第十一章 葛城乙彦
所在不明であった葛城乙彦が姿を見せたのは、その日の昼を過ぎた頃だった。
兵士たちの手当てにかかりきりで朝餉を摂り損ねていた織瀬は、翠蓮宮で遅い昼餉を摂りながら、明瑠からその報告を聞いた。
「では葛城公爵は無事なのね」
「はい。どこに身を隠していたのか……泣き縋る皇太后を宥めたのち、今は皇帝陛下に謁見しているとのことです。おそらく反乱の首謀者である安比家の追討を求めているものと思われます」
「そう……」
匙を持ったまま消えいるように呟く織瀬に、明瑠は気遣わしげな眼差しを向ける。普段から健啖家とは呼べぬ織瀬だが、今日はいつにも増して食が進んでいない。
「姫様。二日続けてまともにお休みになられておりませんし、お身体に障ります。あまりご無理をなさらぬほうが……」
「大丈夫よ。それに休んでいないのは、貴女たちも同じでしょう?」
「私や菊理は普段から鍛えておりますから、これくらいはどうということはありません。しかし姫様は違うでしょう」
怪我をした菊理は、織瀬の命を受けた明瑠の手で自室に押し込められているため、この部屋にはいない。
「でも休んでいるわけにはいかないわ。葛城公爵が姿を見せたということは、また事態は動き出すでしょうし……」
そう言って、織瀬は椀の中で揺れる羹に目を落とす。
反乱が当初の計画よりも前倒しされたのは、織瀬が前世とは違う行動をとったからに違いない。前世では反乱時にまだ那岐山龍守は近衛将軍となってはいなかったし、明確な指揮系統を欠いていた近衛軍は、勢いづく反乱軍の前に圧倒されていた。被害も今回は日華殿のみで済んだが、前世ではそれに加えて後宮や外廷の多くの建物が焼け落ちていた──。
(そして前世では命を落とした者たち──葛城公爵に反感を抱く官吏たちも、今回はみな無事でいる。安比家を利用して政敵を一掃し、あわよくば皇族を害そうという葛城公爵の企みは、とりあえず阻止できたけれど……)
本来は喜ぶべきなのであろうが、織瀬の心は晴れない。太極殿で見た多くの傷ついた兵たちや、少ないとはいえ命を落とすことになってしまった者たちの姿が、脳裏に焼きついている。
「姫様、差し出がましいことを申し上げますが……姫様が此度のことについて責任を感じられる必要はございません。姫様の行動によって皇宮の被害が少なく済んだのは事実ですし、何より姫様は陛下のお命をお救いになられたのですから」
「明瑠……ありがとう」
織瀬は椀の中の羹を飲み干して、明瑠に微笑みかける。
「ご馳走様。……やはり少し休んでおこうかしら。これからのことに備えて」
「ええ、そうなさって下さい。兵たちの手当てに加えて、皇太后や紅蘭皇女の相手もなさって……さぞお疲れでしょう」
食器を下げながら優しげに笑う明瑠に微笑みを返した時だった。不意に扉の向こうから、織瀬の名を呼ばわる声が聞こえて来た。
「翠蓮皇女、ここを開けろ。葛城公爵の命令だ」
「……!?」
後宮において聞かれるはずのない男の声に、織瀬は身を固くする。
(この声は、豺牙将軍……!?)
