序章 前世
──死、というものが、もし人の形をしていたならば、それはきっとこの男のような姿をしているのだろう。
宮廷の一室、窓枠に切り取られた星一つ見えぬ暗闇を見つめながら、他人事のように織瀬は思った。
「ご機嫌よう、翠蓮皇女」
「……那岐山侯爵」
橘花国の皇女としての織瀬の名を呼ぶ男の唇に、笑みが浮かぶ。
その通り名の由来ともなった翡翠色の瞳を、織瀬はゆっくりと男──那岐山侯爵家当主・龍守へと向けた。数多の淑女たちを惑わし、それと同じくらい多くの男たちの嫉妬と羨望の的となったその微笑を向けられても、織瀬の心にはさざ波ひとつ立たなかった。すべてを諦め、ただ終わりの訪れのみを求める心というものは、なんと穏やかに凪いでいるのだろう。
二〇〇年。この大陸に興亡した数多の王朝において、最も長い歴史をもつ橘花国は、今まさに滅亡しようとしていた。
そのこと自体に、さしたる驚きはない。二〇〇年という年月は、国家という大樹を根元から腐らせるには、十分すぎる時間だった。そもそも前王朝の政治の腐敗を正し、度重なる戦乱を収束させるために建国された国家であったはずなのに、その理念は三代目皇帝の崩御とともにまやかしであったことを露呈してしまった。
傀儡として扱いやすい幼帝・愚帝の即位が続き、まれに賢帝と呼ばれるに足る資質を持った者が帝位についても、数年と経たずに毒杯の餌食となった。
やがて宮廷では皇帝をないがしろにする奸臣たちの専横が目立ち始め、あらゆる人事において実力よりも賄賂の多寡が優先された。そんな中央の状況に嫌気がさした官吏たちは続々と地方への転属を願い出たが、任地へ赴いた途端それまでの辛苦を贖わせるように、領民たちへ重税を課した。
汚濁にまみれた政治、各地で頻発する民衆の反乱、仁道よりも武力をもって領地を支配せんとする諸侯、そんな状況を直視することなく空疎な享楽にふける貴族たち──むしろよく二〇〇年も続いたものだ、と今更ながら織瀬は思う。
織瀬の父は、橘花国の第十二代皇帝である高徳帝。母は父帝が遠征の折に現地で見初めた田舎貴族の娘であるため、皇女と言っても皇后腹の妹と違って政治的にさしたる影響力を持ってはいない。だが、そんなことは何の言い訳にもならない。皇女である以上、この国を腐らせた責任の一端が織瀬にもある。せめて崩壊を防ぐために、何らかの手を打たなければ──。
そんな思いでとった行動が、すべて裏目に出てしまった。いったいどこで選択を間違えたのだろう。いや、そもそも国を救いたいなどという願いを持つこと自体が、烏滸がましいということだったのだろうか──。
「夕餉を殆ど召し上がらなかったようですが、お口に合いませんでしたかな?」
白絹のように艶のある声音が、憂悶に沈む織瀬の意識を現実へと引き戻した。
「……このように私を幽閉しておいて、白々しいことを言うのですね」
龍守の言葉を皮肉と解釈した織瀬は、感情のこもらない声でそう応じた。すると何が可笑しいのか、龍守はくっと喉を鳴らす。おそらく彼の目には、織瀬の態度は子供じみた反抗としか映っていないのだろう。それが決して誤解ではないのが悔しくて、織瀬はきっと龍守を睨みつけた。この男の秀でた容姿でさえ、今の織瀬にとっては、ようやく諦めという平穏を得た心に再び腹立たしさを生じさせる要素でしかない。
橘花国ではほとんど見かけることのない金色の長い髪が、燭台の炎の明かりを受けて、まるで満月の光を集めたかのように輝いている。古の神の姿をかたどったと言っても納得できるほど端正な顔立ちと、均整のとれた体つき。しかしそれらの全てを打ち消してしまうほど強烈な印象を与えるのは、優美な弧を描く眉の下で煌めく二つの瞳だった。
──この人ならきっと、私に死という安らぎを与えてくれるだろう。
怒りを覚えながらも、織瀬はこの男にそのような期待をしてしまう。
滴る鮮血のような色をした、二つの瞳。おぞましくも甘美な、抗いがたい魅力を持ったその瞳は、まさに死を彷彿とさせるにふさわしい。
「……私が所望したのは、夕食ではなく、誇り高い死です」
織瀬の言葉に、龍守の作りもののような笑顔がわずかに揺らぐ。
「翠蓮皇女」
龍守が織瀬に向かって一歩を踏み出す。そして織瀬の前に片膝を付き、その深紅の瞳で、まっすぐに織瀬を見つめた。
「私は貴女に死を与えるつもりはありません。翠蓮皇女」
心の奥を見透かされるような視線を受け止めて、織瀬の心の水面にかすかな波紋が起きる。
「……なぜです。私は、貴方が滅ぼそうとしている国の皇女ですよ。歴史を紐解いてみても、前王朝の生き残りなど後の憂いとなるばかりでしょう。生かしておいても、貴方にとってなんの益もないはずです」
「貴女は思い違いをしておられます、翠蓮皇女。私が行おうとしているのは、簒奪ではなく禅譲──貴女の弟君である今上陛下に、あくまで平和的に帝位をお譲りいただこうというものです」
「詭弁を弄さずとも結構です。反逆者なら反逆者らしく、さっさと私を殺せば良いでしょう」
