第四章 宴
鏡の前に座る織瀬の髪を明瑠が丁寧に櫛削り、滑らかな肌に菊理が白粉をはたいていく。明瑠が無言で手を差し出すと、すかさず菊理がそこに簪を載せる。普段は言い合いばかりしているけれど、このようなときの二人の連携には惚れ惚れするものがある。
座ったまま先程読んだ『白蓮国記』の内容を思い返しているうちに、身支度はすっかり整っていた。
「姫様、お支度が終わりました。何か気になる点などございますか?」
「いいえ、いつもありがとう。……でも強いて言えば、今日は少し化粧が濃くはないかしら」
「えっ? 皇太后に次からは華やかな化粧で──って言ってたから、お望み通りにしたんですけど。ご不満ですか?」
「……菊理」
織瀬が振り返ると、艶やかな髪を纏め上げた翡翠の簪がしゃらりと優雅な音を立てる。
「貴女もしかして、怒ってる?」
「逆に何で怒ってないと思うんです? 皇太后にあんな風に皮肉を言うなんて姫様らしくないですよ。叩かれた頬の赤みを化粧で消すのだって一苦労なんですからね! ……って言うかまだ頬だから良かったものの、あのまま首でも飛ばされたらどうしようかと……いや、やっぱり頬でも許せないけど……あの女、皇太后でなかったら締め上げてやるのに……!」
今にも泣き出しそうな顔で拳を握り締める菊理の手に、織瀬はそっと自分のそれを重ねた。
「ごめんなさい、菊理。こんなに心配をかけて」
「本当ですよっ! 離れたところに居たあたしでさえこんな気持ちなのに、側に付いていながら皇太后を殴れなかった明瑠は、どんなに悔しかったか……!」
「私はお前と違って、皇太后をどうこうなんて危険なことは考えなかったがな。……ですが姫様、今後はこのようなことはお控えください。何かあってからでは遅いのですから」
「……」
侍女たち二人に諫められても、織瀬はいつものように素直に頷くことが出来なかった。
「……姫様、何で黙ってるんですか。まさかまた何かやらかすつもりじゃ……」
疑いの眼差しを向けてくる菊理に曖昧に笑いかけると、織瀬は化粧道具を片付け始めた明瑠の背中に声をかける。
「ねえ、明瑠。私の気にしすぎかもしれないのだけれど……。葛城公爵が私を見る目、何かおかしくはなかったかしら」
「……っ……!?」
明瑠の肩が、びくりと震える。
「え、何。またあの男、姫様のこといやらしい目つきで見てたの?」
「姫様ですら……お気づきなのですね。最近本当に見境が無くなって来ている……」
「どういうこと? 見境がないって……」
「姫様のお耳汚しになると思って話してなかったんですけど……。あの男──葛城公爵は夜毎見目の良い女官を寝所に連れ込んでは、好き勝手してるんです」
「これは噂ではなく事実です。……無理矢理犯された女官が大勢いて、医局でも酸漿が不足しているなどという、信じがたい話が……」
「なんと酷いことを……!」
織瀬はらしくもなく感情的な声を上げた。前世のあの日──龍守のおかげで未遂に終わったものの、安比路保に襲われた時の悍ましい感覚は未だに織瀬の心を蝕んでいる。
事実上橘花国の最高権力者である葛城乙彦の命令に逆らえる女官など、この宮廷にいるはずがない。心を殺して葛城公爵の凌辱に堪えるしかなかった女たちの恐怖と絶望は、如何ばかりであったろう。
「そのことは、皇太后陛下はご存じなの?」
「もちろん、耳には入っていると思います。しかし……」
「あの女、『私のお兄様が賤しい女なんかに手をつけるわけがないでしょう』なんて言って、全然取り合わないみたいですよ。全く、未だに自分が一番美人だとでも思ってんですかね? 葛城公爵が他の女に手を出すはずがないって、どんだけ頭お花畑なんだか……ってかマジであの兄妹キモい……」
最後はぶつぶつと呟く菊理を横目で見ながら、織瀬は思案する。
「ねえ、明瑠。葛城公爵が私に何かしてくる可能性……あると思う?」
「……無いとは言えません。今のところ、高官や貴族の令嬢も多い上級女官たちの被害は僅かなようですが、皇族とはいえ姫様はその……葛城家に侮られていますから、万一と言う可能性も……。ですが、ご心配には及びません。私と菊理が、命に替えても姫様をお守りいたします」
「そうそう! 宴の時はあたしも傍についてますから、姫様は心配しなくても大丈夫ですよ」
真剣な顔で見つめる明瑠と、にっこり笑いかける菊理に頼もしさを感じながらも、織瀬は思案する。
もし本当に葛城乙彦が邪な思いで織瀬を狙ってくるのなら、その場は回避できたとしても次の対策を考えねばならない。それに宮中での立場上侍女にしか過ぎない明瑠や菊理を盾に使ってしまえば、後に彼女たちがどんな目に遭わされるか分からない──。
「ねえ、菊理。貴女血糊を持っていたわよね?」
「へっ!? まあ、仕事上使うこともあるから持ってますけど……それがどうしたんです?」
「明瑠は演技が得意ね?」
「えっ……まあ、それは……姫様をお守りするために、叩き込まれましたから……」