明瑠が弾かれたように織瀬の顔を見る。なぜここに豺牙がいるのだろう。織瀬の背を冷たい汗が伝う。
「翠蓮皇女と……侍女がひとりか? そこにいるのだろう? 開けぬのなら勝手に入らせてもらうぞ」
がちゃり、と扉の合わせが外れるような音が聞こえ、織瀬は咄嗟に叫んだ。
「ま……待ってください。今、身支度をしている最中です!」
開きかけた扉が、途中で止まる。
「殿方に着替えを見られるわけには参りません。少しお待ちを」
「……分かった」
意外にも素直に、扉は閉められた。
「……どうします、姫様」
外に聞こえぬよう、小声で明瑠が囁く。
「葛城公爵の命なら……中に入れないわけにはいかないでしょうね」
「ええ。それにしても、宦官でもない男が堂々と後宮に立ち入るなど……。門衛は一体何をしているのか」
明瑠が苦々しく吐き捨てる。
「あのような反乱の後でもあるし、衛兵たちも混乱しているのでしょう。どちらにしろ、葛城公爵の名を出されたら門衛も断れないわ」
溜め息まじりに呟き、織瀬は腰を上げた。これで当分、休息は摂れそうにない。
「お待たせいたしました、豺牙将軍。私に何のご用でしょうか?」
自ら扉を開け放ち、感情のこもらない微笑みを浮かべる織瀬を、豺牙は眩しいものを見るような眼差しで見下ろした。
「……」
「豺牙将軍?」
無言のまま立ち尽くす豺牙を、織瀬は訝しげに見つめる。すると明瑠が、織瀬と豺牙の間に割って入った。
「豺牙将軍。姫様は此度の反乱のためにお疲れなのです。用件は簡潔に仰ってください」
棘のある明瑠の声で我に返ったのか、豺牙がようやく口を開く。
「葛城公爵の命で、翠蓮皇女の様子を見に来た」
「私の様子を? ……それならば、どうぞ葛城公爵にお伝えください。私ごときをお気にかけてくださりありがとうございます、公爵はどうぞご自身の職務を全うなさってください──と」
笑みを崩さずに会話を終わらせようとする織瀬だが、豺牙はその場を動こうとはしない。
「豺牙将軍? まだ何かご用が?」
「葛城公爵から、翠蓮皇女を護衛するように言われた」
「……はい?」
「今回の反乱では皇帝が狙われた。首謀者の安比家の行方も分からぬし、また皇族が狙われる可能性があるから護衛しろと」
「……」
これは要するに監視ということだ。少し目立つ動きをし過ぎたかもしれない、と織瀬は我知らず眉を寄せる。すると織瀬を守るように立ち塞がっていた明瑠が口を開いた。
「護衛ならば結構です。姫様には私と菊理がついておりますから」
「それは宴の後……翠蓮皇女が外廷にいたときに側に潜んでいた女のことか? あの女は怪我をしていると聞いたが」
「……!?」
豺牙の言葉に、織瀬と明瑠は揃って目を見張る。
(この人……菊理のことにも気付いていたの? 一体なぜ……)
得体の知れない恐怖に思わず後退りたくなる気持ちを、織瀬はぐっと堪える。
「……豺牙将軍。その外廷云々の話に関しましては、葛城公爵にも言ったとおり私には全く身に覚えのないことです。そして護衛のことについては、大変ありがたいお申し出ですがお断りいたします」
「なぜだ。俺が居ては不都合なのか?」
「はい、大いに不都合です。……なぜならここは後宮、皇帝とその皇子以外の殿方が立ち入ることを禁じられている場だからです。それに反乱軍は葛城公爵を狙っていたのでしょう? ならばまず守るべきは葛城公爵、そして皇族に関しては皇帝陛下や皇太后陛下を優先してお守りすべきではありませんか?」
「葛城公爵たちには俺以外にも護衛がいる。しかし翠蓮皇女には侍女が二人いるだけだろう」
「……」
どうしたものか、と織瀬は溜め息をつく。
「……豺牙将軍。どうか私の立場も考えてはくださいませんか」
「翠蓮皇女の立場だと?」
「はい。私は現在許婚すらいない未婚の身です。そんな私の側に貴方のような殿方が付き従っていれば、周りからどのような目で見られるかお分かりでしょう?」
「……どう見られると言うんだ?」
「……」
これは、わざと察しが悪い振りをしているのだろうか。織瀬はまじまじと豺牙を見つめた。