「聡明な翠蓮皇女らしからぬ物言いですね。発言の全てが、感情的に過ぎる」
龍守の指摘に、織瀬ははっと息を吞む。彼の言うとおりだ。この男と会話を交わすまでは全てを諦めていたばずなのに、自分は一体何を向きになっているのだろう。己に対する羞恥と情けなさに、織瀬はぐっと下唇を噛む。
「それに先ほどから聞いていれば。なぜそのように自らの命を軽んじなされるのです」
龍守の指先が、織瀬の唇に触れる。反射的に身を引くが、思いがけず気遣いを感じさせるようなその仕草は、織瀬にとって不可解でしかなかった。
織瀬の唇にほんの一瞬だけ触れた龍守の指先が、僅かに紅く染まっている。それを見て、自分が血の滲むほどきつく唇を嚙みしめていたことに、織瀬は気づく。
「……お願いですから、どうか私を死なせてください。帝位を奪ったら、貴方は私の弟や妹も殺すつもりでしょう。もうこれ以上、私は誰が死ぬところも見たくないのです。生き永らえたとしても、皇女でなくなった私になど何の価値もありません。生きて恥辱を受けるくらいなら──」
「翠蓮皇女」
冷静な声が、織瀬の言葉を遮る。
「翠蓮皇女。先刻申し上げたとおり、私は貴女を殺すつもりはありません。貴女の弟君や妹君──今上陛下や第二皇女についても、都から離れた地にお遷りいただきますが、決して命を奪うような真似はいたしません」
「そのような話、信用できません。陶州で罪のない民たちを虐殺した貴方が、そのように甘いことを──」
「私は罪なきものを殺してなどおりません」
これまで理性的だった龍守の声音に、初めて憤りのような響きが滲む。織瀬は自分が口にしてはならない言葉を発してしまったことに気付いたが、時すでに遅い。深紅の瞳に感情の炎を揺らめかせながら、龍守は再び口を開く。
「ご譲位いただいた後の陛下と第二皇女の処遇については、申し上げた通りです。そして翠蓮皇女、貴女には──」
龍守はゆっくりと立ち上がり、冷たい炎を宿した双眸で、織瀬を見下ろす。
「貴女には、私の妻となっていただく」
「……な……っ!」
予想外の言葉に、織瀬は絶句する。
「貴女は先程歴史の話をなさいました。前王朝の生き残りなど憂いとなるばかりだと──しかしそれは必ずしも正しいとは言えません。この大陸では今まで多くの王朝が生まれ消えていきましたが、橘花国の皇族の中にも滅び去った国の王族の血が流れている。歴史書を紐解けば、新王朝の初代皇帝が自らの手で滅ぼした国の皇女を妻として迎え入れている例を三件ほど見つけることができます。まさに橘花国の初代皇帝がそうであるように」
「ですが、なぜ私なのです。貴女が言っている新王朝に嫁いだ皇女たちは、みな皇后腹──最も高貴な血を引く皇女たちです。だからこそ、新王朝としても手中に置く意味がある。それによって、前王朝に繋がりの深い者たちを取り込むことができるのですから。……申し訳ありませんが、私ではその役目を果たすことはできません。それならば、皇太后陛下の娘である妹のほうが適任だと思いますが」
織瀬は努めて冷静な声でそういった。目の前の男との結婚が嫌だから、妹に押し付けようというわけではない。都の目の届かない辺境では、何が起こったとしても簡単にもみ消せる。実際に、龍守が口にした三例を含め、多くの新王朝において旧王朝の生き残りたちは不審な死を遂げている。──つまり、今は助命すると言っていても、情勢次第でいつ命を奪われてもおかしくないのだ。だがもし龍守が、現橘花国の有力者を取り込むために皇女を妻にと望んでいるのだとしたら、辺境の地に送られるより生き残る確率は高くなるだろう。
「……貴女は、このような状況でもまだ他人の心配をするのですか」
織瀬の思考を見透かしたように、龍守はため息を吐いた。
「第二皇女の母である皇太后陛下は、貴女や同腹の弟である今上陛下、それに貴女の母君に随分と酷い仕打ちをしたようですが……それなのに、妹君の命をご案じなされるのか」
最後は度し難いとでも言うように吐き捨てると、龍守は織瀬に背を向けた。
「陛下には、近日中にご譲位の意思をお示しいただきます。その際に、私と貴女の婚姻についても明らかにさせていただきます。これはもう決定事項です。貴女に拒むことはできません」
「待って下さい、那岐山侯爵──」
慌てて立ち上がる織瀬に構わず、龍守は扉に向かって足を踏み出した。と、龍守の手が引手に触れようとした瞬間、扉の向こうから呼びかけの声が聞こえてきた。
「侯爵閣下。賊軍の現状について、配下より報告がありました。至急お伝えさせていただきたいのですが」
「……隼人か」
なぜか苦虫を嚙み潰したような表情で呟くと、龍守は扉を開ける。
比較的長身の部類に入る龍守よりも、更に五寸ほど上背のある武人の姿がそこにあった。しかし屈強な印象を与える容姿とは裏腹に、その瞳は暗く澱んでいるように見えた。その不釣り合いな印象が、織瀬の心を騒めかせる。そして何よりも目を引いたのは、その男の右肩より先に、あるべきものがないことだった。
