第三章 未来の記憶
儀式のための白装束から部屋着へと着替えた織瀬は、ひとつ息をついて文机の前に腰を下ろした。陽が落ちた後には穢れ落としの宴が控えているため、ほんの束の間の休息だが、今の織瀬にはただの一時も無駄にできる時間はなかった。
(まずは三日後に起こる貴族たちの反乱──これを何とかしなければ)
考えを纏めるためには、文字に書き出すに限る。織瀬は普段なら滅多に使わない紙を惜しげもなく机に広げ、意識を集中させるためにも丁寧に硯で墨を磨っていく。
(止めることができれば一番良いのだけれど、私ひとりの力では不可能だわ。先程の大喪の礼で、諸侯の葛城公爵への態度を見られればと思ったけれど……さすがに、儀式でそれは無理な話よね)
着物の袂を押さえ、そっと墨に筆先を浸す。
(後はあの挽歌の意味に、誰か気づいてくれれば良いのだけれど……。出来れば橘花国に忠義を持って、尽くしてくれるような方に思いが届けば……)
本来ならば、あの二首目は別の歌を詠むはずだった。それを直前で変えたのは、ちょっとした思いつきに過ぎない。大っぴらに協力を求めることは難しく、しかも葛城家に自分の意図を知られるのは得策ではない──。そんな中で出来るだけ多くの者に自分の意思を伝えるために取った行動が、あの歌だったのだ。
(気づいてもらえるかどうか、これは賭けだわ。……駄目だったときのための、次善の策も考えなければ……)
ぽたぽたと、筆先から墨が落ちる。
織瀬一人で、一体どれだけのことができるだろうか。前世での出来事を考えると気が進まないが、いざとなったら安比将軍に面会を求めて、反乱を思い留まるよう説得するか。いや、反乱とは何のことかと白を切られるのが関の山だろう。それに葛城家と友好的な関係を築いているとは言い難い安比家の者と接触したことが知られれば、後々面倒なことになるかもしれない。たとえ安比将軍が、安比家の嫡子ではなかったとしても……。
「──姫様、姫様ってば! 何ぼうっとしてるんですか! お疲れなら少しお休み下さいって言ったでしょ!」
「おい菊理、姫様が驚かれるだろう! あまり大きな声を出すな!」
「うるさいなー明瑠は! 何度呼んでも返事がないんだから仕方ないでしょ!」
「菊理、明瑠……?」
いつからそこに居たのだろうか。侍女たちの声で、織瀬は思索の海から現実へと意識を引き戻された。
「姫様、申し訳ございません。お声がけしてもお返事がございませんでしたので、心配になって……。勝手ながら、入らせていただきました」
「二人とも、私の方こそ気づかずにごめんなさい。少し考え事をしていたの」
織瀬は静かに、手にしたままだった筆を筆置きへと置く。
「そうだわ、明瑠。お願いしていたものは──」
「姫様、宴が始まるまで少し休んでいてくださいよ。なんか明瑠に大量の書物を頼んでたみたいだけど、こんなの後にしてくださいね」
「菊理の言う通りです、姫様。ご依頼のものはお持ちしましたが、これはまた明日以降に──」
「ありがとう、明瑠。菊理も心配してくれてありがとう。……それはこの机の上に置いてくれるかしら」
点々と黒い水玉模様だけが書かれた紙を端に押しやる織瀬を見つめ、明瑠は渋々といった様子で抱えていた書物を机の上に下ろした。
同時に織瀬は一番上に載っていた紙の束を手に取り、ぱらぱらと紙面をめくっていく。
「……貴族名簿に官人録、それに官吏の経歴書? また珍しいものを……というか、こんなもの読んでどうするんです?」
「少しね。私も皇族だもの、国に関わる方たちのことを改めて知るのも大切なことでしょう?」
「それは、まあそうですけど……」
不可解そうな表情を浮かべる菊理を尻目に、織瀬は文字に眼を走らせて行く。ここに記されている貴族や官吏たちの名前、それに簡単な経歴は、すでに織瀬の頭のなかに入っていることだ。それでも改めて情報を確認する事で、この中に協力を仰げるような人物が見つかるかも知れない。そんな僅かな希望を抱いて、織瀬は文字の森の中を分け入っていく。
