」
「あたしはああいうスカした男、信用しないほうが良いと思いますけど……」
懸念を隠しきれない表情を浮かべる侍女たちに向かって、
「もう少ししたら、外廷へ行く準備をしなければ。文に記した時間通りに、那岐山侯爵に会いに行くわ」
「……かしこまりました」
「分かりましたよ、もう……」
以前では考えられなかった強情さを見せる主人に溜め息を吐きながらも、侍女たちはその意に従わざるを得ない。だがそれは、立場上そうせざるを得ないからという訳ではなく、菊理も明瑠も、すでに織瀬と命運を共にする覚悟を決めているからだった。
*
有明の月が顔を出すまで、あと一刻ほど。
菊理の手配した中級女官の装束に身を包んだ織瀬は、寝室の姿見の前で自分の身なりを確認する。菊理と明瑠の尽力もあり、どこからどう見ても女官に見える──はずだ。
「……姫様、ご決意は分かったとは言いましたけど、一人で行くというのは考え直してくれませんか。もう夜も遅いし、翠蓮宮を訪ねて来る人なんていないでしょ。念の為、明瑠が姫様の振りをして翠蓮宮に残る、それで充分なんじゃ……」
「いいえ、万が一ということもある。明瑠がいない事は毒のせいということで誤魔化せても、菊理の不在は言い訳出来ない。……貴女たちは、いつも良く私に仕えてくれている。側を離れることなどあり得ないのだから、どう取り繕っても不審に思われるわ」
「それは、そうかもですけど……」
菊理は頬を膨らませて黙り込む。純粋に心配してくれていることが分かるからこそ、織瀬は侍女たちに微笑みかける。
「明瑠も菊理も、心配してくれてありがとう。でもね、今私が何もしなければ、結局は前世と同じ道を辿ることになる。そう考えれば、多少の危険もどうということはないでしょう?」
「……あたしも明瑠も、国なんかより姫様のほうが大事なんですけどね」
ぼそりと呟く菊理の隣で、明瑠も大きく頷く。
「姫様のご意志は尊重いたしますが、くれぐれも無茶はなさいませんよう」
「ええ。ありがとう、二人とも。……明瑠、しばらくこの簪をお願いね。有明の月が昇るまでの間は、貴女が翠蓮皇女よ。……それまでには戻るわ」
「かしこまりました」
織瀬は自分の髪から翡翠の簪を引き抜き、そっと明瑠の髪に挿した。
「あ、こんな時間に簪を挿しているのは不自然よね。明瑠、それは枕元に置いておいて良いわ。頑張って寝ている振りをしていてね」
「はい、分かりました。姫様」
明瑠と顔を見合わせて微笑み合うと、織瀬は菊理に声をかける。
「菊理、お願い出来るかしら」
「はい」
菊理は寝台の脇にしゃがみ込むと、垂れ下がる寝具をめくって、その下に手を這わせた。やがてかちかちと何かが合わさるような音が聞こえ、立ち上がった菊理はそっと寝台を押した。
本来ならば、重厚な設えが施された寝台は、数人がかりでなければ動かすことは不可能だろう。しかし菊理の軽い一押しで、寝台は床の上を滑るように動いた。そしてその下から現れたのは、大人一人が楽に通り抜けられるほどの大きさの扉だった。扉といってもその枠は完全に床と一体化しているため、そこに扉があると事前に知っていなければ、とてもそうは見えない。
織瀬は床に膝を付き、扉の端に手をかけた。すると床の一部がへこみ、そこが丁度引き手のようになる。力を込めて引き上げると、扉の下から黒々とした穴が顔を出した。かすかに、冷たい風が頬を撫でる。
「……こんなものを作るなんて、先帝陛下は先見の明があったってことでしょうか。……いや、結果的にこれがあるから姫様は今無茶をしようとしている訳で……そうなるとここは、何してくれてるんだと先帝陛下をどつくべきか……」
「菊理。先帝陛下は万が一の時、姫様のお命を守れるようにとこの隠し通路を作らせたのだ。それを目的外の使い方をして、私たちの気を揉ませているのは他ならぬ姫様だ。先帝陛下の責任ではない」
「……そのように正論を言われると、一言もないわ。必ず無事に帰って来ると約束するから、今回ばかりは許して頂戴」
苦笑しながら、織瀬は穴の中へとそっと足を踏み入れる。そこへ菊理が、織瀬に向かって手を差し出す。
「姫様、これを持って行ってください」
織瀬の掌に、小さな石が置かれる。不思議なことに、それは織瀬の手の中で淡く緑色に光っていた。