隼人と呼ばれた隻腕の武人は、中身のない右袖を揺らしながら、龍守に向かって頭を垂れた。織瀬の存在には全く興味がないのか、一顧だにしない。
「報告を聞こう」
「賊軍の残党たちのほとんどは、盟主の死を知って続々と降伏の意思を示しています。しぶとく抵抗を続けていた豺牙将軍についても捕縛したとの報告があったので、これにて閣下の天下は揺るぎないものとなるでしょう」
「……そうか」
「それから、安比初臣が閉じ込めていた部屋の中で自殺しました」
「……何だと?」
隼人の言葉に龍守は紅い瞳を僅かに見張り、織瀬は驚愕を押し殺すように口元を押さえた。そんな織瀬の様子に隼人は初めて一瞥を投げ、揶揄するように笑う。
「よかったな、皇女様。アンタを手篭めにしようとしたクズがまた一人死んだぜ」
「な……っ!」
「隼人、皇女に対してそのような物言いは慎め」
刃のように鋭い叱責の声を配下に投げると、龍守は先程まで背を向けていた織瀬の方を振り返る。
「翠蓮皇女。私は今の報告を──初臣の様子を確認して参ります。その後またこちらに参りますから、決して軽率な真似はなさいませぬよう」
「……」
虚無に満たされた織瀬の心に、龍守の声は殆ど届いていなかった。──なぜ私は生きているのに、私に関わった人たちは死んでいくのだろう。そんな疑問だけが、頭の中を巡る。
足早に部屋を出て行った龍守が扉の錠を下ろす、冷たい音が響いた。それは死よりも残酷な宣告のように聞こえ、織瀬は力なくその場に頽れた。
*
「隼人、お前はいつから俺のことを閣下などと呼ぶようになった?」
つかつかと回廊を進みながら、龍守は背後に付き従う男に対して怒りを爆発させた。翠蓮皇女の御前では自制していた感情が、一気に溢れ出る。
「……今までのご無礼をお許しください。本来ならば、閣下が侯爵位をお継ぎになった時からそうお呼びすべきで──」
「ふざけるな!」
全てにおいて如才ない平時の様子からは想像もつかない荒々しさで、龍守は振り返りざまに隼人の胸ぐらを掴み上げた。
「お前、俺に対して言いたいことがあるのだろう? 間怠っこしいまねをせず、はっきり言ったらどうだ」
「私のような者が、閣下に対してそのような──」
「一度殴られねば口を割らん気か?」
本気で殴りかかる勢いで、龍守は拳を振り上げた。凄艶を極めた容姿を引き立たせる二つの紅い瞳に激情を滾らせた様は、並みの人間なら肝を潰して逃げ出さざるをえないだろう。
しかし隼人は、そんな龍守を見ても平然としていた。
「殴りたければそうしてください。……ですが全て、閣下が望んだことでしょう」
「何だと?」
「私は閣下の臣下です。これまでの振る舞いは、それに相応しいものではありませんでした。まして閣下は近いうちに皇帝になられ──」
「お前は俺の友だろう!」
龍守の口調の激しさに、隼人の鳶色の瞳が僅かに揺らぐ。
「……皇帝に、友なんていらねえだろ」
必死に取り繕っていた慇懃な口調も忘れ、隼人は絞りだすような声でそう呟いた。それを聞いた龍守は一瞬何かを言いかけたが、すぐに唇を引き結ぶと無言のまま拳を開き、その平手を思い切り隼人の左頬に叩きつけた。一切の防御もせずに攻撃を受け止めて、強健さを誇る隼人も思わず体の均衡を失う。
「お前は第二皇女の監視に戻れ。それと鷹比古に命じて翠蓮皇女に警護をつけろ。扉の前に兵士を立たせるだけでは足りぬ」
床に尻をついたままの隼人を一瞥すると、龍守は回廊の先の暗闇へと姿を消した。
*
「監視じゃなくて、警護、か……」
小声で独りごつと、隼人はひりひりと痛む左頬を押さえた。
「あの野郎……本気で引っ叩きやがって。覚えてろよ」
そのまま、ごろりと回廊に寝転がる。口喧しい人間に見つかれば小言どころでは済まないだろうが、構うものか。今までは気分が晴れない時や心に迷いが生じた時は、ひたすらに刀を振るったものだが、隻腕となった今ではそれも容易なことではない。
冷たい夜風が、ぽっかりと空いた心の隙間を吹き抜けていく。回廊から見える夜空には、地上の人間を照らそうなどという慈悲深い思いを持った星の姿はひとつも見られなかった。
「あーあ、一体どこで間違っちまったんだか……」
そう自問しても、答えは出ない。
*
龍守たちが部屋を出て行ってから、どれだけの時間がたったのだろうか。
床にへたり込んだままだった織瀬は、扉の向こうで幾人かの話し声が聞こえることに気づき、ゆっくりと顔を上げた。声のうちのひとつは、織瀬とそう歳の変わらない若い女のものだ。もしや、という思いで腰を上げようとしたその時、
「お姉様!」
涙まじりの叫びとともに、華やかな着物を纏った少女が部屋のなかに飛びこんで来た。驚きに固まる織瀬の前で、部屋の外に立っている監視役の兵たちが慌てて扉を閉ざす。
二人きりの部屋の中で、少女は織瀬に抱きつくと、織瀬の胸に顔を当ててさめざめと泣き始めた。