「……私を辱めようというおつもりですか?」
「なぜそうなる? 俺はどう見られるのかと聞いているだけだ」
「……私が、貴方を囲っていると……貴方が私の愛人か何かではないかと、周りに思われかねないということです」
なぜこんな恥ずかしいことを、自分の口から言わねばならないのか。思わず目を伏せる織瀬だが、豺牙のほうは微動だにせずその場に立ち尽くしている。
「豺牙将軍、姫様もこう仰せです。どうかお引き取りを──」
沈黙に堪えかねたのか、おずおずと明瑠が声をかけた時、
「では、この宮の前に立っている」
「……え?」
予想外の返答に、織瀬は顔を上げる。
「それならば良いだろう?」
「な……いけません。先程も姫様が仰いましたが、後宮は男子禁制なのです。ですから翠蓮宮の前にいるのも──」
「では後宮の門前にいる」
豺牙は明瑠の背後に立つ織瀬に、射抜くような眼差しを向ける。
「翠蓮皇女が嫌がるならば、側につくことはしない。だが葛城公爵の命があるので、門前で翠蓮皇女を含め後宮全体を守る。それならば良いだろう?」
「は……はい。それならば……」
思わず頷く織瀬に、
「分かった」
と、豺牙はあっさりと踵を返す。そのまま遠ざかって行く大柄な後ろ姿を、織瀬は拍子抜けしたように見つめていた。
*
場所を野外から外廷の一室に移し、龍守は次々と入ってくる報告を頭の中で繋ぎ合わせていた。
鷹比古の配下からの報告によると、どうやら西へ向かう正体不明の集団の目撃情報が複数あるとのことである。それが安比家の者たちであることは疑いなく、そのまま追跡を続けさせてはいるものの、捕らえた後のことを考えると気が滅入る。
(このような体たらくでは、また朱鷺也殿に叱られるな)
国家に弓を引けば、族滅は免れない。屋敷に残されていた者たちや生き残った兵たちも、刑場へと引き出されるか、良くて獄卒から自裁用の毒を手渡されることになるだろう。
(あの時皇太后から逃げられると、安易に喜んだ自分を殴り倒したくなるな。……というか初臣も詰めが甘過ぎる。葛城乙彦を殺すつもりなら、居処くらいきちんと把握しておけ)
最後は八つ当たりのように独白すると、龍守は天井を振り仰いだ。
反逆などというものは、失敗したからそう呼ばれるだけで、成功すれば新たな時代の夜明けとなる。初めに声をかけられた時に龍守が初臣の手を取らなかったのは、その計画に大義も成功の可能性も全く感じられなかったからだが、ならばもっと全力を以って止めにかかるべきだったのだ。翠蓮皇女からあれだけの情報を得ていながら後手に回ったことは、非難されて然るべきである。
「おーい龍守。自己嫌悪中わりぃけど、緊急だ」
不意に殺風景な天井が、見慣れた顔に遮られる。見下ろしてくる鳶色の瞳を、龍守はむっとして睨みつけた。
「お前はなぜ、こういう時だけ俺の思考を読むんだ。普段は察しが悪いくせに……気持ち悪いな」
「五月蝿ぇよ。……それはともかく、葛城乙彦から呼び出しだ。どうする?」
「……どうするも何も、行かざるをえんだろう。ところで奴は何処に隠れていたのだ?」
「さあ、そこまでは知らねぇよ。おおかた愛人のところとかじゃねぇの?」
「それはそうなのだろうが……まあ良い。鷹比古は戻っているか?」
「ああ、その辺に居たと思うけど」
「ではすぐに呼んでこい。……鷹比古と話した後に、葛城乙彦のもとに向かう」
龍守は窓辺に歩み寄り、窓枠に切り取られた景色に紅い瞳を向ける。昨日までそこに存在していたはずの日華殿は、一夜のうちに瓦礫と化した。これから行われる葛城乙彦との会談でどう立ち居振る舞うべきか、自身の判断で歴史が動く可能性すらあることを薄々龍守は感じていたが、胸の奥から湧き上がってくるのは恐れとは対極の感情だった。
*
朝堂へと赴いた龍守は、葛城乙彦との対面前に徹底的な身体検査を受けた。さすがに裸に剥かれることはなかったものの、帯刀した乙彦の護衛たちが眼を光らせる中で宦官たちに全身を弄られるというのは、心地良いものではない。