「優秀な演者が一人いれば、相手役が不味くてもそれなりに見えるものよね。あとは脚本だけれど……宴まであと一刻しか無い中で、どうしましょう……」
「……姫様、何訳の分からないこと言ってるんです?」
「葛城公爵が私に対して妙な気を起こさないように──それから、全てが自分の思い通りになる訳ではないと思い知らせるためにも、一芝居打とうと思うの。これから始まる宴の場でね」
「な……」
ぽかんと呆気に取られる二人に、織瀬は真剣な眼差しで語りかける。
「儀式の前にも言ったけれど……私はもう、葛城家に怯えるのは止めることにしたの。私がそんなことでは、この国は守れない」
織瀬は一度ぐっと唇を噛むと、意を決して再び口を開いた。
「信じがたい話だけれど、聞いてくれるかしら。私は実は──」
そうして織瀬は、自分は前世で一度死んでいること、それにも関わらず目覚めたら過去に戻っていたことを侍女たちに打ち明けた。
但し貴族連合軍の陣中で安比路保に襲われかけたことは、思い出すだけで吐き気に襲われるため、話すことは出来なかった。
そして『白蓮国記』のことは話すべきか迷ったが、あの書物については自分でもまだ考えたいことが残っていたため、一旦胸の内に留めておこうと決めた。
織瀬が前世の出来事を語るのを、明瑠と菊理は呆気に取られたような表情で聞いている。
「姫様、本気で仰っているのですか。一度……死んでいるだなんて……」
「嘘でしょ、そんな……」
「そうよね、信じられないと思うわ。だけど──」
「申し訳ございません!」
織瀬が更に言葉を重ねる前に、二人の侍女は織瀬の足元に平伏した。
「ど……どうしたの、二人とも。信じられなくても当然よ。そんなに謝らなくても……」
慌てて二人を立たせようと織瀬はその傍らに膝を付くが、明瑠も菊理も、首を横に振ってその手を取ろうとはしない。
「いいえ、姫様のお話が信じられない訳ではございません。私たちは……」
「あたしたちは、姫様をお守り出来なかったことを謝っているんです。何があってもお守りすると誓ったのに……申し訳ありません」
「明瑠、菊理……、貴女たちのせいではないの。私が愚かだった、それだけよ。それに……」
そこで織瀬は、一度言葉を切る。なぜ二人が織瀬の死の瞬間に居なかったのか、その理由を当人たちに話すことが憚られたからだ。
(でも……彼女たちなら、きっと隠されるほうが嫌だろう)
そう思い、ひとつ息を吐いてから口を開く。
「貴女たちは、充分過ぎるほど私を守ってくれたの。私を守って、戦場で命を散らしてしまった……。貴女たちが居なければ、私は十八まで生きられなかったわ」
そっと二人の手を握ると、侍女たちはようやく顔を上げた。心なしか、二人の目が潤んでいる。
「ありがとう、明瑠、菊理……。私の話を信じてくれるのね」
「当然です。姫様は嘘などつかれる方ではないと、幼き頃よりお仕えしている我らが一番良く分かっております」
「それに、そういうことなら今朝からの不審な行動の理由もつくし」
「菊理……」
織瀬は少し唇を尖らせる。
「その言い方は酷くないかしら」
「事実なんだから仕方ないじゃないですか。……それで、どうする? 今からあたしが紅蘭宮に忍びこんで、住人の首を一絞めしてくればいい?」
「そうだな、差し当たってそれが最適解か……」
「な……待って、二人とも。どうしてそんな結論になるの」
急に物騒な会話を始めた二人を、織瀬は慌てて遮る。
「戦場以外での人殺しは、法で禁じられているわ。それに皇族を害せば、本人だけでなく九族にも累が及んで……」
「姫様はちょっと黙っててください。こういうのは向いてないでしょ。……それにあたしたちの一族に、みすみす葛城家に捕まるような奴は居ませんよ」
「道理だな。……というか捕まるような奴は、もはや我らの一族ではない」
「そうそう」
「……本当に、少し私の話を聞いてくれるかしら。二人とも……」
織瀬は頭を抱えたいのを堪えながら口を開く。
「まず、紅蘭をどうこうしようなんて考えは捨てて頂戴。今のところ、彼女は私に対して何もしていないし……」
「いつも物凄い目付きで姫様のことを睨んでいるじゃないですか」
「ええ。何かあってからでは遅いのです」
「貴女たちが心配してくれるのはありがたいわ。でもね、紅蘭に関しては本当に何もしなくて良いの」
「ええー……」
不満そうに頬を膨らませる菊理に、織瀬は諭すように語りかける。
「まず、前世で紅蘭が私を毒殺するのは、今から約一年後のことよ。現時点では危険はないわ」
「でも、それは姫様が安比初臣に連れ出されて、宮廷に居なかったからでしょう? それに、姫様の行動が前世と違えば、未来だって変わってくるかもしれないじゃないですか。現に那岐山侯爵から恋文なんて受け取ったことなかったんでしょう?」
「それは貴女の言うとおりよ、菊理。でも現実的に考えて、紅蘭に手を出せると思う? 黄華宮や紅蘭宮の警備は厳重よ。宮の外に出るときだって、常に複数の護衛がついている。……貴女たちの実力を侮っているわけではないわ。でも、実害がないうちに手を出すのは危険すぎるの。お願い、私の気持ちを汲んで頂戴。もう二度と貴女たちを失いたくないの」
