第一章 翠蓮皇女
久しく味わっていなかった柔らかな布団の感触が心地良い。いつもならそろそろ寝台から起き上がる時刻なのだろうけれど、今日に限ってはこのままもう一度瞼を閉じてしまいたい……。
天蓋の隙間から漏れる優しい朝の光を感じ、織瀬は薄っすらと瞼を開けた。
そんな事を思いながら寝返りを打とうとした時、織瀬は今の状況の不可解さに気づき、がばりと掛け布団を跳ね除けた。
(どういう事……!? 私は、確かにあの時毒を飲んで、死んで……)
そう思った途端、背筋にぞくりと悪寒が走り、織瀬は思わず両手で自身の身体を抱きしめた。
(あれは、夢? ……いいえ、夢などではない。私は確かに……)
その時、織瀬は不意に身体の違和感に気がついた。
(髪が、長い……)
それに、両腕の肌も抜けるように白い。
一体これはどういうことだろう。一年近くもの間、安比公爵率いる貴族連合軍と行動を共にしたことで、肌は焼け、まともな手入れも出来ないなかでは邪魔にしかならない髪も、胸の辺りでばっさりと切ってしまったはずなのに。
更に奇妙なのは、今自身がいる場所だった。織瀬は遅ればせながら、部屋のなかに視線を巡らせる。
大人二人が寝てもまだ余裕がありそうな、広い寝台。その周りを覆う天蓋を開けると、広々とした室内の様子が目に飛び込んでくる。壁の二方を占める書棚には、竹簡や各地から集めた書籍が整然と収められている。皇女の居室としては地味な印象を与える部屋の中で、壁際に設えられた大きな姿見だけが、きらきらと華やかな光を放っていた。
織瀬は裸足のまま寝台を下りると、恐る恐る鏡へと近づいた。
(間違いない。ここは、後宮の翠蓮宮……私の部屋だわ)
もう二度と、足を踏み入れることは叶わぬはずだった場所。そして、鏡の中に映っていた自分の姿は──。
(ここに映っているのは……以前の私……!?)
ぐらりと視界が揺らぎ、織瀬は思わず鏡に片手を付いて自分の体を支えた。
この姿見は、まだ父帝が健在だった頃、西方の使節団から献上されたものだ。わざわざ皇后と、二人の皇女へと指定されての献上品だった。そうでなければ、このように高価な品を織瀬が受け取ることを、皇后は決して許さなかっただろう。
もっとも織瀬が宮廷を出るきっかけとなった騒乱の最中で、この鏡は翠蓮宮もろとも焼けてしまった筈だ。
(そうすると、この鏡も翠蓮宮も無事ということは……今の私は十七歳で……皇宮を出る前……)
すでに亡国の足音は聞こえているけれど、まだ踏み止まるだけの僅かな望みは残されていた時。そして織瀬にとっては、まだ全てが始まる前の時──。
「──姫様? 何やら物音がしましたが……お目覚めでいらっしゃいますか?」
(この声は……!)