旧来の貴族たちの筆頭は、三大公爵家である葛城、安比、豊雲──かつては宗我家を加えて四大公爵家と言われていたが、宗我家は織瀬が生まれる一年ほど前、反逆の罪により族滅となった。だが後にこの罪は誣告によるものであることが明らかになり、政敵に陥れられたのだとまことしやかに囁かれている。
そして水葉帝が女帝だった時代に爵位を賜った、那岐山家をはじめとする新興貴族──。
「あの、姫様。そちらの書物を借りに外廷へ赴いた際、姫様あての文をお預かりしたのですが……」
「私に文?」
織瀬の集中を遮ってしまうことを憚ったのだろう、おずおずといった明瑠の声に織瀬は顔を上げた。
「一体どなたから……」
もしかしたら、あの挽歌に込めた意味が誰かに通じたのだろうか。そんな期待を胸に、織瀬は明瑠に問いかける。
「那岐山家の、龍守様からです」
「……え?」
その名を聞いて、織瀬は手にした書物を取り落としそうになった。
「那岐山侯爵が、なぜ私に……」
呆然と大きな瞳を見開く織瀬の傍らで、腕を組んだ菊理が明瑠を睨みつける。
「那岐山龍守って、女誑しで有名な奴でしょう? なんでそんなのからの文なんて預かってくるのよ明瑠。うちの姫様が誑かされたらどうすんの!」
「それは……。しかし侯爵からの文を突き返すなど、侍女の一存で出来るわけがないだろう」
「それはそうだけど! ああもう、そんな奴からの手紙なんて燃やしてしまいましょう。それから宮の入り口に塩でも撒いて──」
「……読むわ」
「えっ?」
小さく呟く織瀬の声に、二人の侍女は揃って意外そうな声を上げた。
「その文をくれるかしら、明瑠」
「は、はい……」
躊躇いがちに差し出された文を受け取って、しかし織瀬はすぐにはそれを開かず、じっと手元を見つめる。
触れただけで分かる上等な紙。かすかに薫る甘い麝香の香り。一見したところただの恋文のような体裁だが、織瀬の知る那岐山龍守は、軽率にこのような物を送る人物には見えなかった。
(いいえ。それ以前に前世では、那岐山侯爵から文など受け取ったことはなかった。私の行動で、何かが変わって来ている……)
この変化が吉と出るか凶と出るか、それはまだ分からない。だが自分がどう振る舞うかで、未来が変わることが確かめられたのだ。これは織瀬にとって、何よりの希望だった。
織瀬はそっと、龍守からの文を開いた。深みのある甘い香りが立ち上る。その香りは、ある意味前世の仇とも言える人物から届いた文に向き合うという緊張を、幾分か和らげてくれるようでもあった。
「『率爾ながら、翠蓮皇女殿下の歌舞の深遠たる美しさに感銘を受け、文を認めた次第です。那岐山龍守の名を、どうぞ御心にお留め置きください』──」
我知らず感嘆の声を漏らしてしまうほど流麗な筆致で書かれた文章は、一見ただの社交辞令か、皇族と誼を通じたいが故の麗句ともとれる。しかし突然このような文を送って来た龍守の意図を忖りかねて、織瀬はしばし考え込んだ。
「……『煌々たる明星 何れの時にか採るべけむ ただ君の為ゆえに 恋患忘れ難し 我に天の火あらば 君の長手を焼き尽くさん』……」
織瀬が文末に記された詩を小声で口ずさむのを聞き、明瑠と菊理は眉を顰める。
「……この明星とは、姫様のことでしょうか? 明星を、いつになったら手にすることが出来るのかなどと……」
「やっぱり噂通りの不埒な男みたいですね。姫様への恋文にしては上から目線すぎません?」
「これは……恋文、なのかしら?」
菊理の言葉に、織瀬は首を捻る。
「上から目線かはともかくとして、恋文にしては変ではないかしら。『君の長手』……貴女の長い道のりを焼き尽くす、とか……」
そう呟いて、織瀬は再び筆を取った。隅に押しやった紙を引き戻し、一心に文字を綴っていく。
「──明瑠。申し訳ないのだけれど、もう一度外廷へ行って貰えるかしら。この文を那岐山侯爵に届けて欲しいの。……ただしこっそりと、特に葛城家側の者に知られないようにね」
