第十八章 緒戦
「……隼人。いいから冷静に俺の話を聴け」
「冷静に聴いても俺は絶対反対だからな! 誰か本陣に残んなきゃなんねぇならお前が残れ!」
幕中に隼人の怒声が響いた。
これまでの龍守と隼人のやりとりを聞き、また隼人が龍守に対して抱く思いを聞いていた織瀬はその怒りももっともだと思ったが、そうでなければ思わず首を竦めるほどの迫力である。
なぜ隼人がこれほどまでに激昂しているのか──。話はほんの少し前に遡る。
隼人に伴われ本陣に戻った織瀬は倶知比古の労いの言葉に迎えられ、やがてそこに情報収集に出ていた鷹比古も合流した。
「これは先程龍守様にも報告してきたばかりの情報ですが」
鷹比古によると、葛城公爵が放った追討軍の指揮官は豺牙将軍。そして当初四千騎と見積もっていた兵力に、更に増援が派遣されたらしい。その増援の多くが、本来ならば龍守が指揮すべきであった近衛軍所属の兵であるとのことだった。
正攻法では勝つことの難しい状況に各々が押し黙る中、冬院家との会談を終えた龍守が本陣へと戻ってきた。そして龍守は開口一番こう言ったのだ。
「戦の先鋒は俺が務める。隼人は本陣で倶知比古とともに織瀬姫を守れ」
──と。ほんの一瞬絶句した隼人はすぐさま拳を強く握り締め、冒頭の怒りを龍守にぶつけることとなった。
鳶色の瞳と紅い双眸が睨み合い、織瀬はもちろんのこと鷹比古や倶知比古も口を挟むことはできない。やがてゆっくりと、言い聞かせるように龍守が隼人に向かって語りかける。
「……俺が本陣に残ることは出来ぬ。もし路保が馬鹿な真似をした時、それを尻拭いできる者を近くに配置しておかねば。──こちら側の面子でそれが出来るのは、俺か鷹比古くらいだ」
「だったら俺と鷹比古で行く!」
「個の武勇で言えば俺とお前にそれほどの差はないが、今回は寄せ集めの軍勢の指揮も取らねばならぬ。お前一騎だけ特出していても意味はないのだ」
「んなことは分かってる。だからお前が出陣すんなら俺も行くっつってんだろ。何で俺を連れてかねぇんだよ! 本陣の守りなら倶知比古と兵が幾人か居りゃ十分だろうが。そもそも敵にここまで抜かれなけりゃ良いだけの話だ!」
「……お前、本気でそれを言っているのならますます俺の代わりに指揮など任せられぬぞ。戦に絶対などないのだ。あらゆる可能性を想定しておかねば、例え目先の戦いに勝てたとしても最も守るべきものを守ることは出来ぬ」
「その理屈で言うなら俺はお前の護衛なんだから、お前の近くに居ねぇと守れねぇだろ!」
「……隼人。今日のお前はいつになく話が通じんな」
龍守は瞑目し、眉間を押さえながら深く息を吐いた。
「お前の言いたいことは分かる。だが守りに多くの兵を割けぬ今、本陣を託せるのはお前しか居らぬ」
「だから、何で俺──」
「お前なら一人でも本陣を──織瀬姫を守れるだろう。……勘違いするなよ、倶知比古。お前を信頼していないわけではない」
視線だけを動かして微笑む龍守に、倶知比古は無言で頷きを返した。龍守は再び隼人を見つめ、説得を続ける。
「だがもし俺たちが緒戦で敗北しここに敵が雪崩れ込んで来た場合、敵兵を相手にしつつ織瀬姫を守れるだけの武を持った者が──お前が必要なのだ。……分かってくれ隼人。お前を信じているからこそ俺は織瀬姫を託すのだ」
「……くそっ、分かったよ」
短髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら、隼人は拗ねたように呟いた。
「……話は纏まりましたかな、龍守様」
やれやれと言いたげな表情を浮かべながら、鷹比古が口を開いた。