「姫様……。分かりましたよ、そこまで仰るなら」
「ありがとう」
渋々ながらも頷く菊理に、織瀬は微笑みかける。
「だけど姫様、ひとつだけ確認させてください。まさか紅蘭皇女と今更仲良くなれるとか思ってませんよね?」
「……思っていないわ。いくら私でもそこまで楽観的にはなれない。一度殺されているのだもの」
「ならいいです。でも向こうが何か仕掛けてきたら、あたしも明瑠も応戦しますよ。それくらいは許可してくれますよね?」
「……ええ。でも、やりすぎは駄目よ」
「分かってます。ね、明瑠」
「ああ」
力強く宜うと、明瑠は織瀬を真っ直ぐに見つめる。
「姫様。我らは宴で何をすれば良いのですか。……姫様の為ならば、どんなことでもいたします」
「ええ、何なりと命じてください。頑張りますから!」
「ありがとう。貴女たち……特に明瑠には、負担をかけてしまうのだけれど……」
そうして織瀬は、先程考えたばかりの計画を二人の侍女に伝えた。
*
楽人たちの奏でる華やかな旋律に乗って、薄布を纏った麗人たちが軽やかに舞う。
とても葬礼の後とは思えない宴の様相に、内心苦々しく思う者が殆どであろう。しかしそれを顔に出す者は、少なくとも高位の貴族たちの中では皆無だった。
胸の内の不快感をうわべの微笑みで隠しながら、ある者はひたすら葛城乙彦を刺激しないように当たり障りのない会話を周囲の者と交わし、またある者は如何にして葛城家に取り入ろうかと、虎視眈々と上座に野心に満ちた眼差しを向けている。
手元の盃に形ばかり口を付けて、織瀬は居心地悪そうにひとつ身じろぎをした。皇族たちの中では、織瀬は最も下位の席になる。
皇帝である佐穂彦が中央に座すのは当然として、本来ならば皇后が座すべきその傍らの席──皇帝の左隣には、生母である皇太后・螺鈿が悠然と腰を下ろしている。だが佐穂彦はまだ皇后を立てていないため、これはまだ許される。
問題なのは、僅かに離れてはいるものの、皇帝の右隣に当然のように葛城乙彦が座していることだ。しかも明らかに官女ではない、婀娜っぽい雰囲気を纏った美女数人を周囲に侍らせて。
その光景を目の当たりにして、幼帝佐穂彦は怯えたように母のほうをちらちらと伺っているが、当の皇太后はといえば、憎悪を激らせた視線をひたすらに乙彦にまとわりつく女たちに向けていて、息子を全く気にかける様子もない。
乙彦の隣に座らされた珀亜は、激しい嫌悪を隠そうともせずに彼を睨み付けている。幼いが故の正義感が危うく感じられて、織瀬は珀亜がこちらへ視線を向けた一瞬に小さくかぶりを振った。
(駄目よ)
声を出さずに、唇だけを動かす。姉の懸念が伝わったのか、珀亜は表情こそ変えぬものの静かに乙彦から視線を外した。
織瀬はひとつ安堵の溜め息を吐く。珀亜と織瀬の席は、皇族たちの並びのそれぞれ端にある。意図的に同腹の姉弟である二人に、離れた席があてがわれているのは明らかだ。
(しかも私の隣は……)
皇太后と織瀬に挟まれた席には、その通り名に相応しい、煌びやかな紅い衣を纏った紅蘭が座している。
佐穂彦とは違い、今にも爆発しそうな母親の癇癪には全く興味はないらしい。酌をしにやって来る貴族たちと談笑し、時折側に侍っている侍女に何事かを囁き、表面的には宴を楽しんでいるように見える。
「……姫様、豊雲公爵がこちらに向かって来ますよ」
菊理の囁きに、織瀬はひとつ頷く。織瀬の手元にあったまだ並々と酒が満たされた盃を、明瑠がさりげなく空のものと取り替える。
やがて背後に二人の武人を従えた青年が、織瀬の前で恭しく頭を垂れた。
「翠蓮皇女殿下にご挨拶申し上げます。豊雲家の青弦と申します」
歳の頃は、二十をいくつか超えたくらいであろうか。柔らかそうな栗色の髪と同じ色をした瞳に、穏やかな微笑みを浮かべている。長身であるが全く威圧感を与えないのは、その身に纏う優しげな雰囲気のせいだろう。
「先帝陛下を失った悲しみもまだ癒えぬ中での、あの素晴らしい舞……感服いたしました。どうか私からの酌を受けてくださいますか」
「ありがとうございます、豊雲公爵。お褒めに預かり光栄です」
花が綻ぶような微笑を唇に湛えながら、織瀬は青弦からの酌を受ける。
(そういえば……『白蓮国記』には、那岐山侯爵は豊雲公爵との戦の最中に没したと書かれていたけれど……)
目の前に立つこの柔和な青年は、なぜ那岐山龍守と戦端を開くに至ったのだろうか。もっとも豊雲家を含め公爵家は、系図を何代か遡れば皇家に行き着くのだから、龍守の即位に対する不満がそのきっかけになったと考えるのが自然だけれど──。
「……翠蓮皇女? どこかお加減でも悪いのですか?」
急に黙り込んでしまった織瀬に、青弦は気遣わしげに声をかける。
その声にはっと面をあげた織瀬は、すぐに元の微笑みを顔に貼り付ける。
「いいえ、お気遣いありがとうございます。このように華やかな場は不慣れなもので、少し気後れしてしまいました。ご無礼をお許しください」