「お姉様、お会いしたかったです。私、ずっと心細くて……」
「紅蘭、貴女どうしてここに……」
織瀬は躊躇いがちに少女の震える肩に触れる。少女──織瀬の妹である橘花国第二皇女紅蘭は、母譲りの愛らしい顔を上げ、大きな瞳に涙を滲ませたままにっこりと微笑んだ。
「お姉様に、どうしてもご相談したいことがあって参りました。今まで何度もお姉様に会いたいと頼んでいたのに、聞き届けてもらえなくて……。でも今ちょうど、いつもいる片腕の監視役が不在のようで。代わりに立っていた兵士にお願いしたら、通してくれましたわ」
片腕の監視役とは、先程の隼人と呼ばれていた男のことだろう。しかし彼らがこの部屋を出て行ってからそれなりの時間は経過しているはずだ。もし紅蘭が勝手に部屋を出たことが知られたら、見張りの兵士ともどもどんな目に遭わされるかわからない。
「紅蘭、早く部屋に戻ったほうがいいわ。もしこの事が那岐山侯爵に知れたら──」
「那岐山侯爵!」
その名を聞いた途端、紅蘭は先程までの涙も忘れ、ぱっと顔を喜色に輝かせた。
「ねぇお姉様、聞きましたわ。あの連合軍の将軍たちがお姉様を陵辱しようとした時、那岐山侯爵が助けに入ったのでしょう?」
「……紅蘭、どこでその話を……」
「どこでって、皆話しておりますわ。私の部屋を監視している兵士も、食事を運んで来る侍女も」
「そう、なの……」
織瀬は蘇ってくる忌まわしい記憶を抑え込もうと、ぎゅっと自分の二の腕を掴んだ。それでも、湧き上がってくる恐怖を鎮めることは出来ない。身体全体ががたがたと震え出し、強烈な吐き気に思わず口元を押さえる。
そんな織瀬を見て、紅蘭がかすかに微笑んだように見えたのは、あるいは気のせいだったのだろうか。
「それよりもお姉様、お聞きになりましたか? 私たちが、これからどうなるのか……」
「……ええ。ここに来た那岐山侯爵に聞いたわ」
「え? ……那岐山侯爵が、お姉様の部屋に?」
織瀬の着物の端を掴んでいた紅蘭の指先が、一瞬ぴくりと引き攣れる。
「彼は私たち皇族の命は奪わないと言ったわ。陛下と貴女は辺境の地に送り、私は那岐山侯爵の妻にすると──」
「何ですって?」
突然大声を上げた紅蘭に、織瀬はびくりと肩を跳ねさせる。
「紅蘭?」
「お姉様が、あの方の妻ですって? なんでお姉様が……」
「紅蘭、落ち着いて」
「お姉様、もちろん断ったのでしょう!?」
「え、ええ……。もちろんお断りしたわ」
紅蘭のあまりの剣幕に、織瀬は頷くことしかできない。何故これほどまでに紅蘭が激昂しているのか、その理由にこの時の織瀬は皆目見当もつかなかった。
やがてひとつ息を吸うと、紅蘭は余裕ある笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、お姉様。私が侯爵から聞いた話と違うものですから、取り乱してしまって」
「那岐山侯爵が、貴女のところにも?」
「ええ、つい先程。それで、私慌ててお姉様の元に参りましたの。──那岐山侯爵は言いましたわ。皇帝として即位した後、私を皇后に、お姉様を側妃とすると」
「え……」
「お姉様は、ご自分が侯爵の正室になれると思ったのでしょうが──」
「良かったわ」
穏やかに、まるで春の花が綻ぶように微笑む織瀬に、紅蘭は怪訝な表情を向ける。
「お姉様? 何がそんなに嬉しいのです?」
「これで、貴女が助かる可能性が高くなったわ。皇后にするのなら、そう簡単に害することは出来なくなるはずだもの」
紅蘭は、つい先程侯爵から話を聞いたと言っていた。茫然自失していた織瀬は、龍守が部屋を出て行ってからどれだけの時間が経ったのか正確に分かっていなかったが、きっとあの後龍守は考え直してくれたのだろう。織瀬の言う通り、紅蘭を正室とした方が有益であると。
「……本当に、腹立たしい女ね」
織瀬に聞こえないようなかすかな声で、紅蘭は呟いた。
「紅蘭、それで侯爵は陛下のことについて何か言っていたかしら。辺境の地と言っていたけれど、具体的にどこの地へ──」
「常世の国ですわ。お姉様」
「……え?」
さらりと発せられた紅蘭の言葉に、織瀬は凍りついた。
「お姉様、しっかりと現実をご覧になって。那岐山侯爵が、陛下を生かしておくはずないでしょう?」
「それは……でも、先程あの人は……」
「口では何とでも言えますからね。下手なことを言って、お姉様に自害でもされたら困ると思ったんじゃないかしら?」
「そんな……!」
織瀬は思わず、扉に向かって駆け出そうとした。その手首を掴んで、紅蘭が引き留める。
「お姉様、何をなさるつもり?」
「離して紅蘭! 那岐山侯爵に面会を求めるわ。陛下はまだ一三歳よ、そんな残酷な事……!」
一度は、皇族の命は全て無いものと諦めていた。それが龍守の言葉で、僅かに希望を持てると思っていたのに。──希望の光を見せたところで再び奈落の底に突き落とすなど、なんと非道な事をするのだろうか。それならば、初めから殺してくれれば良かったのに。