「豊雲家はともかく、安比公爵を待たせると後が面倒です。……そろそろ出陣のご準備を」
「ああ」
鷹比古の言葉に応じると、龍守は織瀬のもとへと歩み寄った。
「織瀬姫、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。貴女のご期待には必ず応えてみせましょう。──隼人、倶知比古。織瀬姫を頼んだぞ」
「……おう」
「お任せください」
そのまま踵を返す龍守の背中に、織瀬は声をかける。
「龍守殿。ご武運をお祈りしております」
「ありがとうございます」
軽く口角を上げた龍守の唇には、自信に満ちた笑みが湛えられていた。
*
もうすでに緒戦の幕は上がっているはずだが、本陣の周囲は気味が悪いほどの静けさに満ちている。ただ時折吹き抜けていく生暖かい風や薄墨色の空が、これからの天気の崩れを予想させた。
落ち着かなげに幕中を歩き回る隼人に、地図から顔を上げた倶知比古が咎めるような眼差しを向ける。
「隼人殿。気が散るので少し大人しくしていてくれませんか」
「……」
隼人は一瞬足を止めて倶知比古をちらりと見やったものの、すぐに当てのない逍遥を再開した。
(いつもの隼人殿なら、ここで倶知比古殿との言い合いが始まるところだけれど……。そんな余裕もないほど、龍守殿のことが気がかりなのね)
織瀬は申し訳なさに胸が痛んだ。織瀬が少しでも身を守る術を持っていれば、隼人は今頃龍守とともに戦えていたはずなのだ。
「隼人殿。私のせいで申し訳ありません」
このような謝罪は自己満足に過ぎないと自覚していたが、織瀬はそう口にせずにはいられなかった。
立ち止まった隼人が言葉を発するより先に、倶知比古が深く頭を垂れる。
「織瀬姫様。これは那岐山家家中の問題で、織瀬姫様には何の責任もございません。ですからどうか御心を痛めないでください。……隼人殿」
じとりと睨みつける倶知比古の視線を受けて、隼人が頭を掻く。
「悪りぃ姫さん。あんたのせいじゃねぇんだ。ただ、何だか胸騒ぎがするような気がして……。特にこういう空模様の時、龍守は……」
「確かに天気が崩れそうですけれど、それと龍守殿とどんな関係が──」
織瀬が問いかけた時、不意に響き渡った雷鳴が生暖かい空気を震わせた。同時に遠くから集まって来たざあっと言う雨音が、天幕の周囲を包み込む。
「夕立ですか。急に来ましたね」
倶知比古は地図の一点を指しながら呟く。
「……今頃おそらく、龍守様たちはこの辺りに布陣しているはずです。龍守様たちの軍はいわば囮──小規模な戦いの後すぐに撤退するを繰り返し、敵方の陣形が伸び切ったところを安比家や豊雲家の軍勢が側面から攻撃するという作戦です。この雨で見通しが悪くなれば、むしろこの辺りの地形を熟知している龍守様たちが有利だとは思いますが……」
「心配なのは敵じゃなくてむしろ味方のほうだな。龍守も心配してたけど路保が先走って妙なことしねぇと良いけど……。あの能天気な雷矢って奴のほうがまだ信頼できるな。何か龍守のこと気に入ったみてぇで、作戦を説明してる時もちゃんと聴いてたし──」
そこでふと、隼人が天幕の入り口へ向かって鋭い視線を投げた。同時に腰に差した刀の柄に、素早く手をかける。
「隼人殿?」
「どうされました、隼人殿」
「倶知比古、姫さんのそばに付け。外に誰か居る」
隼人の言葉を受けた倶知比古はすかさず織瀬を庇うように立ち、強張った顔で囁く。
「ここは本陣です。他家の伝令のかたという可能性もありますが」
「だったら普通に声かけるだろ。人数は少なそうだけど、ずっとこっちの様子を窺ってたみてぇだな。……くそっ、俺としたことがすぐに気付かねぇとはな!」