努めて無心で目の前の壁を見つめる龍守の腰から、二振りの刀が奪われる。
護衛の男は龍守を威圧しようとでもいうのか、わざとらしく低い声で宣う。
「……その懐のものは何だ?」
「扇です」
「それはこちらで預かろう。……その腰に差しているものは?」
「見ての通り、笛です」
「なぜ武官がそのようなものを携帯している」
「ただの趣味です。……よろしければ一曲ご披露いたしましょう」
おもむろに笛を口元に当てる龍守から、護衛の男がそれをもぎとる。
「巫山戯けおって。……鉄製の笛など、危険極まりない。これも預かっておく」
「やれやれ、後できちんと返して欲しいものですね。家宝なのです」
肩を竦める龍守を、男は鼻で笑う。
「気が向いたらな。それと、その派手な色の髪に差している簪も外せ」
「……葛城公爵は存外臆病なのですね」
「貴様、この場で斬り捨てられたいか?」
やれるものならやってみろ、と返したいところだが、龍守も相手に倣い鼻で笑うだけに留めた。
「いいえ、滅相もない。ただ男に弄られても何の楽しみもないので、早く終わりにしていただきたいだけです」
その不遜な態度に、護衛の男たちの眦が吊り上がる。
「ふん、成金の若造の分際で偉そうに。葛城公爵はなぜこのような者を……」
護衛の男のひとりがぶつぶつと呟く。
それにしても、今まで龍守を罵倒してきた者たちに比べれば、随分と上品な悪口である。この男も立場ゆえに葛城乙彦に従っているだけで、本人はそれ程悪人では無いのだろうな、と龍守は無自覚のうちに哀れみの視線を向ける。
(だが、人は己の選択に責任を持たねばならない。……俺もそろそろ腹を括らねば)
着崩れた着物を直しながら、龍守は己の手元を見つめる。典雅な容姿のなかで、そこだけが武官としての主張をしている骨太い指に、銀色の装飾が光っている。それだけではない、あの宦官たちは龍守の沓の中まで念入りに調べたものの、着物の袖口にはついに手を触れなかった。
(この杜撰さは罠か、それとも僥倖か……)
考えても詮なきことは、迷わず脇に置いておくのが信条である。ここまで来れば、後は気まぐれな天が微笑みかけてくれることを期待するしかない。
「葛城公爵閣下はこちらの間でお待ちだ」
護衛の男が開いた扉を、龍守は妙に晴れやかな気持ちでくぐった。
「……遅いぞ。外廷からここまで来るのに、一体どれだけの時がかかっている」
朝堂の、本来ならば皇帝が座すはずの場所で胡座をかいた乙彦は、ぎろりと龍守を睨め付けた。
龍守のこととなると途端に心配性になる鷹比古のおかげで、思いのほかこちらへ向かうのが遅くなってしまったことは事実だが、ここは皮肉で返すのが礼儀であろう。
「大変申し訳ございません、公爵閣下。まさか公爵閣下にお会いするために、これ程入念な検査があるとは露知らず……このようなことならば、襦袢一枚で来るべきだったと私も後悔しているところです」
素知らぬ顔で笑みを浮かべる龍守に対し、乙彦はくっと喉を鳴らす。あにはからんや、龍守の予想に反し乙彦の機嫌はさほど悪くないようである。
(葛城乙彦の企みが翠蓮皇女の推測通りだとしたら、何一つ事は思い通りに進んでいないはずだ。皇族も、葛城家に敵意を持つ官吏もみな無事であり、ただ日華殿が焼け落ちたのみ……。乙彦が消したかったであろう者たちは、早くも葛城公爵は臆病者だなどと囁き始めている……)
さらに鷹比古の報告によると公爵邸は甚大な被害を受けており、特に女の使用人たちはその場で凌辱を受けたり、連れ去られた者も多いという。それ以外にも正視できぬ光景が広がっていたらしく、同行していた倶知比古などは皇宮に戻るまでのそれ程長くない道中で、すっかり胃のなかを空にしてしまったようである。
「那岐山龍守! 貴様公爵閣下の前で、何と言う口の利きかたを……!」
「我慢ならん。公爵閣下、今すぐにでもこの男を斬り捨てる許可を……!」
型通りに激昂する護衛の男たちにひとつ肩を竦めると、龍守は乙彦に紅い瞳を向ける。
「公爵閣下。五月蝿い小虫が何匹も飛び回っていては、落ち着いて話も出来ません。どうかこの男たちを退がらせてはいただけませんか」