「蛍火石というものです。昼間に日の光に当てておくと、少しの間だけ光るんです。……今回はあまり日に当てる時間が無かったから、少ししか光らないかもだけど……それでも、何もないよりはマシでしょ」
「菊理……ありがとう。助かるわ」
織瀬は蛍火石を一旦懐に仕舞うと、慎重に穴の中に足を踏み入れる。穴の深さは織瀬の身長のおよそ三倍ほど。普段宮中でぬくぬくと過ごしている身には難易度の高い冒険だが、自分で言い出した手前弱音を吐く訳にはいかない。
やっとのことで穴の中の地面に足を付くと、織瀬はほっと息を吐いた。菊理に渡された蛍火石を取り出して、穴の中を伺う。
「姫様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。道順も頭に入っているから、このまま外廷にある始祖神の廟へ向かうわ」
「了解です。……言われずとも承知してると思いますけど、今降りたのと同じ高さを登らないと地上に出られませんからね。それに、帰りも同じ道を通るんだし……くれぐれも、足を踏み外さないように気をつけて下さいね!」
「ええ。それでは行ってくるわ」
何度も念押しする菊理と、心配そうに覗き込む明瑠に軽く手を振ると、織瀬は穴の先の通路を見つめる。幾重にも枝分かれしたその通路は、正しい道筋を知らないと決して目的地に辿り着くことは出来ない。
やがて、頭上で穴の入り口がゆっくりと閉じられる。こうなれば、正しい手順で入り口側から操作しないと、抜け道の扉が開く事はない。
蛍火石の仄かな灯りを頼りに、織瀬は穴の中をしっかりした足取りで進む。
変わり映えのしない景色のなかで、織瀬は前世の自分を思う。あの時の自分は、貴族連合の行軍に同行したおかげで、図らずも宮中にいた頃よりも体力がついていたけれど──。
(一年前の身体では駄目ね。まだ道のりの半分ほどだと思うけど、もう息が上がってしまう)
首筋に滲んだ汗を手巾で拭い、それでも織瀬は歩を止めることはない。段々と動悸が速くなっているのが分かる。それは慣れない行動のせいでもあるが、一番は那岐山龍守と顔を合わせることに緊張しているからだ。
(宴の場では助けられたけど、那岐山侯爵は油断のならない人物だわ。まずは安比家の反乱を止めてもらいたいけれど、私ごときの話を聞いて貰えるかどうか……)
『白蓮国記』の記述を信じれば、この時点で龍守は安比家が反乱を起こすことを知っているはずなのだ。例え日時等の詳細は知らなかったとしても、彼が反乱を止めるための行動を起こしていないのなら、彼にはその為に打つ手が無いか、若しくは前世と違い反乱に賛同しているという可能性もある。
(先程の宴に、安比家の者は参席していなかった……。本来なら、名目上皇帝主催の宴を欠席するなどあってはならない。それを口実に謀反の疑いをかけることだって、葛城公爵ならやりかねないのに……)
反乱を起こすのだから、安比家にとってそのような瑣末はもはや気にするものではないのだ。この時点で異変に気づけなかった前世の自分は、何と愚かだったのだろう。
(本当なら、もっと『白蓮国記』を読み込んでおきたかったけれど……)
織瀬は唇を噛む。宴の後翠蓮宮に戻った織瀬は、侍女たちとの会話の後、休む間もなくその書を手に取った。
しかし表紙を開いた途端、織瀬は愕然とした。信じがたいことに、宴の前には確かに書かれていた記述が、ところどころ抜け落ちている。書の頁が破損している訳ではない。元々書かれていた文字が、まるで最初から無かったもののように消えているのだ。
織瀬は慌てて書をめくる。全ての頁が消えているわけではない。冒頭に書かれた前王朝である橘花国の歴史や、那岐山龍守の経歴に関する記載はそのままだ。そして織瀬の死も、その後龍守が新王朝を打ち立て、やがて滅亡するまでのいきさつも消えずに残っている。
(消えていたのは、安比家の反乱に関する記述と、その後安比公爵が反葛城連合軍を結成するまでの記述……。それ以外の文章もところどころ虫食いのように消えていたけれど、一体何が書かれていたのだろう……)
なぜ文章が消えたのかと言う疑問以上に、こんなことならば、何としても宴の前に『白蓮国記』を読んでおくべきだったと織瀬は悔やむ。残されていた記述は、すでに読んだものと、前世の記憶に残っているものばかりだった。