吐き捨てるように叫びながら、隼人は地面を蹴った。そのまま抜刀し、天幕を覆う布越しに刀を突き刺す。刃がぶつかり合う硬く澄んだ音が織瀬の鼓膜を震わせた。
「ちっ、受けやがったか。……こっちも龍守から頼まれてんだ。狙いが姫さんだってなら容赦しねぇぜ」
刀を構え直す隼人だったが、
「──姫? まさか姫様そこに居るの!?」
「その声は……!」
「あっ、おい姫さん!」
隼人の横をすり抜けて、織瀬は穴の開いた天幕の入り口を開け放った。
「姫様……!」
「良かった。無事だったのですね、姫様……」
「菊理、明瑠……貴女たちも、よく無事で……」
黒衣を纏った二人の侍女たちが、織瀬のもとへと駆け寄った。織瀬の眦に涙が滲む。
「那岐山侯爵が挙兵したと聞き、周辺の様子を探っていたのですが……姫様とお会いできて良かった……」
「姫様、大丈夫ですか? あの金髪野郎に変なことされてない?」
「ええ、大丈夫よ……龍守殿も家臣のかたも、とても良くしてくれて……」
完全に肩透かしを食らった隼人は、再会を喜び合う織瀬と侍女たちを見やりながら、抜いたばかりの刃を鞘に納める。
「何だよ、じゃじゃ馬侍女が驚かせやがって。コソコソしてねぇで正面から入ってくりゃ良いのに」
不満気に呟く隼人に、すかさず菊理が反論する。
「周りに厳つい男たちが並んでるのに、そんなこと出来るわけないでしょ! それにどこに姫様がいるかも分かんなかったからひとまず様子を探ってたの! ……あんたこそ、いきなり斬りつけるとか脳筋過ぎんのよ! ま、あれくらいあたしなら余裕で流せるから許してあげるけど!」
「天幕の周囲には龍守様自ら選んだ兵が配置されていたはずですが、彼らに気付かれずに近づくなんて……貴女がたは優秀な忍びなのですね」
倶知比古の称賛に、菊理は胸を反らせ明瑠は深く頭を垂れる。
「そうでしょう? そこの馬鹿男と違って、あんたは見る目あるわね!」
「恐れ入ります。……それと、菊理が騒がしくて申し訳ありません」
「──ったく、また五月蝿ぇ奴が増えたな。でもまあ……優秀な護衛が合流できたんならもう俺はいなくてもいいよな、姫さん?」
隼人は鳶色の瞳を真っ直ぐに織瀬へと向けた。しかし織瀬が口を開くより先に、倶知比古が隼人を窘める。
「何を言い出すのですか隼人殿! 龍守様のご指示を忘れたのですか!」
「俺がここに居なきゃなんねぇのは、姫さんを守る奴が必要だからだろ。だったら姫さんの侍女が来た今、俺はもう不要じゃねぇか。……な? 姫さんもそう思うだろ?」
懇願するような隼人の瞳を、織瀬は無視することは出来なかった。
「──隼人殿。どうか龍守殿のもとへ行ってください」
「織瀬姫様……」
「恩に着るぜ、姫さん。……おい、そこの侍女二人! 俺は行くけど、お前らは死ぬ気で姫さんを守れよ!」
「……なんだと?」
「ちょっとあんた、何を偉そうに! 言われなくたって姫様はあたしと明瑠が守るわよ!」
眦を吊り上げる明瑠と声を荒らげる菊理に一瞥もくれぬまま、隼人は天幕を飛び出して行った。
その後ろ姿を無言のまま見送って、倶知比古が嘆息する。
「全く、隼人殿は……。織瀬姫様も、後で龍守様に小言を言われるのは私なのですからね……」
「申し訳ありません、倶知比古殿。ですが私も龍守殿のことが気がかりで……。隼人殿がそばにいれば安心なのではと……」
「確かにそれはそうなのですが……もうこうなったら、何が何でも龍守様たちが勝ってくださることを祈るしかありませんね。どのみちここで負ければ、再起はかなり難しくなりますし……」