「なっ……貴様、誰が小虫だ!」
「あれだけ念入りに私の身体を調べたのです。今の私は針一本すら帯びていない丸腰の状態です。仮に私が公爵閣下に害意を抱いていたとしても、誉れ高い武人でもある公爵閣下の前では、赤子同然にねじ伏せられてしまうでしょう」
乙彦は探るような目つきで、龍守を見下ろしている。龍守はあえて含みのある眼差しで、猜疑に満ちた黒い瞳を見つめ返す。
やがて乙彦が、ゆっくりと口を開いた。
「……貴様らは外に出ていろ」
「は……?」
男たちは、信じられないというように目を見開く。
「聞こえなかったのか? さっさと出ていけ」
「は……し、しかし……護衛がひとりもいないというのは……豺牙将軍も今はご不在ですし……」
「この男は今は丸腰なのだろう? それとも貴様らは、没収し損ねたものがないか不安になるほど適当な仕事をしているのか? もしくは丸腰の男に私が負けるとでも?」
「い、いえ。決してそのような……私どもはただ、公爵閣下の御身を案じて……」
「貴様らごときに心配されるほど、私が弱いとでも? ……もう良い、同じ事を何度も言わせるな。退がれ」
「は、はっ……! 申し訳ございませんでした……!」
転げるように部屋を出ていった護衛の背で、扉が閉められる。これでこの空間にいるのは、龍守と葛城乙彦の二人のみだ。
「随分とわざとらしい人払いの仕方ですね」
「貴様の希望に沿ってやったのだ。感謝しろ」
唇の端を引き上げる乙彦を見て、龍守はおやと首を傾げる。機嫌が悪くないだけではなく、龍守に対する警戒も影を潜めている。ほんの一日前に、龍守の頭に白湯を浴びせたことなど忘れたかのようだ。
「此度の反乱に際しての働き、見事であった。近衛将軍就任直後にも関わらず、上手く兵を動かしていたな」
「勿体ないお言葉でございます。葛城公爵閣下のもと、兵たちも良く鍛えられており……なにより、葛城家の兵たちが皇族がたをお守りしていたからこそ、私は反乱軍の迎撃に専念することが出来たのです」
「そう謙遜することはない。なによりも大事な陛下の御身をお救いしたのは貴様であろう」
「近衛将軍としての職責を果たしたのみでございます。陛下の御身はお救いできましたが、そのご座所である日華殿を失った事、心より謝罪申し上げます」
「気にすることはない。あのようなもの、また建て直せば良いのだ。何なら即位の記念として、一際華やかなものを新たに造らせても良い」
そう笑う乙彦の声に、龍守はそれと悟られぬよう袖のなかでぐっと拳を握る。
「ところで那岐山侯爵。我が妹は口に合わなかったかな? 若さでは女官たちに及ばぬが、あれでなかなか男を喜ばせる術には長けているのだぞ」
「……」
これを言ったのが誰であろうとも、平時ならば殴り飛ばしていたであろう。しかしここで短気を起こせば、首を刎ねられるのは龍守だけではない。龍守は白々しく聞こえるのは覚悟の上でとぼけて見せる。
「はて、公爵閣下のお言葉の意図が図りかねますが……。畏れ多くも皇太后陛下より一献賜り、非常に有意義な時を過ごすことができました。反乱など起こらねば、側についていた女官たちも交えて歌合せでもと思っておりましたので、残念でなりません」
「ふっ、あれはそのような風流事に興味はないだろう。頭にあるのは色事と己の容色のことのみだからな」
小馬鹿にしたような乙彦に、それはお前も似たようなものだろうと龍守は心中で吐き捨てる。しかし己の欲求のみで動いている皇太后とは違い、目の前のこの男には欲望の大きさに見合うだけの狡猾さがある。
「我が子である皇帝陛下のことにもさほど関心がないようだ。もっともあの出来では、目を背けたくなるのも分からぬではないがな。貴様も陛下と直接言葉を交わしたなら分かるであろう? あれはとても天子の器ではない。……天子どころか、市井の名もなき家の後継ぎすら務まらぬだろうよ」
「……些か辛辣に過ぎますね。陛下のお耳に入れば、さぞ御心を痛められることでしょう」