(……いいえ、後悔している暇などないわ。前世の記憶が残っているだけでも僥倖なのだから、後は持っている記憶と知識をどう使うか……どちらにしろ、私自身がどう行動するかが、未来を変える足がかりになるはず)
思いを巡らすうちに、通路の終点に辿り着いた。蛍火石はもう殆ど光を失っているが、長い暗闇に織瀬の目も充分に慣れている。
壁面に申し訳程度に付けられた石板を足がかりに、織瀬は深い穴を登り始めた。一度足をかけた所の板が外れ、思わず小さな悲鳴を上げる。
しかし何とか一番上まで辿り着き、織瀬は頭上の板を慎重に押し上げた。
「ふう……」
新鮮な外気を吸い込んで、織瀬の唇から吐息が漏れた。土壁に触れたために汚れた掌を払いながら、織瀬は注意深く周囲を見回す。
通路の出口は、始祖神の廟の中に作られていた。このような真夜中に廟を訪れる者など、通常ならいるはずがない。しんと静まり返った夜のしじまの中で、織瀬は静寂を脅かしてしまった詫びも含めて、始祖神の像に向かって祈りを捧げる。
(このような夜更けにお騒がせして申し訳ございません。天より与えられたこの命を賭して、力を尽くします。どうか橘花国をお守り下さい……)
しばらく瞑目した後、織瀬は廟に設えられた窓からそっと外の様子を窺う。菊理の調べによると、今は警備の巡回時刻のちょうど狭間だ。
織瀬はゆっくりと廟の扉を押し開ける。周りに人影がないことを確認すると、足音を立てぬよう慎重に歩を進める。
初めは廟の中を龍守との会見場所に指定しようと考えたが、万が一隠し通路の出口に気づかれるようなことがあってはならないと思い直し、この先の殆ど使われていない倉庫で会えないかと文にしたためた。もちろん他の者に読まれた時に気づかれないよう、文に添えた詩の中に暗号のように記述を紛れ込ませた。それは一定の間隔で文字を飛ばしながら読めば、別の文章が浮かび上がるようになっている。
(那岐山侯爵が、あの詩に隠した文章に気づいてくれなければ、私のこの行動は全て無駄になってしまう……。いいえ、彼ならきっと気づいてくれるはず)
星影の仄かな灯りすら避けるように進みながら、織瀬は胸の前で祈るように両手を握り合わせた。
織瀬は龍守のことを、それ程深く知っている訳ではない。だが少なくとも彼は大喪の礼での織瀬の挽歌の意味に気付き、また宴の場でも織瀬の返し文に対する更なる返答とも言える歌を詠んでみせた。
(『いずれの枝に依るべきか、惑いし川蝉』……この『川蝉』とは、おそらく私を指している。そして『我に嘉賓有らば』歓迎すると……)
川蝉は翡翠とも書く。頼る者もなく迷っている織瀬を歓迎すると、あの場で人知れず伝えてきたように織瀬には感じられた。
(もちろん全て私の自意識過剰の勘違いで、待てど暮らせど那岐山侯爵は現れない……なんてこともあり得るのだけれど)
しかしここまで来てしまったからには、弱気になっても始まらない。龍守が来なければ、その時はまた別の方法を考えるのみだ。──もっとも、もう余り時間は残されてはいないのだが。
気を取り直して、織瀬は前を向く。普段は宮城の中でしか過ごさない織瀬にとって、外廷は異界と同じだ。菊理や明瑠に聞いた知識の中でしか、外廷の造りは把握していない。
(確か、ここを右に曲がったところに倉庫があるはず……)
そっと周囲を窺いつつ、角を曲がろうとしたその時。
「……全くやってられんよ、急に巡回の回数を増やせだなんて。葛城公は何を警戒しておられるのだか」
急に背後から男の声が聞こえて、織瀬はその場で動きを止めた。
「貴殿もとんだ災難だなあ、豺牙将軍。宴の最中も葛城公の護衛で、ゆっくり寝る間もなくこうして駆り出されて」
「……問題ない。俺はただ命令に従うのみだ」
抑揚の無い声が、すぐ近くで聞こえてくる。夜間で声が通りやすいということを鑑みても、おそらく十丈ほどしか距離は離れていないだろう。
「しかし、こんな時間にうろつく奴なんていないだろう。子から寅の三つ時までは外出禁止だ。城門だって閉じられてる。……禁を破れば鞭打ちだもんなぁ」
背筋に冷や汗が伝うのがわかった。
(なぜよりによって今日、巡回回数を増やすの……!? しかも豺牙将軍だなんて……!)