「とんでもございません。儀式の後でお疲れもあるでしょう。どうぞご自愛ください」
「ありがとうございます」
織瀬が軽く会釈をすると、青弦の背後に立つ武人のうち年若と思われる青年が、ひゅうと一つ口笛を吹いた。
「驚いた。皇女ってもっと偉そうな女かと思ってたけど、結構可愛いじゃん」
「え?」
「雷矢! 皇女殿下にそのような物言いは……!」
「無礼者っ! 姫様に向かってなんということを!」
織瀬は目を瞬かせ、青弦は血の気の引いた顔で背後を見やり、菊理は今にも飛びかかりそうな勢いで席を蹴って立ち上がった。
何事かと、周囲の視線のいくつかが織瀬たちに注がれる。
(ここで目立つのは早すぎるわ……)
織瀬はそっと明瑠に目配せをする。明瑠は心得たとばかりに頷くと、雷矢と呼ばれた武人を睨みつける菊理の髪を思い切り引っ張った。
「おい、座れ菊理。姫様が驚かれている」
「痛たたっ! ちょっと放しなさいよ明瑠! あの無礼なデカブツをぶん殴ってやるんだから!」
「いいから座れと言っている。そうしないと、もう片方の髪も引っ張るぞ」
二つに束ねられた菊理の髪を引きながら、明瑠はまるで暴馬を扱うように、彼女を無理矢理席へ座らせた。
「皇女殿下、申し訳ございません。雷矢……これは私の護衛なのですが、酒が入ると少々、その……」
青弦が口をもごもごさせている間に、もう一人の年嵩の武人が織瀬の前に跪く。
「翠蓮皇女殿下。我が弟が無礼を働き申し訳ございません。……こら、雷矢。お前も膝を付いて許しを乞え!」
「ええー何でだよ建日の兄貴。俺はただお姫様が可愛いからそう言っただけで……って、うわっ!?」
建日と呼ばれた武人は一度立ち上がると、雷矢の後頭部を押さえつけて力任せに彼を跪かせた。
「何すんだよ兄貴!」
「いいから謝れ!」
「翠蓮皇女殿下、我が臣下が大変な無礼を……」
青弦まで膝を着こうとするのを、織瀬は慌てて止める。
「豊雲公爵、お止め下さい。そちらのお二人も、どうか顔を上げて下さい」
「しかし、皇女殿下……」
「豊雲公爵。貴方が跪いては、家臣の方々も顔を上げられませんよ。どうかお立ち下さい」
「……ありがとうございます。皇女殿下」
ゆっくりと青弦が立ち上がり、織瀬はほっと胸を撫で下ろす。
「そちらのお二人……、建日殿と雷矢殿と言いましたか。兄弟で仲が良くて羨ましいですね。私は褒めていただいたと受け取りましたから、そのように頭を下げずとも良いのですよ」
「翠蓮皇女殿下……。寛大なお言葉、感謝いたします」
「やっぱり可愛い〜」
「いい加減にしろ、雷矢!」
周囲の目を気にしてか小声で叱責する建日と、それを全く気にせず織瀬に屈託のない笑顔を向ける雷矢を見ながら、織瀬は微笑ましいような気持ちになる。
(豊雲公爵も、変わった護衛を連れているのね)
もっともそれは、織瀬も人の事は言えないが。
鎖に繋がれた獅子のような風情で雷矢を威嚇する菊理と、それを諌める明瑠を見やって織瀬は苦笑する。
やがて深く一礼すると、青弦たちは織瀬の前を辞して行った。
「またね〜お姫様!」
「やめんか雷矢!」
ぶんぶんと勢いよく手を振る雷矢に、織瀬は小さく手を振りかえす。年は織瀬よりも幾つか上に見えるが、振る舞いはまるで子どものようだった。
その傍らで、豊雲公爵が申し訳なさそうに会釈をする。
「……何で天下の公爵家が、あんな躾の悪い熊みたいな男を護衛にしてるのよ。隣の髭の男はまともそうだったけど」
「公爵家とはいえ、豊雲家はあまり金策には頓着しないという話だからな」
「あ、貧乏なの? だからあんなのしか雇えないんだ」
「……菊理、他家の家臣の方をそのように言うのは駄目よ」
「はあーい、姫様」
気のない返事を返す菊理に、織瀬は溜め息を吐く。これが彼女らしさとは言え、これでは悪目立ちして──。
「翠蓮皇女殿下。葛城公爵閣下がお呼びでございますわ」
艶やかな着物を纏った女が、織瀬の前に立った。どれも同じような化粧を施した女たちばかりだから誰とも判別はつかないが、おそらく葛城乙彦の周りに侍っていた者たちのうちの一人だろう。
「……貴女はどなたかしら」
「秋葉子爵家の長女、藤乃と申します」
「そうですか、秋葉藤乃殿。では、葛城公爵にお伝え下さい。……用があるならそちらからいらして下さいと」
にっこりと微笑みながら答える織瀬に、藤乃は目を見開く。藤乃だけでなく、傍らに控える菊理と明瑠も、同じような驚愕の表情を浮かべていた。
「姫様……」
「も……申し訳ございません、良く聞こえませんでしたわ。私は葛城公爵閣下が皇女殿下をお呼びですと申し上げたのですが……」
美しい顔を引き攣らせながら、藤乃は初めと同じ言葉を繰り返す。
織瀬は聞こえよがしに溜め息を吐いた。貴族であるならば、もう少し己の感情を抑制する術を身につけるべきだ。織瀬に対する苛立ちを露わにする藤乃を見て、このような女たちばかりが乙彦の側に侍っているのなら、皇太后が癇癪を起こすのも当然かもしれないと思った。