「なに、構うものか。あれに私をどうこうできるはずもない。何一つ己の意思で決められず、母親の顔色を窺うしか能のない子どもよ。……年少である南陽皇子のほうが、よほど出来が良い」
「成程。よその子と比べて、己の子の出来に不安を覚える親心というものですか」
ごく自然に発せられた一言に、その場の空気が凍りついた。
「……貴様、今何と言った?」
「いえ、親心とは難儀なものだと思いましてね。私も幼少の頃はたびたび悪さをしましたが、我が父もこのような心持ちだったのかと……。ただ説教は何度もされましたが、さすがに殺されかけたことはない。殿舎に火をかけ、更には暗殺者を送るなど、実の子への仕打ちにしてはあまりに冷酷ではございませんか?」
「……」
葛城乙彦は立ち上がると、無言のまま腰の刀を抜き放った。首筋に、冷たい感触が当てられる。目線の高さは龍守とそう違わないが、体格の差は歴然である。均整の取れた身体つきをしてはいるもののおそらく文官の装束も違和感なく着こなしてしまうであろう龍守と比べて、乙彦は体格だけで相手を威圧することが可能であった。
「……貴様、私を侮辱する気か?」
「事実を申し上げることが侮辱であるならば、そうなりますね」
「ふん、贅閹の息子とは良く言ったものだ。貴様の祖父は穢らわしい宦官であったな」
「祖父の名誉のために申し上げますが、私がこの事実を知ったのは祖父からではございません。退官してからも祖父を慕う宦官たちがたびたび我が家を訪れまして、その者たちが酒の席でこぼしていたのを耳にしたのです」
生殺与奪の権を握られながらも、龍守は不敵に笑う。
「宦官に限らず、あまり下々の者を舐めてかかると痛い目を見ますよ。……例えば皇太后陛下の入内後、先帝陛下の 黄華宮へのお渡りはただの一度もなかったにも関わらず、紅蘭皇女や今上陛下がご降誕あそばされたこと──」
龍守の首を、鮮やかな紅が伝う。
「渡りのないことに心を痛めた皇太后陛下が、たびたび朝堂で兄君と会っていた事……」
「口は災いのもとだぞ。下らぬ噂話のために命を落とすなど浅はかだとは思わんか」
「ご気分を害してしまわれたのでしたら、謝罪いたします。……しかし、これからお仕えするかたにつきましては、正確な情報を得ておきたいと思いまして」
「……仕えるだと?」
「ええ。此度の反乱で、私の才に気づかれたのでしょう? 安比家の企てだけでなく、それを利用して天下を真に我が物とせんとする公爵閣下の野望を阻止した私の有能さに」
「……」
「過去にも後継者争いに敗れた皇子が、美しい娘を後宮に送り込み新皇帝を堕落せしめ、まんまと摂政の座に着き国政を牛耳った例などがございますが……。まさか皇家に自らの種を芽吹かせるなど恐れ入った。このまま今上陛下を傀儡とし、頃合いを見計らって真実を告げれば、いずれ墓誌に太上皇か武の名を冠する諡号が刻まれたでしょうに、それではご満足なされませんか」
「ふん。死後の名誉など、腹の足しにもならんわ。それにあのような無能者、息子だなどと認めたくもない」
「成程、徒花は花ではないと仰いますか。ですがそれでは、皇帝陛下と皇太后陛下、それに紅蘭皇女殿下があまりに不憫ではございませんか」
「好きものの妹に、私は十七の頃から閨に引き込まれていたのだ。父もいずれ入内する時のために手ほどきをしてやれなどと言って、半ば公認していた」
「……皇太后陛下に、無理矢理犯されていたと主張なさりたいのですか?」
龍守の言葉に、乙彦は高らかに嗤う。
「はは……ッ。まさか、そんな訳があるか。人としての分別すら持たぬ獣のような女が、皇后など務まるはずがなかろうに。それが分からぬ父も、俺たちが閨で何をしているか知っていても見て見ぬ振りをする水葉上皇も、揃いも揃って馬鹿ばかりよ。……このような者たちが牛耳っている国であれば、俺であっても簡単に壊せる。螺鈿──あの色欲に溺れた雌は、良く俺のために働いてくれた。愚鈍なくせに俺の企みに気づいた先帝を、少しずつ毒で弱らせ……それを阻止しようとしたあの巴という女も、暴室に叩き込んだ。頭が弱くても性根が腐っておるゆえ、そのようなことができるのだな──」