慌てて周囲を見回すが、咄嗟のことにすぐに頭が回らない。しかしそうしているうちにも、二つの足音がどんどん織瀬の方へと近づいてくる。
(とにかく何処か、身を隠せる場所は──)
「こちらへ。……ご無礼はお許しください」
急に手首を引かれて、織瀬は喉元まで出かかった悲鳴をなんとか押し込める。耳元をくすぐる艶のある声、これは──。
「那岐山侯──」
「お静かに」
すらりとした指先を唇の前に立て、短く龍守は告げる。目立つ金色の髪は外套の被りの下に収められ、紅い瞳も夜の闇のなかでははっきりと認識できない。
「月明かりのない今ならやり過ごせます。足音を立てずに、このままそちらの陰へ」
囁く龍守に、織瀬は無言で頷く。龍守は織瀬の手を離すと、まるでその背後を守るように立ち、織瀬を建物の隙間の隘路へと誘った。
壁に張り付くように身を潜めながら、息を殺す。ざっざっという砂を踏み締める音が近づいてくるにつれて、織瀬の鼓動も速度を増していくように思えた。
やがて見回りの男たちの影が、織瀬たちの隠れている隘路の前を通り過ぎる。足音が次第に遠ざかって行くことに、織瀬は安堵の息を吐こうとしたが、
「待て」
豺牙の低い声が、夜の空気を震わせた。
「先程通り過ぎたところに何かいる。音が聞こえた」
「え? 私は何も聞こえませんでしたがね……」
「いる。戻るぞ」
通り過ぎたはずの足音が、引き返してくる。
(そんな……!)
いつも助けてくれる二人の侍女は、ここにはいない。
(急いでここを抜けて、別の道から始祖神の廟に引き返せば……)
今はその方法しかない。あの抜け道に身を隠すのだ。龍守に通路の存在を知られてしまったとしても、背に腹は替えられない。
織瀬は小さな声で、傍らの龍守に話しかけた。
「侯爵、一緒にこちらの道へ──」
「再びのご無礼、お許しください」
龍守はその言葉を最後まで聞かず、織瀬の手首を掴み、華奢な身体を強引に腕の中に引き寄せた。
「なっ……!」
突然のことに、身体も思考も硬直する。文に焚き染められたものと同じ香の薫りが鼻腔をくすぐるが、今回ばかりはそれに織瀬の心を和らげる効果は微塵もなかった。
脳裏を掠めるのは、前世で安比路保に組み伏せられた時の記憶だ。
(怖い……)
見廻りに見つかってしまうかもしれないことよりも、男性に触れられたという恐怖のほうが、織瀬のなかで上回る。しかしここで声を上げれば、自分の無謀な呼びかけに応じてくれた龍守にも迷惑をかけてしまう。なけなしの理性で恐怖を押し込めたが、身体が震えだすのはどうしようも無かった。
「……翠蓮皇女」
龍守が気遣わしげに声をかける。
「申し訳ございません。危機が去ったらすぐにお放しいたします。しばしのご辛抱を」
「……」
言葉を発することが出来ずに、織瀬は静かに頷く。すると突然足元で、
「にゃあー」
と、愛らしい鈴の転がるような鳴き声が響いた。
(猫……?)
小さな毛糸玉のような黒猫が、悠々とした足取りで、隘路を見廻りたちがいる方向に向かって抜けて行く。
「何だ。猫ですよ、豺牙将軍。野良猫が迷い込んだんでしょうか」
「……」
見廻りの笑い声が聞こえ、織瀬はほっと胸を撫で下ろす。
(良かった……。あとは彼らがここを離れるのを待てば──)
「違う、猫ではない。……人だ。男一人と女一人、猫と人では呼吸が違う」
豺牙の言葉に、織瀬は息を呑む。
(嘘でしょう……!?)