(でも、彼女……。どことなく皇太后陛下に雰囲気が似ているわ)
愛らしい顔立ち、豊かな表情、やや小柄で女性らしい丸みを帯びた肢体──。これらは皇太后や紅蘭の容姿を彷彿とさせる。もっとも美しさで言えば、皇家の女たちには遠く及ばないが。
「聞こえなかったのならもう一度言いますね。用があるならそちらから来なさいと、葛城公爵にお伝えいただけますか」
「なっ……本気で仰っているのですか。乙彦様が……公爵閣下がお呼びなのですよ?」
「貴女こそ、同じことを何度言わせれば気が済むのですか。……それとも秋葉子爵家では、公爵家が皇族よりも上だと教えているのですか」
「それは……」
藤乃は言葉を詰まらせると、きっと織瀬を睨みつけて無言のまま乙彦の下へと戻って行った。
「ふう……慣れないことをするものではないわね」
僅かに早まる鼓動を抑えつけるように、織瀬は胸に手を当てる。
(でも、本番はここからよ。葛城公爵が上手く挑発に乗ってくれれば良いのだけど……)
思案する織瀬の袖を、菊理が軽く引っ張る。
「ちょっと姫様!」
「なあに、菊理?」
「『なーに?』じゃありませんよっ! あたしたちには法がどうとか賢しらなこと言って止たくせに! 何やってんですか!」
他の者に聞こえないよう抑えた声で囁きながらも、菊理は忿懣を隠す様子もない。明瑠も不安そうな眼差しで、葛城公爵の方を伺っている。
「私が止めたのは、実害がないうちに手を出すことよ。葛城公爵に関してはすでに実害があるでしょう?」
「ですが表面上大人しくしていれば、姫様に今のところ害はありません。刃向かえばそれこそ何をされるか──」
「私に無くとも、害が及んでいる女性たちがいるのでしょう?」
織瀬は一口も口をつけぬまま置いてある盃を見つめながら呟く。かすかに揺れる水面は、まるで織瀬の心を映しているようにも思えるが、今は迷っている時間はない。
「私が何かしたところで、葛城公爵の横暴な振る舞いが治まるわけではないわ。だからこれは私の自己満足なのだけれど、何か一矢くらいは報いたいの。……それに、あの短い時間で頑張って考えた脚本だもの。せっかくだから披露したいと思わない?」
「姫様、もしや……」
「……滅茶苦茶怒ってます?」
「……」
織瀬は無言のまま、視線を葛城乙彦の元へと向けた。
今まさに、藤乃が乙彦の耳元に何事かを囁いている。身振りを交えて大袈裟に語る藤乃は、最後甘えるように乙彦にしなだれかかろうとしたが、乙彦はその肩を乱暴に突き放した。
乙彦の野生的なぎらつきを放つ瞳が、織瀬のそれとかち合う。しかし織瀬は目線を外すことなく、あえて真っ直ぐに乙彦を見つめた。
やがてにやりと唇を歪めた乙彦が立ち上がる。それだけで、周囲の人々に微かな緊張が走る。
酒のせいか僅かにふらついた足取りで、乙彦が歩を進める。
(……来たわね)
織瀬はひとつ深呼吸をして、隣の明瑠に笑いかける。
「明瑠、どうか私を助けてね。貴女の演技にかかっているの」
「かしこまりました」
明瑠は力強く頷くと、普段の凛とした雰囲気を消し、まるで手弱女のような仕草で織瀬の側に寄り添った。
(流石ね)
その切り替えの速さに、織瀬は内心で舌を巻く。
やがて背後に多くの視線と、身の丈八尺を超える一人の大男を従えながら、葛城乙彦が織瀬の目の前に立った。
「ご機嫌よう、翠蓮皇女殿下。宴はお楽しみいただけておりますかな?」
「ご機嫌よう、葛城公爵。私のような日陰の者には、このように華やかな場は眩し過ぎますわ。宴の雰囲気を乱していなければ良いのですが」
「ご自身をそのように仰るなどご謙遜を。……しかし、そうですな。宴の場を乱しているというのは、あながち間違いではありませんな」
そうして乙彦はおもむろに手を伸ばし、織瀬の両鬢からこぼれた髪の一房を、弄ぶように自分の指に絡ませた。
髪に感覚があるわけでもないのに、織瀬の背筋にぞくりと怖気が走る。
「葛城公爵、お戯れはお止め下さい。……私が立場上皇女であるということを差し引いても、夫でもない殿方がそのような振舞いをなさるのは、公爵の品位にも関わりますよ」
「これは手厳しい。私はただ、貴女のその美しさが、この場にいる男たちの心を乱しているとお伝えしたかっただけなのですがな。……先程の豊雲家の従者になさったように、私のことも寛大な御心でお許しいただけませんかな?」
乙彦はまるで値踏みをするように、織瀬の顔や胸、腰の辺りに視線を纏わりつかせる。
雷矢という青年の言動は確かに褒められたものではなかったが、少なくとも断りもなしに他人に触れるような無礼は犯さなかった。
織瀬が無言で後退ると、乙彦の指から織瀬の黒髪が解けた。
「許す許さないの話ではなく……不用意に私に触れないほうが良いですよ。葛城公爵はこの橘花国にとってかけがえのない方なのですから、悪戯にご自身の命を縮めるようなことはなさらぬがよろしいかと思います」
「ほう? 淑やかな翠蓮皇女とは思えぬお言葉ですな。私を脅しているのですか? ……貴女に手を出せば、そちらの獣のような侍女に首を切られてしまいますかな?」