「お返事をなさるのですか? しかし……」
「心配しなくても大丈夫よ。那岐山侯爵からの文は、おそらく恋文などではないわ。……それと菊理。外廷の女官の装束を用意出来るかしら。中級程度の女官のものが良いわね。出来れば今宵の宴が終わるまでに」
「ちょっ……、姫様! そのくらいお安い御用ですけど、一体何に使うつもりなんですか?」
「私が外廷に出るのに、いつもの着物だと誰かに見咎められた時大変でしょう? それから念のため、警備の巡回時刻も調べておいてくれるかしら」
「外廷に出るって……。姫様、何度も言うようですが今朝からおかしいですよ。いつもの控えめでお淑やかな姫様は何処へ行っちゃったんです?」
菊理の隣で、明瑠も力強く頷いている。そんな二人の様子に苦笑しつつも、織瀬は胸に秘めた計画を何としてでも成功させねばと、静かに決意を固める。
「ごめんなさい、二人とも。後できちんと説明するわ。……今は取り敢えず、お願いしたことを果たして貰えるかしら」
「……かしこまりました」
「もう、約束ですよ。ちゃんと説明して下さいねっ!」
不本意ながらも頷いてくれる二人の侍女に、織瀬は心からの笑顔を向ける。
「ありがとう。貴女たちが居てくれて助かるわ」
「……姫様……」
「ああもうっ、そういうところですよ姫様! 変な男の前でその顔しないで下さいね、誤解されますから!」
何故か放心したような顔をした明瑠を半ば引き摺るようにして、菊理は部屋を出て行った。
急に静かになった空間の中で、織瀬は再び明瑠が取り寄せてくれた書物を手に取る。そこでふと、聞いたことのない書名の記された表紙が目に留まり、眼を瞬かせた。
「『白蓮国記』……?」
国記というからには歴史書に違いない。しかし白蓮国などという国名を、織瀬は聞いたことがなかった。もしかしたらこの大陸の国名ではないのかも知れないが、なぜこのような書がここにあるのだろうか。
(何冊か書物を頼んだから、明瑠か書庫の官人が間違えて入れてしまったのね)
他の書物と一緒に後で返却すれば良いだろうと思いながら、初めて見る書名に心惹かれて、織瀬は軽い気持ちで表紙をめくった。
しかし冒頭の数行を読み進んだところで、見覚えのある人物の名が記されていることに気づき、全身の肌が粟立つような感覚を覚えた。
「『武帝は大尉の子、姓を那岐山、名を龍守と曰う。祖父の時に水葉帝より伯爵位を賜り、父の時に高徳帝より侯爵位を得る。幼にして聡明、長じて機知権謀に富めど、放蕩を好み、世に悪童と称される。……高徳帝の時、文官試にて甲、武官試にて乙の位を得る。齢十九にして帝都北部尉となり、二十一にして陶州蒼県の尉となる。……二十三にして桂州の牧となり、民を暴虐する県令を免じ、淫祠悉く打ち壊し、邪教を禁ず。その地を治めること古の聖王の技に似たり。民は富み、黄昏には歌舞音曲が響く。……二十五にして家督を嗣ぎ帝都へ還る。桂州の民の涙は桂河の嵩を越えり。少帝より近衛軍の杖を賜る。……』」
書物に触れている指先が、小刻みに震える。
なぜ聞いたこともない国の歴史書に、那岐山龍守の経歴が記されているのだろう。
(この経歴そのものは、官人録などにも記されている、私にとっては既知の事だけれど……)
文官採用試験で首席、武官採用試験で次席という、これだけでもおそらく後世に名を残すであろうと多くの者に言わしめた輝かしい成績。首席合格した文官を蹴って、あえて武官としての道を選んだ酔狂人。そして武官にも関わらず、多くの文官たちよりも優れた統治能力を発揮し、数多の名声と嫉視に晒されながら目覚ましい速度で出世の階段を駆け登っている──。
(だけど、重要なのはそこではない。この書物は、那岐山侯爵を『武帝』と呼んでいる……)
『武帝』とは、多くの王朝においてその初代王に冠される諡号である。
(つまりこれは……那岐山侯爵が皇帝となった後の記録……!?)