「あの、倶知比古殿と仰いましたか。差し支えなければ今の戦況を教えていただけませんか。実は私たち以外にも皇宮から脱出した者がおりまして……。可能ならこちらにお連れしたく──」
明瑠の問いかけに、倶知比古は地図を示しながら戦の状況と龍守の立てた作戦を伝えた。
*
急に降り出した雨によって、視界は通常の半分ほどに制限されている。しかし龍守にとってこの天候の変化は想定内だ。降りしきる雨によって閉ざされた景色に怯む敵兵たちの様子が、距離はあってもありありと見て取れる。
(天気が崩れる前には決まって頭痛が酷くなるが……ものは考えようだな。ある意味便利だ)
龍守は馬上から戦場を観察する。
泥濘んだ大地に足を取られた敵兵の群れに、雨粒とともに複数の矢羽が降りかかっていく。相手の数は順調に削れているうえに、頭に血が上った敵兵たちが雄叫びを上げながら特出していた。ここまでは作戦通りだ。しかし──。
「安比家の軍が動いた様子がないな、鷹比古」
「は……」
あまりにも想定通りの展開に、龍守と鷹比古はどちらともなく苦笑をもらした。
「俺は路保に心底侮られているらしいな。あれほど礼を尽くしたというのに、全く甲斐がなかった」
「後方を攻める予定の豊雲公爵には、我が軍から百の兵をお貸ししております。そちらが期待通りの働きをしてくだされば、まだ勝機はあるでしょう」
「自尊心の高い無能は厄介だな。ここで俺の策に乗っていれば、勝てば盟主である路保の度量を示すこととなり……例え負けたとしても、俺に責任を被せることが出来ただろうに」
「ええ」
端正な唇で嘲りの言葉を紡ぐ龍守に同意して、鷹比古が頭を垂れる。
「龍守様のご指示通り、冬院家はあえて安比公爵の軍とは離れた場所に配置しております。冬院家の御当主は話の通じるかたでしたから、おそらく作戦通りに動いてくださるでしょう。……あとは私が一部隊をお借りして、安比家の穴を埋めて参ります」
「ああ、頼んだぞ」
「御意」
あらかじめ見繕っていた兵たちを連れて、鷹比古は龍守の視界から消えていった。
「……そろそろ頃合いか。お前たち、ここで一時撤退するぞ」
「はっ!」
龍守の一声に、兵たちは整然と後退を始める。
「なんと逃げ足の速い……!」
「この臆病者めらが!」
敵兵たちが怒声をあげながら追いすがり、遮二無二に射かけられた矢が龍守が騎乗する馬の足元に突き刺さった。
「龍守様、ここは危険です。殿は我らが務めますゆえ、先にお進みください」
「ああ、頼んだぞ」
集まってきた歩兵たちにこの場を任せ、龍守は馬首を翻す。このまま付かず離れずの状態を保ちつつ、敵の陣形が崩れた隙を見極めねばならない。自分が発案した策とはいえ、忍耐力が試される。
(痺れを切らせた敵の大将が姿を見せてくれれば、それを討って終いなのだがな……。そう上手くは行かぬか)
短気を自認する龍守であっても、さすがにそこまで馬鹿な真似はしない。持久戦を覚悟しつつ愛馬を叱咤しようとしたその時、
「那岐山龍守、翠蓮皇女を攫った大罪人め! この俺が叩き殺してくれる!」
雷鳴すら凌ぐほどの大音声が、龍守の足を止めた。
泥濘のなかで喘ぐ兵士たちの身体が、蹄の下で押しつぶされる。一見してその頑健さが分かる引き締まった体つきをした馬の背で、それを乗りこなすに相応しい偉丈夫が鋭い視線を龍守に向けていた。
弓矢の射程にすら入らぬほどの距離があるものの、龍守に殺意を向けるその昏い瞳の持ち主の名は考えずとも分かる。
「豺牙か……。大将自ら出てくるとは、俺以上の馬鹿だな」
にやりと笑う龍守に、歩兵のひとりが不安そうな眼差しを向ける。
「龍守様……」