「ちっ……。妙に鼻が──いや、耳の利く奴がいるな」
舌打ちとともに呟くと、龍守は織瀬の顔を隠すように自分の肩口に押し付ける。龍守の鼓動すら聞こえてしまいそうな距離だが、織瀬の耳には壊れそうなほどに早鐘を打つ自身の心臓の音しか聞こえなかった。
「私が何とかいたします。貴女は一言も発さずにいてください」
龍守の囁きに、織瀬は無言で頷く。やがて、
「おい、そこに誰かいるのか?」
見廻りの持つ松明の明かりが、ついに煌々と織瀬と龍守の姿を照らしだした。
「お前は……」
両眼を見開いて絶句する見廻りの男に対して、
「ふっ……これはこれは、秋葉子爵ではありませんか。このような所でかつての上官殿にお会いするとは奇遇ですね。……しかし貴方ほどの方が夜廻りとは、ご苦労なことで」
危機的状況にも関わらず、尊大とも言える口調で笑う龍守に、
(この人、何を考えているの……!?)
一言も発さず、などと言われるまでもなく、織瀬は言葉を失う。
龍守は躊躇いもなく、外套の被りを下ろした。長い金色の髪が、さらりと肩を滑る。
「那岐山龍守……お前、こんな所で何をしている」
「見て分かりませんか? せっかく四年ぶりに帝都に戻ってきたのです。馴染みの女官と久闊を叙そうと思いましてね」
その金髪を認めた途端に男は敵意を剥き出しにするが、龍守は飄々と言葉を返す。
「ふん、そのまま永遠に戻らなければ良かったものを……」
「秋葉子爵はお変わり無さそうで何よりです。……ですが、そうですね。私も思いのほか西部の水が口に合ったもので、そのまま骨を埋めるのも吝かではなかったのですが、どうも中央のほうが放っておいてくれませんでね。橘花国の為に馬車馬のように働けと命じられて、こうして戻って来た次第です」
罵りにも全く動じた様子も見せず、むしろ皮肉を返す龍守に、見廻りの男の額に青筋が浮かぶのが見ずとも分かる。
「那岐山龍守、お前も相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取っておきましょう。……ああ、せっかくお会い出来たのだからひとつご忠告です。今の私は貴方の部下ではない。一応侯爵ですので、もう少しへりくだった言葉を遣っていただくのがよろしいかと。それから私は近衛将軍の位をいただけるとのことなので、これからは私が上官ですね、秋葉子爵?」
「……っ、貴様……!」
(な……!? なぜ火に油を注いでいるのこの人!?)
もう終わった。せっかく生き返ったのに、頼る人間を間違えた。そもそも皇帝になるような男が、浅慮なはずがないと思っていたのだが──。
(ああ、私は人を見る目がないのね……。まさか前世よりも早く、十八歳になる前に全てが終わるなんて……)
絶望感に、肩が震える。
「貴様が上官だと!? ふざけるな! そもそも貴様が葛城家に楯突いたせいで、私まで責任を取らされて……!」
「そのように大声を出さずとも良いでしょう。……可哀想に、彼女が震えていますよ」
労わるように織瀬の背をさする振りをする龍守に、織瀬は今すぐその手を振り払って、
(白々しい、誰のせいだと思っているの!)