胸の動悸が早くなり、織瀬は思わず着物の襟元を掴んだ。前世の記録が──いや、この場合はこれから訪れるであろう未来の記録と言った方が正しいのだろうか──いま織瀬の手元にある。その不可解さを悩んでいる時間はない。そもそも織瀬自身が、理由も分からないままこうして過去に戻って来ているのだ。書物のひとつやふたつが別の時間軸から来たところで、何の驚くことがあろうか。
(この書はある意味予言書だわ。これを読めば、橘花国の滅亡を食い止める方法が見つかるかも知れない)
織瀬は一心に、書に目を走らせる。
同じ時代を生きていたはずなのに、前世では知り得なかった様々な出来事が、そこには記録されていた。
前世ではこの三日後、安比公爵を筆頭とする反葛城家を掲げる貴族たちが反乱を起こす。──これ自体はもちろん織瀬も知っている。
織瀬の幼馴染でもある安比将軍──安比初臣は、この安比公爵・路保の庶兄である。しかし安比初臣と那岐山龍守は旧知の仲であること、そして安比将軍は初め那岐山侯爵を反乱に加えようとしたが、素気無く断られたということは初耳であった。
「『武帝は仰った。国を安んずるには、ただひとつの害を除けばこと足りる。なぜ徒に乱を起こし、無辜の官人たちを巻き込もうとするのか。安比将軍は言った。今宮廷に侍っているのは、全て葛城家に諂う者たちだ。お前は無辜の者たちというが、葛城家を増長させる者たちを殺したところで、何の問題があろうか。武帝は仰った。逆らえば自身も殺されるであろうに、諂う以外のことができようか』──」
(これが本当に……那岐山侯爵が言ったことなの……? だってあの人は陶州で多くの民を……)
その出来事を思い返しただけで、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。信じられない思いで、書物をめくっていく。
(この反乱の最中、私は安比将軍に連れ出され、反葛城家の旗印の役目を担うことになる。その後反葛城連合軍は帝都を攻め、葛城乙彦を追い詰めるものの、乙彦は帝都を捨てて私以外の皇族とともに旧都である桜華へと敗走する……。ここまでは私も知っている事だけれど……)
「『行軍の最中、少帝崩ず。齢十四』……」
その記述に、織瀬は唇を噛む。前世では今上帝・佐穂彦は戦場にて行方知れずとなり、珀亜が暫定的に帝位に就いたと聞かされていたが、やはりこの時に崩御していたのだ。その死が戦に依るものか、それとも別の原因があったのか、この文章のみでは読み取れないけれど──。
「『葛城公は、豺牙将軍によって弑逆される。時に武帝は南陽帝を守り、反乱軍と対峙する。寡兵なれど計略を用い、悉く勝利を収める』──」
戦況が不利になったことで葛城家中で内紛が起こり、最側近と言われていた豺牙将軍が乙彦を殺害した。その知らせは前世の織瀬にとって青天の霹靂であったが、ともかくこれで戦が終わる──そう胸を撫で下ろしたのだが。
(皇帝が行方知れずとなり、葛城公爵が死に……。そこで安比公爵は、胸に秘めていた野望を隠す事を止めた。安比将軍が止めるのも聞かず新皇帝を名乗り、私を妻とすると宣言した。那岐山侯爵自ら降伏を勧告するために赴いたのを追い返し、結局は那岐山侯爵率いる軍の前に敗北することとなる……)
そして自暴自棄になった安比路保は、あろう事か本営の幕中において織瀬を凌辱しようとした。織瀬は安比将軍・初臣に助けを求めたが、初臣もまた異様な光を宿した瞳で織瀬に手を伸ばして来た──。
(……っ!)