唇を噛み締める織瀬に、紅蘭は更に追い討ちをかける。
「どのみち今侯爵に会いに行っても無駄ですわ。だって陛下は──」
そこで紅蘭は少し背伸びをし、織瀬の耳元に唇を寄せる。
「だって陛下は、もう崩御なされたのだもの」
その言葉を聞いた途端、織瀬の世界から一切の色が消えた。
「嘘……」
「嘘ではありませんわ。私の部屋の兵士たちが話していたのですから。……禅譲の儀に際しては、陛下と同じくらいの歳の子どもを代役に立てるそうです。元々、陛下の龍顔を間近で拝したことのある者など限られていますから、それで充分人々の目は欺けるのでしょう」
「そんな、何故こんな突然に……」
「さあ……。陛下はお姉様に似て、大人しいくせに妙に気の強いところがお有りでしたから……那岐山侯爵の気に障るようなことでも仰ったのではありません?」
笑いを堪えるような紅蘭の口調は、とても信じるに足るようなものではなかった。とにかく那岐山侯爵に会わなければ、と思うのだが、爪が食い込むほど強く織瀬の腕を掴む紅蘭の手が、それを許さない。
「……離しなさい、紅蘭」
「信じたくないのね。お可哀想なお姉様……。お姉様は、那岐山侯爵に良いようにされて黙っているおつもりですか?」
「……」
「私は嫌ですわ。皇族としての誇りがありますもの。腹違いとはいえ、大事な弟である陛下を手にかけた男に黙って嫁ぐなど考えられませんわ。……お姉様だって、そう思うでしょう?」
「紅蘭、貴女何をするつもりなの?」
「今の私たちに出来ることは限られていますわ。那岐山侯爵が皇女を妻に望んでいるのなら、その望みを絶ってしまえば良い」
そして紅蘭は着物の懐に手を入れて、そこから美しい玻璃の小瓶を取り出した。
「それは、まさか……」
「ええ。毒ですわ、お姉様」
小瓶を掲げて、紅蘭は妖しく微笑む。
「お姉様はご存知よね? 私のお母様が、こういったものを沢山所持していたこと……。お姉様たちの母親も、こんな小瓶に入った毒の餌食になったのだものね」
織瀬の腕を掴む、紅蘭の手に力がこもる。
「私はこれを飲んで死んでやりますわ。……でも、やはりひとりで逝くのは寂しくて。お姉様、私と一緒に死にましょう?」
そう言って、紅蘭は小瓶の栓を開けた。甘い香りが、小瓶の縁から立ち上る。その香りをまともに吸い込んでしまい、織瀬はむせ返った。小さな咳を繰り返すたびに、意識が徐々に混濁していく。
「紅蘭、これは……」
「さようなら、お姉様」
袖口で顔の下を覆いながら、紅蘭は小瓶を織瀬の口元に当てた。とろりとした乳白色の液体が、織瀬の喉を通っていく。その瞬間、体内を焼かれるような痛みが、全身を駆け巡った。
「……っ……!」
「悲鳴をあげても良いのですよ、お姉様。ねえ、その綺麗な顔が苦痛に歪むところを見せて? ずっと憎たらしかったその顔が、醜く歪むところを見せて?」
恍惚の表情を浮かべる紅蘭を見て、なんて軽率なことをするのだろう、と織瀬は思った。扉の前の兵士たちは何らかの方法で抱き込んだのだろうが、織瀬が悲鳴を上げれば、龍守の配下の者たちがすぐに駆けつけてくるだろうに。──いや、そんなことよりも、織瀬が苦痛にのたうつ様を嘲笑うほうが、紅蘭にとっては魅力的だったのだろうか?
しかし、一番愚かなのは織瀬自身だ。紅蘭が自分に対して向ける含みのある視線には薄々気づいていたが、まさか殺したいほど憎まれていたなんて思いもしなかった。こればかりは、織瀬の認識が甘すぎたと言われても言い訳のしようがない。
でも、まあこれも良いかもしれない。元々自分は死を望んでいたのだ。母は織瀬が九歳の時に皇后によって毒殺された。紅蘭の言葉が事実ではなかったとしても、遅かれ早かれ弟である今上帝も那岐山侯爵の手にかかるだろう。織瀬を慕ってくれていた侍女たちも、この戦乱で命を落とした──。
もうこれ以上、生き永らえても意味がないのだ。だれひとり、何ひとつ救えなかった織瀬に、生きている意味などない。
ある意味紅蘭には感謝すべきかもしれない──そんな事を思いながら、織瀬は永遠の安らぎを与えてくれるであろう闇の中へ、意識を委ねた。
*
「何なのよ……もっと、醜い顔になりなさいよ。死んだほうがマシだっていうくらいの苦痛を与える薬だって、お母様が言っていたのに……」
足元に倒れ伏す、苦痛とは真逆の表情を浮かべる姉を睨みつけながら、紅蘭は歯軋りをした。すでに事切れたその身体を、思わず足蹴にする。
物心ついた時から、憎らしくてならなかった。賤しい女の娘のくせに、誰よりも美しい姉が。どうせ役にも立たないのに書物ばかり読んで、聡明だなどと褒められていた姉が。紅蘭の母からどんな仕打ちを受けても、決して屈することのなかった姉が。──そして何よりも、皇后腹の自分よりも、父に愛された姉が。
「でも……まあいいわ。やっと消えてくれたんだもの。これで、全部私のもの。私が橘花国の唯一の皇女で、私があの方の妻になる!」