「そのような目で見るな。いくら俺でもこの状況で出る気はない。もう少し敵を引きつけてからでないとな……。お前たち、敵の挑発に乗るな。このまま作戦通りに──」
兵たちにそう言いかけた龍守だったが、俄かに振り返ると手に持った剣を一閃させた。刃にぶつかった鏃が、勢いよく跳ね返り地面に落ちる。
「た、龍守様……今の矢は……」
「あの男、ただの馬鹿ではないようだ」
紅い瞳を向けた先に、部下から奪ったらしい弓を構えた豺牙がいる。
「これだけの距離があって正確に俺を狙うとは……あと少しでも近くで打たれていたら死んでいたな」
龍守はほんの一瞬眼を細めて豺牙を見たが、すぐにその場を離れようと手綱を握った。
「おのれ那岐山龍守、逃げるのか!」
「そう焦らずとも、あと半刻ほどしたら相手をしてやる」
ふっと口角を上げ馬を走らせる龍守だったが、後方から響いてくる兵士たちの悲鳴に耳を貫かれ、馬足を緩めざるをえなかった。
重々しい馬蹄の音が、だんだんと近づいてくる。
「た、龍守様……お逃げください……」
背から腹へと槍を貫通させた歩兵が、大地に倒れ伏した。
「……」
龍守は無言のまま、背後を振り返る。
「追い着いたぞ、那岐山龍守。さあ翠蓮皇女を返してもらおうか」
「速いな。かなりの距離があったはずだが」
「北方の馬は帝国の 駑馬とは比べものにならん。……さあ那岐山龍守、ここで死ね!」
空気を切り裂く音とともに、刃が龍守に迫る。それを素早くいなしながら龍守は豺牙の戦いぶりを見極める。
(先程の矢といい……力では敵いそうにないな。剛力なうえに隼人と違って狙いも正確だ。但し冷静な判断力に欠けるきらいがある)
ならば多少挑発してみるのも手か。その間に役目を終えた鷹比古たち別動隊も戻って来るだろう。
「悪いがお前に殺されてやるわけにはいかないな。愛しい妻が待っているのだ」
「……妻だと? 貴様、結婚しているのに翠蓮皇女を──」
「おっと勝手に俺を浮気男にしないでもらおう。俺の妻は翠蓮皇女だ」
「なんだと?」
「葛城公爵を引きずり落としたら、翠蓮皇女を妻にしようと思ってな」
「……この下郎めが! 翠蓮皇女は貴様などに渡さぬ!」
激昂した豺牙が長刀を振るった。
「……ッ!」
今度はそれをまともに剣で受けてしまい、龍守は思わずよろめきかける。
(重いな……。正面から受けるのは悪手だ)
「──俺の一撃を受けて落馬せぬとは、その貧相な身体でなかなかやるな」
「お褒めにあずかり光栄だ。……それはそうと、随分と翠蓮皇女に執着するのだな。身の程知らずにも懸想しているのか?」
「……」
「翠蓮皇女は俺の妻になるかただ。悪いが女なら他を当たってくれ」
「……翠蓮皇女の代わりなど、どこにも居らぬ!」
叫び声とともに豺牙の長刀が迫る。
「確かにあれほどの女は他に居らぬが……されど翠蓮皇女の意思を無視してお前に譲るわけにいかんな」
「翠蓮皇女の意思だと……?」
「ああ。翠蓮皇女は俺に惚れている」
自信に満ちた笑みを浮かべ、龍守は口から出まかせを言い放った。案の定、豺牙の形相に凶悪さが増す。
「おのれ……皇女を誑かしおって……!」
「別に誑かしてなどおらぬ。向こうから俺に寄ってきたのだ」
「戯言を抜かすな!」
挑発を繰り返しながら、龍守はじりじりと後退する。豺牙は一騎だけで先走りすぎた。追ってくる味方の兵はいない。完全なる孤立状態だ。
「龍守様、敵軍の分断は成功いたしましたぞ!」
そこに帰還した鷹比古の報告がもたらされた。
「しかし、急いで戻れば何という有様か……。一騎打ちとはまた時代錯誤な」
「俺に言うな鷹比古。こいつが勝手に挑んで来たのだから……なっ!」
豺牙の攻撃を弾き返しながら、龍守は軽口を叩く。