そこまで思い出したところで、身体の震えが止まらなくなった。
まさにその瞬間、龍守が本営に突入してこなければ、きっとあの時織瀬の身も心も壊れてしまっていただろう。龍守の剣が織瀬に覆い被さる男の背を躊躇いもなく斬り裂くのを、何が起こったのか分からぬまま断末魔の声を上げる男──安比路保の表情を、今でもありありと思い出せる。そして欲望にぎらつかせた瞳を一瞬にして恐れへと塗り替えた安比初臣の顔面を、龍守の拳が殴り飛ばしたことも。
「翠蓮皇女。お救いするのが遅れてしまい、申し訳ございません」──路保の返り血を浴びたまま、そう頭を垂れる那岐山龍守は、まさに救世主のように見えた。
だがそれは幻想。結局は龍守も帝位への欲望を抑えきれず、あのような結果になった。
(だけど、本当に……?)
本当に那岐山龍守は帝位を欲していたのだろうか。この書の記述の限りでは、そのようなことは読み取れない。もちろん新王朝の始祖が簒奪者では都合が悪いから、意図的にそのような事実は排除されているとしても不思議は無いけれど。
(それにしても、ここまでの記述ですでに書物の半分以上……。新王朝の歴史書にしては余りに短い)
何の気なしに、織瀬は最後の頁を捲る。そしてそこに書かれた文章に目を見張った。
「『武帝、豊雲公との戦の最中、俄かに病を発し崩御す。御年三十。后妃を置かず日嗣となる子女なし。時を置かず諸侯相乱れ、白蓮国滅びぬ』……」
五年と保たずに、新王朝・白蓮国は滅亡した。那岐山龍守のあまりに若過ぎる死によって。──せめて後を継ぐべき皇子か皇女がいれば、話は変わったのかも知れないが。
(それにしても皇帝となったのに后妃を置かなかったなんて、一体なぜ……。それに、あの後紅蘭はどうなったのだろう……)
前世において織瀬が死んだ以上、橘花国の血筋を引く皇女は紅蘭のみとなったはずだ。紅蘭が織瀬を殺したことが露見しそれが問題視された可能性もあるが、宮廷においてそのような事はいくらでも揉み消せると、織瀬は皇太后・螺鈿の所業を見て知っている。
(紅蘭についての記述は……ないわね)
ただ葛城乙彦が桜華へと敗走したときに同行した皇族の一人として名が見えるのみだ。
そして織瀬自身に関する記述といえば──
「『第一皇女、宮城にて薨去す。御年十八。南陽帝の嘆きは絶える事なく、武帝に帝位を譲らんと欲す』──」
毒殺されたことも、それが紅蘭の仕業だということも、全く記載されていなかった。しかし、それはある意味当然のことだ。国の歴史を語るうえで、織瀬が果たした役目など後世に残すほどのものではない。
(とりあえず……この書物に書かれていることを時系列でまとめてみましょう)
織瀬は筆を手にし、時折『白蓮国史』を参照しながらひたすらに紙に文字を書き綴って行く。
・高徳帝の死後、葛城乙彦によって高徳帝に近かった多くの貴族や官人が粛正される。
葛城家に縁のある者たちを要職に就け、自らは新皇帝の勅命と称し摂政の座に就く。
専横に危機感を持った第一皇女(織瀬)は、幼馴染である将軍・安比初臣に相談を持ちかける。
・安比路保、初臣が葛城家へ反乱を起こす。宮城の多くが焼け落ち、官人の死者多数。第一皇女、安比初臣によって宮の外へ連れ出される。
この時那岐山龍守は焼け出された今上帝と南陽皇子を保護し、近衛将軍として反乱の鎮圧を指揮する。その功績により葛城公爵より大司馬の位を打診されるが、これを固辞。
・安比公爵が反葛城連合を結成。豊雲公爵家を始め、多くの貴族がこれに加わる。また第一皇女がこれを支持していると喧伝される。
・反葛城連合軍が帝都を攻めるも、那岐山公爵率いる軍に敗北を重ねる。しかし葛城公爵側に内通者がいた事で、豊雲公爵の軍が帝都に侵入し宮城に迫る。追い詰められた葛城公爵は皇族を連れて旧都・桜華へ逃亡。この行軍の最中、今上帝・佐穂彦崩御。