そこでふと、姉の艶やかな黒髪に飾られた一本の簪が目に留まる。普段それほど着飾ることに興味を示さなかった姉が、唯一欠かさず身につけていたもの。姉の瞳を思わせる、澄み切った色をした翡翠をあしらった銀の簪。よく見れば細かな意匠も施されてはいるが、華やかさに欠けるそれは、決して紅蘭の好むようなものではなかった。
それでも紅蘭は、迷わず姉の髪からその簪を抜き取った。その簪は、二人の父である高徳帝が、死の間際に姉に贈ったものであることを紅蘭は知っている。姉自身はそのことをひけらかしたりはしなかったけれど、紅蘭の宮の下女たちが囁いていた。
──高徳帝には四人の子がいるけれど、今際の際に枕頭に呼んだのは翠蓮皇女だけみたいよ。ましてや贈り物をなさるなど……やはり、うちの宮の皇女様は……。
忍び笑いとともに話していた下女たちは、鞭打ちの上で獣の檻に放り込んでやった。母はその様子を見て笑っていたけれど、下女の悲鳴を聞いても紅蘭の気は晴れなかった。
──だが、もう誰からも嘲笑われることもない。忌々しい姉、翠蓮皇女は死んだのだ。
「ふふっ……あはは……馬鹿なお姉様。こんなにあっけなく死んじゃうなんて……でも、いいでしょう? 本当なら、あんたもあんたの弟も、九年前にあの賤しい母親と一緒に死ぬべきだったんだもの……お母様の詰めが甘かったから、ここまで生き延びられただけだもの……そうよ、私は何も悪いことなんてしてないわ……」
玻璃の小瓶が、するりと指の間から落ちた。からん、と軽い音を立てて、床に転がる。
「そうよ、私は悪くない……。全部、お姉様が悪いの。この簪だって、お姉様より私に相応しいわ……」
虚空に向かって言い訳をするように、紅蘭は呟いた。母親である皇太后とは違い、自らの手で人を殺めたのは初めてだった。ひとりでに震えだす腕を、必死に押さえつける。
「早く、部屋に戻らなくちゃ……。そうすれば、お姉様は自害したということに──」
「翠蓮皇女。失礼いたします」
踵を返そうとした途端、扉の向こうから姉の名を呼ばわる声が聞こえ、紅蘭の足はその場に凍り付いた。
*
翠蓮皇女の部屋の警護は、軍中でも精鋭と呼ばれる兵を充てていたはずだが、今この場に立っている男たちに龍守は全く見覚えがなかった。龍守は訝しげに眉根を寄せ、傍らに付き従う男に問い質す。
「鷹比古。俺は翠蓮皇女の警護には、由比将軍かその配下の者をつけろと命じたはずだが」
「は、仰せの通りにいたしました」
「ではなぜ、俺が顔も見たことがないような者たちがここにいる?」
「……申し訳ございません」
影法師のような印象を与える男が、抑揚の無い声で謝罪の言葉を述べた。鷹比古と呼ばれたその男の後ろには、二人の男がやはり影のように付き従っている。
龍守はひとつ舌打ちをして、紅い瞳を扉の前の兵士たちに向けた。びくりと肩を跳ねさせた兵たちは、問われもしないのに口々に言い立てる。
「私たちは、ただここに立っていろと言われただけで……」
「ここが誰の部屋かも、な、何も知らなくて……」
「ただ、紅蘭皇女に──」
「──紅蘭皇女だと?」
その名を聞いた瞬間、胸騒ぎのようなものに襲われ、龍守は兵たちを押しのけて扉に手を掛けた。
「翠蓮皇女。失礼いたします」
無礼を承知で、返事も待たずに扉を開け放った。
そこにいたのは、華やかな紅い着物をまとった若い女と、そして──。
「……翠蓮皇女……?」
「な、那岐山侯爵……!? 違うんです、これは……」
怯えた表情をして腕に縋りついてきた女を乱暴に振り払うと、龍守は崩れ落ちるように床に膝をついた。
龍守に振り払われた女は、悲鳴を上げて床に倒れ込む。そこをすかさず鷹比古が指示を出し、付き従っていた二人の男が女を拘束した。女の白い手から、銀の簪が滑り落ちる。
「な、何をするの!? 私は橘花国の第二皇女紅蘭よ! こんな無礼が許されると思って──」
「鷹比古、今すぐその女を地下牢に放り込め」
地を這うような声が、場の空気を震わせた。部屋の中にいる者たち全員に、緊張が走る。
「それと、今すぐ宮廷医を──筆頭医官の華彰を連れてこい」
「は、かしこまりました」
恭しく一礼すると、鷹比古は騒ぎを聞きつけてやって来た兵の一人に、龍守の指示を伝える。その兵が足早に去って行くのと同時に、扉の前に立っていた二人の兵士が、転げるように部屋を出て行った。早くこの場から立ち去りたいとでも言うように、我先にと走り去って行く。
「いかん、お前たちあの者らを捕らえよ!」
鷹比古の声に、数人の兵が駆けていく。その様子を見届けてから、鷹比古は龍守の背後に歩み寄った。
龍守は冷たい床に倒れていた皇女の身体を抱き起こし、その白皙の相貌に紅い瞳を向けていた。
「龍守様、翠蓮皇女は……」
「息をしておらぬ」
感情を置き忘れたような龍守の声に、鷹比古は言葉を失う。
「……これは、華彰が来ても無駄だろうな」