剣呑な目つきで睨みつける菊理をちらりと見やり、乙彦はせせら笑う。
「しかし、いかに私が憎くとも命を狙うのはお止めになったほうがよろしい。私もそれなりに武芸には自信がありますし、後ろに控えているこの男……豺牙は己の身の丈を超える熊でさえ、一撃で仕留める程の豪傑ですからな」
「公爵閣下を脅すなどと……誤解ですよ」
そう言いながら、織瀬は乙彦の背後に立つ男の様子を窺う。
(豺牙将軍……この人が、前世で葛城公爵を裏切って殺した男……)
鋭い目つきをした偉丈夫である。同じくらいの背丈であった豊雲青弦が全く威圧感を与えなかったのに対し、こちらの男からは押し潰されそうなほどの恐怖心を掻き立てられる。
しかし豺牙の無表情からは、目の前の乙彦と織瀬のやり取りに興味があるのかないのか、全く窺い知ることができなかった。
気を取り直して、織瀬は再び口を開く。
「私が触れぬほうが良いと申し上げたのは、純粋に公爵閣下を心配してのことです。何故なら私のこの身体は……毒に冒されているのですから。うかつに触れると、公爵閣下を害してしまうかもしれません」
「……なんですと?」
「幼い頃より様々な『薬草』を摂取していたからでしょうか。私の身体はあらゆる毒や薬が効きづらくなってしまって……」
そこで織瀬は、紅蘭ごしにちらりと皇太后の方を見やる。兄と忌々しい庶出の皇女のやりとりが気になり、躍起になって耳をそばだてていたであろう皇太后は、扇で口元を覆い素知らぬふりで視線を明後日の方へと向けた。
「……それどころか、いつしか私の汗や唾液なども、毒と化してしまったようで……」
「……それは、一体どういう事です?」
怪訝な顔で、乙彦が尋ねる。
「言葉を尽くすよりも、ご覧いただいたほうが早いかと。……明瑠」
「はい、姫様」
「ごめんなさいね、貴女にあまり負担をかけたくはないのだけれど……。貴女なら、私の毒にも慣れているから」
「……姫様にこの命を奪われるなら、本望です」
「ありがとう、明瑠」
そう言って微笑むと、織瀬はおもむろに明瑠の頬に触れる。乙彦以外の多くの視線も、自分たちに集中しているのが肌で感じられる。
(大丈夫。打ち合わせした通りに……)
平静を装いながら、織瀬はその花びらのような唇を、明瑠のそれへと近づけた。
乙彦が目を見張り、厄介事に巻き込まれまいと何食わぬ顔で様子を伺っていた者たちの口からも、どよめきが溢れる。
唇が触れ合いそうになるその瞬間、明瑠の袖がさりげなく周囲の視線を遮った。しかし多くの者の目には、織瀬と明瑠が口づけを交わしたように映ったであろう。
「翠蓮皇女、何を……」
流石の乙彦も織瀬の意図が飲み込めず、困惑したような声を漏らす。しかし織瀬はその疑問に答えずに、沈痛な眼差しで明瑠を見つめた。
「明瑠……ごめんなさい」
「姫様……うっ……!」
織瀬が謝罪の言葉を口にするとほぼ同時に、明瑠が口元を押さえてその場に倒れ込んだ。ひとつ大きな咳をすると、夥しい量の赤黒い血が床に吐き出される。
「これは……」
乙彦がたじろぎ、おそらく紅蘭が発したであろう絹を裂くような悲鳴が響き渡る。
「お姉様!? 何をしているの、自分の侍女に毒を盛るなんて……!」
「毒など盛っていないわ、紅蘭。私はただ彼女に口づけをしただけよ」
「嘘でしょう、そんな……」
ふらふらと明瑠の側へと近づこうとする紅蘭を、菊理が遮る。
「紅蘭皇女、下がってください! ……姫様、今ならまだ間に合います、宮廷医を……!」
「ええ。……そこの貴方、華彰を呼んできてもらえるかしら」
「は……はい!」
壁際に控えていた兵士が、足をもつれさせながら扉を出て行く。
宴の場は、水を打ったように静まり返った。
織瀬は明瑠の側に膝を付き、紅く染まった彼女の口元を、白い手巾で拭う。
「ごめんなさい、明瑠……。もうすぐ華彰が来るから、それまで耐えてちょうだい」
「……」
明瑠は力無く頷くと、織瀬の顔を虚ろな瞳で見つめた。
「姫様……お可哀想に。こんなにもお美しいのに、これでは殿方に愛されることも……」
「……良いのよ、明瑠。私には貴女がいれば良いの……」
やがて幾つかの足音が聞こえ、兵士に連れられた華彰が会場へと飛び込んできた。
「翠蓮皇女殿下、明瑠殿は……」
「手間をかけてごめんなさい、華彰。いつもの薬をお願いできるかしら」
「かしこまりました。……君たち、この侍女を医局へ運んでくれ」
見習い医官たちに両脇を支えられ、明瑠は華彰らとともに会場から消えた。やがて数人の下女たちが、血糊で染まった床を清めるために駆けつける。
(彼女たちには、後で何か心付けを渡さないと……)
そんなことを思いながら、床を拭く下女たちを見ていると、
「……これは驚いた。異国の書に記された『毒姫』が、本当に存在していたとは」
初めの喧騒が幻だったかのように静寂に満ちた宴の席に、滑らかな声音が響く。上等な絹のように艶めいたその声に、織瀬ははっと顔を上げる。