・桜華にて、葛城公爵が連合軍の旗印である第一皇女暗殺を指示。那岐山侯爵がこれを拒否したことで、近衛将軍の任を解かれる。後任には葛城公爵の側近である豺牙将軍が就任。
・葛城家中で内紛が起こり、豺牙将軍が葛城乙彦を殺害。
安比路保、橘花国の天命は潰えたとして、自らが皇帝となること、第一皇女を皇后とする旨を宣言。
南陽帝が再び那岐山龍守を近衛将軍に任命し、連合軍へ降伏勧告を行うことと第一皇女奪還を指示。
・那岐山龍守の軍の前に安比公爵軍が大敗。降伏勧告に訪れた那岐山侯爵の殺害を図るも失敗。
その後再び那岐山侯爵に戦いを挑むが、自ら本営へ攻め入った那岐山侯爵によって路保は殺害、初臣は捕縛される。
本営にいた第一皇女は、旧都・桜華へと送られる。
(前世での私と那岐山侯爵の関わりは、死の前のやり取りを除けばそれほど多くはない。初めてきちんと話をしたのは、彼が降伏勧告に訪れた時、二度目は思い出したくもない、あの時……)
紙に綴られる文字が震えだしそうになるのを気力で必死に抑えながら、織瀬は努めて初めて那岐山龍守と言葉を交わした前後の出来事を思い返すのだった。
*
あの時、一時の勝利と葛城乙彦の死という僥倖に気を良くした安比路保は、連合軍の将軍たちを呼び集め、自ら皇帝を僭称した。それだけでも気が違ったとしか思えないのに、この場で織瀬を妻とし皇后とする、その旨を桜華にいる『反逆者ども』に伝えよと『勅使』を発した。
(私はそのようなことは認めない、何という不敬かと安比公爵を問い詰めたけれど、彼は薄ら笑いを浮かべるばかり……。そして信頼できると思っていた安比将軍も、嫡男である弟に何も言えず、私と目を合わせることもなく俯くだけで……)
この時点で、豊雲公爵を始めとする多くの貴族が安比家を見限り、続々と軍を離れている。この時ほど、織瀬が自らの愚かさと無力さを痛感したことはなかった。
(兵を半数近くまで減らした連合軍は、それでも何を過信したのか那岐山侯爵に挑み、そして呆気なく敗北した……)
降伏を勧告しに現れた那岐山龍守の颯爽たる姿に、多くの兵士たちが圧倒された。
彼は理路整然と連合軍に勝機が無いことを説き、今ならばまだ葛城家に反乱を起こした功績を考慮し、皇帝を僭称した件は不問に処すという、寛大すぎる南陽帝の御言葉を伝えた。
落ち着いた口調で滔々と語る龍守の紅い瞳は、目前に座す安比路保よりも、その傍らに座らされた織瀬や、背後に立つ初臣に向けられていたように思う。
『那岐山龍守……穢らわしい贅閹の息子が、安比家の嫡子たる私に命ずるだと? お前のような者を用いているというだけで、今上帝が帝位に相応しくないことが分かろうというものだ』
己の努力で手に入れた訳でもないのに、ただ公爵家に生まれたと言うだけで平然と他者を見下す路保の表情は、織瀬がこれまで見たことのあるあらゆるものの中で、最も醜悪であった。
『安比公爵! その言葉は聞き捨てなりません。何ということを──』
『翠蓮皇女。私のことはお気になさらず』
路保の侮辱を聞いても、龍守は表情を変えず、小さく息を吐くのみだった。このような中傷には、きっと慣れきってしまっているのだろう。
『翠蓮皇女』
龍守は穏やかな声音で織瀬に語りかけた。
『貴女はただこの国の未来を憂い、安比家に助力を願い出たのでしょう。その判断の是非はともかくとして、貴女の行動力は賞賛に値します。ですが今となっては、貴女の憂いの原因であった葛城乙彦は死に、貴女の弟君が皇帝となられました。もう、安比家の陣中に留まる理由も……いや、そもそもこの連合軍を保持する理由もないはずです。……どうか、賢明なご判断を』