「龍守様、申し訳ございません。私の不手際です。なぜ紅蘭皇女がここに入れたのか、責任を持って調査いたします」
鷹比古が謝罪の言葉を口にしても、龍守は一切の反応も示さない。普段の自信に満ちた表情は消え去り、今はただ虚ろな瞳を腕の中の物言わぬ皇女の骸に向けている。
「龍守様……」
「なあ鷹比古。このような時、口から息を吹き込んだら蘇ったりするのだろうか?」
「……冗談でもおやめください。知識の浅い私でも、翠蓮皇女が毒殺されたであろうことは分かります。そんなことをすれば貴方様まで──」
「はははっ! ああ、その手があったな!」
突如哄笑する龍守へ、鷹比古は咎めるような視線を向ける。
「龍守様、お戯れは──」
「絶世の美女との口づけで死ねるのなら、男として本望だろう? なあ、翠蓮皇女……」
最後は消え入りそうなその声に、鷹比古は諫言の言葉を飲み込んだ。己の主が、激しい感情の発露として時に露悪的な言動をとることがあると、鷹比古は知っている。
「龍守様、もうすぐ華彰も参るでしょう。翠蓮皇女のお身体は、そちらの寝台にお運びします」
主が毒の影響を受けることを憂い、鷹比古は龍守を皇女から引き離そうとした。しかし龍守は鷹比古の懸念を察してはいても、皇女を抱く腕を解こうとはしない。
どうしたものかと眉根を寄せたその時、幾人かの足音がこちらへ向かって駆けてくるのが聞こえてきた。筆頭医官の華彰が到着したのであろうと扉へ向かった鷹比古は、そこに立っていた自分より頭ひとつ背の低い少年の姿を認め、咄嗟に拝跪した。
「……皇帝陛下」
「那岐山侯爵、姉上は……!」
陛下と呼ばれた少年は、跪く鷹比古には構わず、部屋のなかへと駆け出した。その後ろを、数人の侍従たちが慌てて従う。
「陛下、なりません。いくら姉君とはいえ、迂闊に近付いては……!」
「離してくれ! ……姉上、なぜ姉上が……!」
「陛下、まずは私が皇女殿下を診察いたします。ですからどうか、今はお鎮まりくださいませ」
高位の官人であることを示す、桔梗色の官服を着た白髪の男が、幼い皇帝へ向かって恭しく頭を垂れた。
「華彰、早く姉上を……!」
「かしこまりました。──侯爵閣下、皇女殿下を診察させていただきますので……」
暗に皇女から離れろと言っているのだが、龍守は微動だにしない。華彰は小さくため息を吐くと、龍守の腕に抱かれた皇女の顔を覗き込んだ。
「これは……」
それだけ呟くと、華彰は皇女の手首に触れ、やがて瞑目した。
「華彰、どうしたのだ。早く治療をせぬか、姉上は──」
「陛下。大変残念ではございますが、翠蓮皇女殿下は薨られました」
「な……」
「私を呼びに来た兵士が申していたとおり、おそらく毒によるものかと」
華彰はそう言って、皇女の傍に転がる玻璃の小瓶に目を向ける。
「鷹比古殿。この小瓶に毒が?」
「おそらく。我々がこの部屋に入った後は、誰の手も触れてはおりません」
「では、こちらは私が調べましょう。……そこの君、これを医局へ運んでくれ。ああ、直接触れてはいかんぞ……」
部下に小瓶を回収させると、華彰は皇帝に向かって深く頭を垂れた。
「陛下。臣の力及ばず、申し訳ございません。……皇女殿下のお身体に触れなければ、お近くへ──」
「姉上!」
華彰の言葉を最後まで聞かず、幼い皇帝は姉のもとへと駆け寄った。龍守の腕の中で眠るように目を閉じる姉の姿を見つめ、ぽろぽろと涙をこぼす。
「姉上……どうして、姉上が……」
橘花国第十四代皇帝──後に南陽帝と諡される少年は、大声を上げることもなく、ただただ静かに涙を流し続けた。その光景を、部屋の中にいる者たちは、言葉もなく見つめることしか出来ない。
やがて龍袍の袖口で目元を拭うと、少年は鋭い目つきで龍守を睨みつけた。
「那岐山侯爵、これは一体どういうことだ。なぜ姉上が死なねばならぬ? なぜ紅蘭皇女がここにいたのだ? 紅蘭が……」
ぐっと唇を噛み締めると、痛みを堪えるような声で問いかけた。
「紅蘭が、姉上を殺したのか?」
「……断定はできませんが、状況から言ってその可能性が高いと思われます。紅蘭皇女の身柄は押さえておりますゆえ、追って取り調べを──」
「なぜだ。那岐山侯爵」
少年は龍守の言葉を遮り、拳を震わせながら再び問いかける。
「紅蘭が姉上へ向ける視線に、お前なら気づいていたであろう。なのになぜ姉上に近づけた」
「申し訳ございません」
龍守の金色の髪が、肩から床へと滑り落ちた。深く頭を垂れる龍守と、その腕のなかで事切れる姉の姿に、少年は怒りと哀れみがない混ぜになったような視線を向ける。
「お前は私に約束しただろう。必ず姉上を助けると……必ず守ると……それを信じて、私は……」
透明な雫が、またひとつ少年の瞳から溢れ落ちた。少年の言葉に対して、龍守は返答することが出来なかった。やがて少年は、手の甲で乱暴に顔を拭う。
「那岐山侯爵。姉上はそちらの寝台へ寝かせて差し上げろ。それからそこに落ちている簪を、姉上の髪に──ああ、姉上。前は髪を伸ばしていらしたのに、こんなに短く切ってしまわれたのですね……」