もう聞くことは出来ないと思っていた声を耳にして、織瀬は弾かれたように扉に目を向けた。
「姫様? ご無礼ながら、失礼いたします」
ゆっくりと扉が開かれる。そこに立っていた自分と同じくらいの背丈の侍女の姿を認め、織瀬は視界がじわりと滲むのを感じた。
「明瑠……」
「姫様!? 如何なされたのです!?」
翡翠色の瞳から、真珠のような雫がひとつこぼれ落ちた。それを認めて、明瑠と呼ばれた侍女は慌てて織瀬の元へと駆け寄る。
「明瑠、明瑠……。ああ、本当に貴女なのね……」
「姫様……?」
ひたすらに自分の名を呼ぶ主の姿に、明瑠は困惑したような表情を浮かべる。
「姫様。何か悪い夢でも──」
「ちょっと明瑠ー? 姫様のお部屋で、何大声出してるのよー?」
礼儀正しく落ち着いた明瑠とは対照的な、ともすれば不作法な印象を与えかねない、しかしどこか憎めない快活な声。
「菊理……!」
「ちょっ……、何これ!? 何で姫様泣いてんの!? どういうことよ、明瑠!」
「わ、私は何もしていない! それはそうと菊理、姫様の前でそのような口調はやめろといつも言っているだろう!」
「うるさいなーもう。そんなことより、今は姫様でしょ! 姫様、どうしたんですか。何か悲しいことでもあったんですか?」
すらりと長身の明瑠と、小柄で愛らしい菊理という容姿も対照的な二人の侍女が、揃って心配そうな顔つきで織瀬の様子を伺っている。
(ああ、懐かしい……この感じ……)
そう思うと、また自然と瞳から涙が滑り落ちた。二人とも、戦乱の中で織瀬を守って命を落とした。もう決して会うことは叶わないはずだったのに、何という奇跡だろう。
「明瑠、菊理……。本当に、本当に貴女たちなのね……」
「姫様、どうしたんです? やだ、全然泣き止まない……どうしよう明瑠……!」
「わ、私だって姫様が泣かれるお姿なんて初めてで、どうしたら良いか……!」
「姫様、何だか分からないけど、あたしはここに居ますよ! ずっと姫様の側に居ますから!」
「わ、私もです! 姫様、ずっとお側でお仕えいたしますから!」
おろおろと、とにかく織瀬を慰めようとする二人の姿を見て、自然と唇が緩んだ。
「明瑠、菊理……驚かせてごめんなさい。貴女たちにまた会えたのが嬉しくて……」
「また会えたって……おかしな姫様。昨晩だってお会いしたじゃないですか。あたしたちがお休みなさいませって言ったの、忘れちゃったんですか?」
「そう……そうよね。ごめんなさい……」
「菊理! お前、姫様を責めるなど何様のつもりだ!? ああ、姫様……きっとお疲れなのでしょう。本日は一日、宮でお休みになられては……」
「いや、普通に駄目でしょ。今日の儀式を姫様が欠席する訳にいかないでしょ……っていうか、あたし別に姫様のこと責めてないし。勝手なこと言わないでよね、明瑠!」
「ふふっ……」
眦に滲んだ涙を拭いながら、織瀬は笑った。そこでふと、菊理が口にした儀式という言葉に引っかかりを覚える。
「菊理。今日の儀式って、何だったかしら?」
「……姫様、本当にどうしちゃったんです? 今日は、お父上を……先帝陛下を殯宮から陵墓へお遷しする日じゃないですか」
「え……っ!」
織瀬は大きな瞳を見開いて、菊理を見返した。
「本当に!? そうすると、今日は……朱鳥二年の六月二七日なのね!?」
「え、ええ……そうですけど……」
織瀬の剣幕に押されて少し後退った菊理は、助けを求めるように明瑠を見やる。
「姫様……あの、本当にご体調が優れないのでしたら……」
「いいえ、大丈夫よ。二人とも、心配してくれてありがとう。……これで、とにかく状況は分かったわ」
「は……?」
「え、何。こっちは全く何が何だか分かんないんだけど」
「今日は、お父様の大喪の礼が行われる日なのね? ならば、早く支度をしなければ。朝餉の前に禊をするわ」
「は、はい。準備は整っておりますが……」
戸惑ったような視線を菊理と交わし合いながら、明瑠が答える。