紅玉のごとき瞳を真っ直ぐに織瀬へと向け、龍守はそう説いた。すかさず路保の拳が、両者の間に置かれた卓へと叩きつけられる。
『勝手なことを! この軍の盟主は私だ! 私を差し置いて──』
『黙れ、安比路保。俺は翠蓮皇女に話しているのだ』
『なっ……貴様ごときが、この私の名を呼び捨てるなど……それに、何だその口の利き方は……!』
『一応公的な会談の場ゆえ自制していたがな。お前が余りにも状況を理解しておらぬようなので、態度を取り繕うのも面倒になってきた。……安比路保、お前はこれだけの不敬をやってのけて、自分が未だに公爵家の当主でいられると思っているのか』
『何だと……』
『安比家は公爵位を剥奪。官職を得ている者も免職となった。……初臣、お前もとっくに橘花国の将軍ではなくなっているのだ。もうこの辺りで矛を納めたらどうだ』
『龍守……私は……』
旧友の視線を受け止められず俯いてしまった初臣に対し、紅い瞳は一瞬哀れむような色彩を帯びたが、龍守はすぐに織瀬へと向き直った。
『翠蓮皇女。皇族として、適切なご判断をなさってください』
『那岐山侯爵。ここまで南陽皇子の──いいえ、陛下のお考えを伝えに来てくださったこと、感謝いたします。私も、もうこの戦は終わらせるべきと考えております』
織瀬はきっぱりとそう言い切った。気のせいかもしれないが、龍守の表情にかすかな笑みのようなものが浮かぶ。
『賢明なご判断です』
『翠蓮皇女、何と言うことを! これまで大義のために、どれだけの兵が血を流したと思っているのですか! ここで軍を散じれば、その者たちの犠牲を無にすることになりますぞ!』
『そう、確かに兵たちは大義のために戦ってくれました。……ですが、真実はどうだったのでしょう。葛城公爵が死んでも戦は続き……なぜそうなったかと言えば、貴方が皇帝を僭称したから』
織瀬は爪が食い込むほど強く、右手で自身の左腕を掴む。
『私が愚かでした。幼馴染である安比将軍なら信頼できると思って、安易にその手を取ってしまった……。安比将軍の背後に貴方がいる事を知っていたのに、その野望の大きさにも気付けず、結局は橘花国を荒廃させる原因を作ってしまった。……私の愚かさのせいで、多くの命が失われたのです』
込み上げる想いを押し留めようと、織瀬はぐっと唇を噛み締める。
『私が安比家に身を寄せなければ、安比公爵の欲望は儚い夢のままで終わっていたでしょう。その欲望に翼を与え野に放ってしまった責任は私にあります。……那岐山侯爵。どうか陛下に、罰は私たち三人のみに留めるよう進言していただけますか。厚かましい願いとは存じておりますが、どうか兵たちには咎めを与えませんよう……』
『かしこまりました。確かに陛下にはそうお伝えいたします』
優雅な仕草で頷く龍守に対し、織瀬は微笑む。
『ありがとうございます。那岐山侯爵』
『認めぬ! なぜ私がこのような賤しい男に命ぜられねばならんのだ! ──お前たち、那岐山龍守を殺してしまえ!』
路保の怒号に応じて、数人の兵士たちが幕中へと駆け込んできた。ある者は剣を抜き、ある者は槍の切先を突きつけて、龍守を取り囲む。
しかし龍守は少しも動じた様子を見せず、やれやれと大仰な仕草でため息を吐いた。
『慣例に従って丸腰で来たのだがな。俺としたことが、馬鹿正直に剣を置いてきたばかりにこのざまだ』
『安比公爵、やめて下さい! 那岐山侯爵を害してはなりません!』
叫ぶ織瀬の声も届かず、兵士たちは龍守に向かって殺到した。目前で始まろうとしている一方的な蹂躙に対し、織瀬は喉元まで出かかった悲鳴を押し殺すように手で口元を覆う。──しかし、その後繰り広げられた演目は、織瀬や路保の予想とは全く正反対の展開を見せた。