簪で纏められていた時には気づかなかったが、胸の辺りにかかる艶やかな黒髪には、やや乱雑に切られたような痕跡があった。誰かに無理矢理切られたのだろうか、それとも自分の意志で? ──いずれにしても、皇女が軍中にあって、本来味わうべきでない辛苦を舐めたであろうことは想像に難くなかった。
皇帝の指摘によって改めてそのことに思いが至り、龍守は歯痒さを覚える。皇女の身体をそっと寝台に横たえ、華奢な手が力無く敷布の上に落ちるのを見て、己の無力さに身を焼かれる思いだった。
その名の由来ともなった美しい翡翠色の瞳は、もう二度と光を灯すことはない。結局、自分のやってきたことは何だったのか。最も守るべきものを守れず、一体何を……。
「那岐山侯爵。私はお前に帝位を譲る」
厳かな声に、龍守は顔を上げた。先程までの悲しみに暮れる少年の姿はそこにはなく、志尊の冠を戴くに相応しい凜然とした姿に、龍守は我知らず膝を付く。
「……陛下、私は」
「陛下、なりませぬ! 侯爵などとは名ばかりの、このような下賤の者に!」
龍守の言葉を遮り、侍従のひとりが叫んだ。
「橘花国二百年の歴史を途切れさせてはなりませぬ! そのようなことをして、歴代の皇帝陛下の廟になんと申し開きをなさるのか……
こんな、このような、よりにもよって……」
侍従は憎しみに満ちた視線を龍守に突き立てる。
「このような、穢らわしい贅閹の息子に!」
「……っ、貴様……!」
それまでひたすら影のように主君と皇帝のやり取りを見守っていた鷹比古ですら、思わず声を荒らげかけた。しかし鷹比古が次の言葉を発するより早く、龍守を侮辱した侍従は壁に向かって叩きつけられていた。
「テメェ、もう一遍言ってみろ。誰が誰の息子だって!?」
いつの間に部屋に入ってきていたのだろうか。鳶色の瞳に激情を迸らせた男が、侍従の顔面を拳で殴り飛ばしたのだった。
「橘花国二百年の歴史だと!? テメェらが役立たずだから龍守が戦わなけりゃなんなかったんだろうが! 皇帝の陰に隠れてた奴らが偉そうに喚いてんじゃねえ!」
男の剣幕に、皇帝の近侍の者たちは一斉に震え上がった。壁際で気絶する侍従の姿をちらちらと見遣りながら、鳶色の瞳の男から距離を取ろうとする。
「じ、侍従長に向かってなんということを……!」
「皇帝陛下の御前で……!」
「はっ! お前らの、その大事な皇帝陛下の国のために戦ったんだぞ、龍守は! それをお前ら、よりにもよって……!」
「隼人、もう良い。下がれ」
今にも他の近侍の者たちに掴み掛かろうとする隼人を、龍守は押し留めた。
「龍守、お前らしくねえぞ。こんな奴らに馬鹿にされて、何を大人しくしてやがるんだ!」
「皇帝陛下の御前だ、隼人。拳を下ろして、ついでに口も閉じて下がれ。これは命令だ」
「はあ? いきなり主君面してんじゃねぇ! 俺は──!」
「……臣下だと、ほんの一時ほど前は言っていたであろうに」
一瞬唇の端に微笑を浮かべると、龍守は皇帝に向かって深く頭を垂れた。
「陛下、我が配下がご無礼をいたしました。申し訳ございません」
「……詫びねばならぬのは私のほうだ。侍従長の発した言葉は許されるものではない」
皇帝は、己の近侍たちに厳しい視線を向ける。
「……このような者たちばかりだから……いや、そもそも我ら皇族に国を統べるだけの器量が無いばかりに、橘花国は滅びるのだろうな……」
自嘲的に笑う幼い皇帝に対して、近侍の者たちは得体の知れない存在を見るような眼差しを向けた。
少なくとも数日前までは、皇帝は冠を被っただけの、ただの幼い少年でしかなかったのだ。彼の腹違いの兄である、第十三代皇帝がそうであったように。一体何が、少年をたった数日でこのように変えてしまったのだろうか。しかも受け入れ難いことに、皇帝は近侍である彼らよりも、龍守とその意志を共有し合っているようにすら見受けられた。
「……さて、那岐山侯爵。見ての通りだ。もうすでに私たちにこの国を統治するだけの力量はない。かねてよりの約定通り、侯爵に帝位を譲ろう」
「しかし、陛下。私は約定を違えました。翠蓮皇女は……」
「──そうだな、侯爵。お前は私との約束を違えた。今の私は、紅蘭と同じくらいお前のことが憎らしくて堪らない」
翠蓮皇女の面影を感じさせる気品に満ちた表情に、冷たい笑みが浮かぶ。
「それ故に、今更帝位など要らぬと言っても許さぬぞ。姉上のいない世で、お前は皇帝としてこの国を守って行かねばならぬ。……それが、私がお前に与える罰だ」
「……陛下」
「お前になら出来るであろう、姉上が望んだ世を創ることが。もっとも、その世にお前が一番望んだものは存在しないのだろうが……」
まるで呪いのような言葉を残して、皇帝は部屋を出て行った。
この後、正式に南陽帝より禅譲を受け、那岐山龍守は帝位に就いた。橘花国の滅亡と、新王朝の誕生──それは翠蓮皇女の死から、僅か三日後のことだった。