連枝燈の灯りの下で、月光のように輝く長い髪。紅い瞳は、まるで新しい玩具を見つけた子どものような煌めきを持って、織瀬を見つめていた。
(那岐山侯爵……)
一心に床を拭いていた下女の手が止まる。菊理に制止されていた紅蘭の唇からは恍惚の溜め息が漏れ、ちらちらとこちらを窺うばかりだった皇太后も、今では頬をわずかに染めて、龍守から視線を外すことが叶わぬようだった。
それにしても、今まで一体どこに居たのだろう。誰よりも目立つ容姿を持ったその男の存在を、織瀬は全く認識していなかった。
「その金の髪に紅い眼……貴様、那岐山龍守か」
「公爵閣下に名を覚えていただけているとは、光栄ですね」
ぎろりと睨む乙彦の視線にも、その後ろに立つ豺牙の存在にも全く臆した様子も見せず、龍守は優雅に頭を下げる。
「改めまして、那岐山侯爵家の龍守と申します。翠蓮皇女殿下、並びに葛城公爵閣下にご挨拶申し上げます」
一分の隙もない所作に、織瀬は内心で感嘆する。
「長く都を離れておりましたが、この度侯爵位を嗣ぎ皇宮にてお仕えすることとなりました。どうぞお見知り置きください」
龍守は僅かに顔を上げ、織瀬に向かって微笑みかけた。
「ふん、長く都を離れて……か。それは私に対する皮肉か?」
「滅相もございません。あれはひとえに私の若気の至り……こうして都に戻って来たからには、橘花国の為に身を粉にして働く所存でございます」
かすかにひりついた空気を纏った会話が、乙彦と龍守の間で交わされる。
(この二人……以前にも何かあったのかしら……)
龍守が都を離れたのは確か四年前、その時織瀬は十三歳だ。葛城家に怯え、努めて政治に関わろうとはせず、全てにおいて無関心を装っていた頃──そのせいか、彼らの間に何があったのか、全く思い当たらない。
(あの『白蓮国記』を読めば、何か書かれているかしら)
宴が終わったら、たとえ菊理たちに止められようと、何としてもあの書を読まなければならない。しかしその後の計画もあるし、今日中に全てを読み切るのは不可能だろうか──そんなことを織瀬が思案していると、
「……それはさておき、『毒姫』とは一体何だ」
乙彦が龍守に尋ねる。龍守はふっと笑みを浮かべると、
「私も書で目にしたのみではありますが……確か天篤国の話であったな、倶知比古?」
「はい、龍守様」
いつの間にか、龍守の近くに三人の男が控えていた。
倶知比古と呼ばれたのは、織瀬よりも二、三ほど歳上かと思われる、線は細いが実直そうな雰囲気を纏った青年である。
その後ろには織瀬よりも一回りは上と見られる学者然とした男が立ち、理知的な眼差しを龍守へ注いでいる。
そして前世でも一度顔を合わせた、隼人という武人。ただし前世と違って隻腕ではなく、澱んだ瞳もしてはいない。平時では快活な印象を与えるであろう鳶色の瞳は、今は気を揉むような、落ち着かなげな色彩を帯びて、龍守へと向けられていた。
龍守に促され、倶知比古が言葉を紡ぐ。
「天篤国の記に曰く……悪名高い暴君であった馬頓国の王へ、天篤国の姫を妃として送ったところ、王は一年と経たずに崩御した。姫は幼い頃より『毒姫』として、様々な毒を与えられていた。その結果姫の体液は毒と化し、口づけだけで相手の命を奪うことすらできた──と」
「……それは、まことの話なのか」
眉根を寄せて問いかける乙彦に、龍守は肩を竦めてみせる。
「さて、確か二百年ほど前……橘花国の建国とほぼ同時期、しかも異国の記録ですから何とも言えません。ただ、幼い頃病弱で薬漬けであった子どもが、長じてから薬が効きづらくなるという話も聞きますから、全く信憑性がない訳でもない。……薬も毒も、用法が違うだけで似たようなものですからね」
そこで龍守は、ちらりと皇太后を一瞥し、かすかに口角を上げる。
「天篤国の毒姫は、元々他国への刺客として育てられたようですが……。目的は違えど、翠蓮皇女も幼少期から日常的に毒に触れる機会があったのなら、図らずも同じような体質になっていたとしても不思議はありませんね」
皇太后の手から、扇が落ちる。紅蘭はまるで妖でも見るような瞳で織瀬を見つめている。
そして乙彦はと言えば、
(もしかして、信じた……?)
織瀬を見る眼に含まれる感情が、明らかに違う。そこに読み取れるのは、猜疑と恐れ、そして嫌悪。だがその感情の多くは、織瀬を通り越して、その先の席に座る皇太后へと向けられているようにも思われた。だが少なくとも、つい先程まで感じていた好色な眼差しは、影を潜めている。
「ふん、興が醒めた。戻るぞ豺牙」
「……は。公爵閣下」
踵を返す乙彦の後に、豺牙が続く。やがて乙彦が元の席に戻るまでの間を、多くの眼が固唾を呑んで見つめていた。
「さて、少々場が冷えてしまいましたかな」
優美な弧を描く眉を片方だけ上げてみせて、龍守は揶揄うような一瞥を織瀬に投げた。
「……!」
まるで悪戯を見つかった子どものような心境になり、織瀬は眼を泳がせる。
(この人……私の演技に気づいている。あの天篤国の話も……もしかして、助け舟を出してくれたの……?)