「ありがとう。貴女たちは先に朝餉を済ませておくといいわ。禊が終わったら、支度を手伝ってくれるかしら」
「は、はい……。それはもちろん……」
「わかりました……」
困惑する二人に微笑みかけると、織瀬は居室の扉を開け、ひとり翠蓮宮の回廊へと足を踏み出した。
*
翠蓮宮に隣接する機殿は、始祖神を祀るとともに、巫女の役目を務める皇女が身を清めるための建物である。──こう書くとさぞや立派な殿舎であろうという印象を受けるが、実際にはこじんまりとした祭壇と、ただ水浴びを行うための沐浴場があるだけの建物だ。
だがそれでも、皇女である織瀬にとっては、ひとり心を落ち着けて過ごすことのできる数少ない場所である。
身に纏っていた寝衣の帯を解き、するりと肩から落とす。
沐浴場の水は、皇都の外れにある神泉を生み出しているのと同じ、聖なる清水を汲み出したものだ。その凛とした水面に、そっと足先をつける。広がっていく波紋は、そのまま織瀬の戸惑いを表しているようだったが、裸身をすっかり神水に沈め、しばし瞑目しているうちに、その揺らぎもすっかり収まった。
やがて長い睫毛を上げて、織瀬は今の状況を整理しようと試みる。
まず今の自分はほぼ一年前に戻っていること。なぜ一度死んだ筈が黄泉がえったのかという疑問は、この際脇に置いておく。
重要なのは、この後なにが起こるのか織瀬はある程度分かっているということだ。
(お父様の本葬の三日後、宮中で反乱が起こる。翠蓮宮を含め、内廷・外廷ともに多くの建物が焼け落ちた。その最中、私は幼馴染の安比将軍に助け出され、宮廷を出ることになる……)
反乱の首謀者は、父帝の皇后──現皇太后の同腹の兄である葛城公爵の専横に不満を抱く貴族たちだ。
織瀬の父である高徳帝の死後、その位を嗣いで第十三代皇帝となったのは皇后腹の皇太子・佐穂彦だったが、当時十三歳と年若であったため、生母である皇太后・螺鈿が摂政となるはずであった。しかし皇太后は政治に対して関心が薄く、結果としてその兄である葛城乙彦が実権を握ることとなった。
この兄妹は、高徳帝の異母姉にあたる第十一代皇帝・水葉帝の夫である前葛城公爵が側室に産ませた子である。子に恵まれなかった水葉上皇は、夫に強く請われ、乙彦と螺鈿を養子としていた。
(それから、真綿で首を絞めるように、父から実権を奪い始めた。宮廷内の要職に葛城家の息のかかった者を据え、後宮では皇后が自分以外の妃を排除し始めた……)
宦官との親密な関係に対し、密通だとの言いがかりをつけられ、実家に帰された妃や女官はまだ恵まれた方だ。
多くの妃嬪が謂れなき罪により貴人の独房である暴室送りとなり、劣悪な環境の下で命を落とした。時には、皇后みずから毒を用いて目障りな妃嬪たちを除いていった。
(そんな皇后に対して、父は何も言えなかった。……いいえ、初めはきっと何とかしようとしていたのだろうけれど、結局は葛城家に押さえつけられ全てを諦めてしまった)
その結果、織瀬の母である巴も暴室で命を失うこととなった。自然に衰弱していくのを待ちきれない皇后によって、毒を盛られて。
織瀬と当時四歳だった弟がここまで生き延びてこれたのは、ひとえに上皇である水葉の比護があったからだ。
水葉は専横を極める兄妹の継母であるが、この子どもたちに対してある種の恐れと嫌悪を覚えているようだった。もちろん側室の子など嫌悪の対象となっても何ら不思議はないが、では恐れていたのは何だったのだろう。その理由を織瀬が問うても水葉は曖昧に笑うだけだった。
しかしその水葉帝も、高徳帝に先立って二年前にすでに常世の国の住人となっている。
つまり父帝の崩御からのこの一年間、なんの後ろ盾もない織瀬が弟とともに宮中で生き残れたのは、僥倖と言うほかないのである。
(だけどいつまでも、幸運に頼ってばかりも居られない。流されるままでいたら、やがてたどり着くのはあの未来なのだから……)
神水から上がり、織瀬は白装束に袖を通す。決意を秘めた瞳で前を見据え、織瀬は機殿の扉を開けた。