そう大声で叫びたかった。
「白々しいことを! 貴様のせいで私は、貴族にも関わらずこんな賤しい仕事を……。いや、そんなことはどうでもよい。夜間外出の禁を破れば鞭打ちだ。かつて貴様が葛城公の気に入りの小姓に鞭打ちをくれた時は、運悪く死んでしまったな……。今回は貴様か、それともそちらの女がそうなるとも限らんぞ……」
下卑た笑いを響かせながら近づいて来る秋葉子爵が、龍守の腕に抱かれた織瀬の顔を覗き込もうとしたその時、
「まあそう怒らないでください。せっかくまた共に働けるのですから、仲良くいたしましょう」
龍守が秋葉子爵の手に、何かを握らせた。
「貴方を別の部署に推薦いたしましょう。失礼ながら、今の職は貴方の器には不釣り合いかと」
「……!」
手の中に押し込まれたものの重みと、龍守の悪魔のような囁きに、秋葉子爵の動きが止まる。
「それは、本当か」
「ええ。何せ私は侯爵で将軍ですから、それくらいの権限はございます」
秋葉子爵は何事かを言い返そうとしたのか、鯉のように数回口を開け閉めしたが、結局龍守に手渡されたものを懐の奥へと押し込んだ。
「……法家きどりの若造が、四年ですっかり染まったようだな」
「正に若さゆえの浅慮でございました。秋葉子爵にもご迷惑をおかけして、ずっと詫びをしなければと思っていたのです。……このたび天よりその機会を与えられ、恐悦の至りです」
唇の端を三日月のように引き上げて笑う龍守に、
「ふん……」
秋葉子爵は何事もなかったように背を向ける。
「豺牙将軍、ただの逢引きのようです。すぐに官舎に戻るよう言い聞かせましたから、問題ないでしょう」
秋葉子爵は隘路の入り口で待つ豺牙に声をかける。この細い道は、大柄な豺牙には入り込むことが困難だったのだろう。
豺牙は獲物を狙う猛獣のような眼差しで、隘路の先にいる織瀬たちを睨みつける。
「夜間外出は法で禁じられているのではなかったか?」
「まあ、建前上はそうですがね。豺牙将軍は都に登られてから日が浅いのでご存じないのも無理はありませんが、官吏と女官の逢引きごときをいちいち取り締まっていたら、刑吏の手がいくらあっても足らんのですよ。……このような瑣末、葛城公に報告したらかえってご気分を害されるでしょうから、あえてお伝えせぬのがよろしいでしょう」
「……そうか」
拍子抜けするほどあっさりと頷くと、豺牙はすでに怪しい男女の存在など忘れたかのように身を翻した。
「次は南の区画を回れば良いのだな」
「はい、そちらが最後の区画です」
二つの足音が遠ざかる。それが完全に聞こえなくなったのを認め、織瀬はほっと息を吐いた。
(良かった、何とか誤魔化せた……)
「全く、急に巡回が増えるなどついておりませんね。翠蓮皇女は禍福を合わせて引き寄せてしまう体質のようだ」
「な……」
暗に織瀬のせいだと言わんばかりの口調に、思わず顔を上げる。
「那岐山侯爵、貴方は一体何を考えているのです。あのように挑発的な言動を取って……!」
「結果的に上手くやり込められたのだから、問題ないでしょう」
「それは結果論です! 私のことには秋葉子爵は気づいていませんでしたが、もし上手くいかなければ貴方が咎めを──」
「おや、私の心配をしてくださったのですか。これはお優しい」
「……」
龍守のおどけたような口調に、織瀬は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
「……秋葉子爵にいくら包んだのですか」
「何のことでしょう」
「とぼけないでください。私のせいでもあるのですから、それは後ほど──」
「翠蓮皇女。近衛将軍内定者が任命前に贈賄で捕縛されるなど、皇家の威光にも傷が付きますよ」
龍守は形良い眉を上げて笑う。
「私に借りを作ったなどとはお考えになりませぬよう。このような時は何も知らない振りをするのが、佳い女というものです」
「……そういうものなのですか」
「ええ。そういうものです」
涼しげな顔の龍守に対し、織瀬はため息を吐く。
「禍福を合わせて引き寄せるだなんて、災難は先ほどの出来事だとしても、福は一体何なのですか」
「それはもちろん、貴女の無謀な呼びかけに那岐山龍守が応じたことです」
「……」
その自信に満ちた答えに、織瀬は返す言葉を失う。
(前世の那岐山侯爵は、もっと冷徹で思慮深い印象だったのだけれど……)
いや、しかしよく考えてみれば、それは死の間際に顔を合わせた時の印象だ。
連合軍の陣中で会った彼は、敵陣の真っ只中に護衛も付けず丸腰で乗り込んできたり、一軍相手に単独で脱出を図ろうとしたり──。
(まさか、こちらが元々の性格なの……? だとしたら、私はとんでもない選択間違いを犯したのでは……)
懊悩する織瀬の心中など知らず、龍守は言う。
「さて、せっかく危機を脱したのに別の見廻りに見つかりでもしたら面倒です。……すぐ近くに、部屋をご用意してあります。そちらへ参りましょう」
ひらりと身を翻したその背に、月光のように輝く金髪が流れる。このままこの男について行って良いのだろうかという不安が一瞬頭をよぎるが、そもそもこれは自分の選択の結果なのだ。
織瀬は意を決して、龍守の背を追った。