真っ先に向かって来た兵の攻撃をひらりと交わすと、すかさずその頸に手刀で一撃を加え剣を奪う。そのまま休むことなく剣を一閃させ、それだけで二人の兵が血飛沫をあげてその場に倒れ込んだ。そしてひとり残った兵が一瞬怯えたように後ずさった隙を見逃さず、その手から武器を叩き落とし鳩尾に拳を叩き込んだ。
戦いというよりも、演舞と言ったほうが相応しい龍守の動きに、織瀬は目を奪われる。
瞬く間に、駆け込んで来た兵士たちは地に倒れ伏し、ただ龍守だけが息ひとつ切らさずその場に佇んでいた。
『急所は外しておるゆえ命を失うことはないと思うが、斬ってしまった二人は早急に手当てしたほうが良いな。必要とあらば我が軍の医官を送るが……どうする、初臣』
『……不要だ。まだこちらにも医術の心得がある者が残っている』
『そうか、ならば良い。……安比路保よ。俺を殺したいのならば、隼人と同等かそれを超える者をけしかけぬと無理だぞ。……まあ、そんな者はそうそう居らぬだろうが』
『おのれ。この、穢らわしい贅閹の……』
『お前は覚えたての悪口を繰り返す子どものように、それしか言わぬのだな。人に罵詈雑言を浴びせるにしても、もっと語彙を増やしたらどうだ』
路保に皮肉を言った龍守は、呆然とする織瀬の方へと歩み寄り、その足下に跪いた。
『翠蓮皇女、陛下からのご命令です。どうか私と共に桜華へとお遷り下さい』
『那岐山侯爵、私は──』
何と返答すべきか躊躇う織瀬の思考を、多くの馬蹄の音が断ち切った。地響きが、幕を揺らす。
『これは、一体……!?』
困惑する織瀬の隣で、路保が高笑いを上げる。
『はははっ! 援軍、援軍だ! これで我らの勝利だ! 那岐山龍守、お前の命運もここまでだ!』
『全く面倒なことを……一体どこからかき集めて来たのやら』
心底うんざりした様子で肩を竦めると、龍守は立ち上がった。
『翠蓮皇女。さすがの私も、貴女を連れて一軍を相手にするのは骨が折れます。また後ほどお迎えにあがりましょう』
『那岐山侯爵、貴方護衛の者は……』
『おりませんよ』
『……え?』
さらりとした龍守の答えに、織瀬は目を見張る。
『一人で来ることが会談の条件だったもので。……それではご機嫌よう、翠蓮皇女』
止める暇さえ与えず、那岐山龍守は兵士から奪った剣を片手に幕中から飛び出していった。
*
(その次に那岐山侯爵と顔を合わせたのは、思い出したくもないあの時……。侯爵に救い出される形となった私は、馬車で桜華へと送られたのだけれど……)
その道中で、那岐山龍守は勤皇の志を持って安比公爵を討ったのではなく、ただ己が帝位に就くという欲望のもとに動いていたに過ぎないと言う話を聞かされる。
織瀬はそれを聞いても、初めは信じなかった。だが何度も聞かされるうちに疑心暗鬼になり、更に龍守自身にその疑問をぶつけても彼がそれを否定しなかったことにより、ますます疑いを募らせて──。
(あの時私に、那岐山侯爵が簒奪を企てているという話を初めに聞かせたのは……誰だったかしら)
懸命に記憶を辿ろうとするけれど、何故かその人物の顔だけ靄がかかったように、全く思い出すことが出来ない。
(でも改めて考えると、前世の私は本当に馬鹿だったわ。……そしてこんな私を守って、明瑠と菊理は命を落とした)
織瀬は決意を込めた瞳で、書物から窓の外へと目を向ける。
(今度は安易な方向に流されたりはしない。自分の道は自分で選ばなければ。そして私を案じてくれる人たちを、決して死なせたりはしない)
織瀬は『白蓮国記』に書かれた内容を記した紙を、そっと燭台へと近づける。鮮やかな橘色をした炎に舐められて、紙は瞬く間に黒い煤へと姿を変えた。