確かめて、もしそうなら一言礼を言わなければと思うが、この場でそれは不可能だ。織瀬はそっと周囲の様子を伺う。今ならばまだ、人々の視線は乙彦に集中している。
織瀬はさりげなく、龍守に向かって小さく会釈をした。それに気づいたのか、龍守はかすかに唇を緩める。
「……さて。不才の身ゆえ参席の皆様のお目汚しとなるやもしれませぬが、一差し舞でも披露いたしましょうか」
そう言って、龍守は楽人たちに目配せをする。楽人たちははっと正気に返り、中断していた演奏を再開させた。
静寂を溶かす楽の音が奏でられる中、織瀬と同じくらいの背丈の美しい舞人から飾り刀を借り受けた龍守が、場の中央へと踊り出る。彼は皇帝へ向かって流れるように一礼すると、金の髪と浅紫色の袖を揺らしながら剣を振るう。刃が空気を切り裂く音が響き、龍守の所作のひとつひとつに、人々の視線が吸い寄せられる。
(なんて綺麗なの……)
典麗にして勇壮なその舞は、一瞬にして宴の場を支配する。もはや誰も、織瀬のことも乙彦のことも見てはいない。息をすることさえ忘れる程の専心をもって、この紅い瞳を持った男の一挙一動を見つめていた。
やがて彼の唇から、朗々たる響きが紡がれる。
「龍は天を翔るも尽くる時有り、終には土灰となる……」
刀の切先が、乙彦へと向けられる。
「月明らかなる夜、いずれの枝に依るべきか、惑いし川蝉いずこへ飛ばん……」
紅玉のごとき瞳が、織瀬の翡翠色のそれと重なる。
「我に嘉賓有らば、瑟を鼓し笙を吹かん。ただ君の為故に……」
その詩は、乙彦への挑発であると同時に、織瀬が龍守に対して認めた文への返歌でもあった。
*
「……あの野郎。俺には目立つなとか偉そうな事言っときながら、自分は目立ちまくってんじゃねえかよ」
会場の視線を一身に集め舞う友の姿を見ながら、隼人はうんざりしたように額を押さえた。
「まあ、途中までは大人しくなされていたので、龍守様にしては及第点というところですかな」
「それにしても美しい剣舞ですね。流石は龍守様です」
「……お前ら揃いも揃って龍守に甘すぎんだろ」
鷹比古と倶知比古の返答に、隼人は溜め息を吐く。
「にしても大丈夫かよ、アレ放っといて。舞の所作とはいえ、剣先突きつけたりして……俺には現在進行形で葛城乙彦に喧嘩売ってるように見えるんだが……」
「…………」
「おい、何か言えよ鷹比古! お前が無言だと不安になるだろうが!」
「……龍守様のことです。きっと何か考えがお有りなのだと……そうですよね、先生?」
「そうだな。そう信じたい」
「勘弁してくれよ。一夜明けたら反逆者なんて嫌だからな、俺は!」
人目を憚りながらも忿懣を吐露した隼人は、ちらりと皇族たちの席を見やる。
「……皇太后も第二皇女も龍守に見惚れてやがるけど、第一皇女はなんか深刻な顔してんな。上手く葛城乙彦を騙せたんだから、もっと嬉しそうな顔したっていいのにな」
「騙せた……。毒姫というのは嘘だということですか?」
「はあ? 当たり前だろ倶知比古。毒姫なんて、そんな馬鹿げた話があってたまるか」
「しかし書にも記されていますし……」
「ねぇよ、あるわけねぇだろ! ……ったくここの奴らは、なんでこう迷信深いんだ。ガキの頃に毒なんて日常的に飲まされたら、普通に死ぬに決まってるだろ。何だよ汗や唾が毒になるって。阿呆かそんなの」
やがて旋律に一区切りがつき、皇帝に一礼した龍守が家臣たちの元へと戻って来た。
「見事な舞でございました、龍守様」
「ああ」
倶知比古が差し出した手巾を受け取り、龍守は薄っすらと滲んだ汗を拭う。その仕草ひとつに会場から溜め息のような声が聞こえ、隼人は閉口する。
「相変わらず、この世界の女たちは趣味が悪いぜ。この馬鹿の何処が良いんだか……」
「おい、聞こえているぞ隼人。悪口なら聞こえないところで言え」
「聞こえるように言ってんだよ馬鹿! 目立たねぇようにするって言ってただろ! 何で自分から葛城乙彦に絡みに行くんだよ馬鹿野郎!」
周囲に聞こえぬよう声を潜める分別だけはかろうじて保ちながら、隼人は龍守に食ってかかる。しかし龍守はそんな隼人の剣幕にも涼しい顔で、
「仕方なかろう。翠蓮皇女は、おそらく身の危険を感じて一芝居打ったのだ。ならば皇女が『毒姫』だと信じ込ませねば、後々葛城乙彦に何をされるか分かったものではない」
「だからってお前が行くことねぇだろ! 皇女にだって側付きがいるんだから──」
「危険を犯して俺を頼ってきた女を見捨てるなど、男が廃るではないか」
そこで龍守は、にやりと笑みを浮かべる。
「戯れに出した文に、美しい川蝉が掛かったようだ。この機を逃す手はない。……鷹比古、どこか逢瀬に適当な場所は──」
「すでに手配しております。しかし川蝉は、どうやって鳥籠から抜け出してくるつもりですかな」
「まあ、ここは向こうの縄張りだからな。場所も時間も先方が指定していることだ、何か俺たちの知らぬ方法があるのだろうよ」
そうして龍守は、己に用意されていた席に腰を下ろす。
「さて、面白くなってきた。この選択が吉と出るか凶と出るか、天のみぞ知る……だ」
手酌で酒を煽りながら愉快そうに笑う龍守を見て、
「俺は全っ然楽しくねぇよ……」
と隼人は溜め息を吐いた。