「那岐山龍守、先程から避けてばかり……この臆病者が……!」
「分かっていないな。俺が攻撃に転じれば一瞬で勝負がついてしまうではないか。……しかし鷹比古も戻ってきたことだ。そろそろ本気を出そう」
にやりと唇を歪めると、龍守は一転豺牙に斬りかかった。
「……っ、那岐山龍守、貴様……」
「誰が貧相だって? 己を基準に人を判断するのは感心せぬな」
火花が散るほどの打ち合いに、鷹比古も含め周囲の兵たちはただ見守ることしかできない。──この一騎打ちで戦の勝敗も決する。そう思われたその時だった。
「龍守後ろだ!」
その切迫した叫びに、龍守と豺牙は一瞬動きを止めた。僅かに動かした龍守の紅い瞳に映ったのは、真っ直ぐに飛来する一筋の矢──。
不味い、と身を翻そうとしたのとほぼ同時に、どすりという不快な音が龍守の耳に届いた。
「龍守様!」
鷹比古の叫びが遠くに聞こえる。
龍守は呆然と突き立った矢を見つめた。
「──隼人、なぜここに……」
「はっ……やっぱりお前、俺がいねぇと駄目じゃねぇか。目の前の奴に夢中で背後がお留守だぜ」
「お前、その腕……」
隼人の右腕に深々と突き刺さった矢を見つめ、龍守は絶句する。隼人は何事も無いように笑うと、
「どうってことねぇよ。それよりそのデカブツをぶっ倒すぞ!」
自分の身体から生えた矢を引き抜くと、滴る鮮血にも構わずそれをそのまま弓につがえる。
「テメェ、豺牙っつったな? 覚悟はできてんだろうな」
低い声で告げながら、隼人は弦を引いた。そこから放たれた血染めの矢は、豺牙の横を通り越していく。
「貴様、どこを狙って──」
豺牙が怪訝な表情を浮かべると同時に、背後の草むらから甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「先ずは龍守を狙った奴を始末しねぇとな。さあ、次はお前だ」
冷ややかな笑みを浮かべる隼人に、さすがの豺牙もたじろいだと思われたその時。
「さ、豺牙将軍! どうかお戻りください! 後方から熊のような大男とその兄らしい髭の男が追ってきており……! 味方はもう半数がやられました。更に兵糧を運んでいた兵も攻撃されて……!」
敵の伝令と思われる兵が荒い息の下でそう告げると、力尽きたように地面に倒れ込んだ。
「おらおら、大将はどこだ! この雷矢様が串刺しにしてやるぜ!」
「待て雷矢! 青弦様を置いて単騎駆けとは……!」
「大丈夫だよ。青弦様だって自分ひとりくらい何とかできんだろー! つーか兄貴だって置いて来てんじゃん!」
「それはお前が勝手なことをするから……!」
言い合いをしつつ周りの兵を蹴散らしている武人がニ騎、ものすごい速さでこちらに迫ってくる。伝令の言葉を裏付けるその光景に、豺牙は長刀の柄を折れるほどの強さで握りしめた。
「くそっ、使えぬ者どもめ……!」
忌々しげに吐き捨てると、豺牙は龍守に憎悪に満ちた眼差しを向ける。
「那岐山龍守。次に会った時、その首貰い受ける」
そのまま馬首を返し、豺牙は雷矢たちのいる乱戦のなかに突っ込んで行った。
「おい、待ちやがれ豺牙! テメェは俺、が……」
叫ぶ隼人の語尾が消えかかり、その身体が揺れる。
「あー……やべぇかも、これ……」
「隼人! おい、しっかりしろ!」
「隼人殿!」
落馬しそうになったところを、慌てて駆け寄って来た龍守と鷹比古の腕に支えられる。
「早く、軍医を呼べ!」
「応急処置をいたします。隼人殿、気を確かに!」
「二人揃ってらしくねぇな……。慌てすぎ、だろ……」
だんだんと遠ざかって行くような龍守と鷹比古の声を聞きながら、隼人は意識を手放した。