目の前の龍守を見ているようで、ただ虚空に向かって捲し立てる乙彦に、龍守はえもいわれぬ異様さを感じ取った。まるで氷室のなかに入れられたように、肌が粟立つ。
「那岐山龍守よ。貴様、俺に仕える気があると言ったな?」
「……ええ」
「良いぞ。貴様の様に頭が切れて、武にも長けた者は歓迎する。俺の周りにはどちらも半端で媚を売る事しかできぬ者たちばかりでな。豺牙だけは違うが、あれは武しか能がなく頭の中身は幼児と変わらぬ」
そうして無防備に、乙彦は龍守に背を向ける。
「那岐山龍守。貴様今の橘花国をどう思う」
「は……」
「俺の周りだけでなく、天下にまともな人間などおらん。貴様は俺の前で民衆を家畜に例えたが、朝堂とて似たようなものよ。……家畜なら家畜らしく、大人しく飼われておれば良いものを。成り上がるだけの実力もなく、他人の足を引っ張ることしか考えぬ……。俺が妾の子だからなんだ? 妹のお溢れ? ……ふん、刀を向けられれば途端に黙る臆病者め」
龍守に問いかけはしたものの、乙彦は返答など求めていないようだった。独白は奔流し、止まることを知らない。
「那岐山龍守よ、貴様なら俺の言うことがわかるであろう? 侯爵家の出である貴様が、任官直後は帝都北部尉であったそうだな。貴様よりも家格の劣る者たちが、名のみの牧に着き悠々と私腹を肥やしている間に、貴様は罪人相手の穢れ仕事だ。官試で首席を取った者に、あんまりな仕打ちではないか」
「……私は武官試は次席です。公爵閣下」
「それもこれも皆、貴様の祖父が宦官で、父が官位を金で買ったからであろう? 実力だけならば、同年の誰よりも優れているというのに」
「……」
「なあ、貴様は悔しくはないか? 今貴様は近衛将軍の座にいるが、いくら才があろうともこれ以上の位には登れぬぞ? 前例主義の老いぼれどもが、四大公爵家以外の者がそれを超える位に着いた例は無いなどと、下らぬ屁理屈を捏ねだすであろうからな。貴様の父が太尉であったことなどは──先帝時代に金で買った官位などは、あやつらのなかでは勘定に含まれぬだろうよ」
「……意外ですね。公爵閣下がこれほどまでに私を買ってくださっていたとは」
「貴様は俺を権力欲だけの男と思っているようだが、これでもこの国の状況には危機感を持っているのだ。建国から二百年、橘花国は人も制度も腐り切っている。ここは一度根元から切り倒して、新たな苗木を植えるのも一興ではないか?」
「……」
龍守はあえて反論することをしなかった。乙彦の発したものと同じ考えが、今まで龍守の脳裏に一度も過らなかったと言えば嘘になる。
(それにしても、熱に浮かされたように妹を呪詛したかと思えば、急に冷然と体制批判をする……。この男、どこか壊れているのではないか?)
それが妹との関係によるものか、それとも生来の気質によるものかは分からない。しかし龍守は目の前の男に対し、頭身の毛も太るように感じ始めていた。
「橘花国を滅ぼすだけならすぐにでもできる。しかし荒地に城郭を建てるのは骨が折れるし、そもそも俺には向いておらん。十八年前に、それを嫌というほど思い知った……。だが更地の玉座に着いても虚しいだけだ。──そこで俺がこの国を壊してやるから、お前が瓦礫を避けて城郭を建てろ」
「……随分と大胆なことを仰る」
「おっと勘違いするな。皇帝になるのは俺だ。……その代わり貴様には、望むままの位を与えよう。太尉でも、摂政でも──ああ、貴様にはあえて古風に丞相としたほうが似合うな。そのほうが老いぼれどもには皮肉が効いていて、なかなか良い」
「……」
「貴様が帝都を離れていた間の仕事ぶりを調べさせてもらった。陶州の蒼県に飛ばしてやったのはあの地で朽ち果てろという意味だったのだが、俺の意図に反してなかなか良い仕事をしたようだな。当時県令の実績とされたものの殆どは、貴様が進言したものだそうではないか。次に赴任した桂州でも──不毛の地などと揶揄されていた桂州を、たった四年で豊穣の地へと生まれ変わらせた。……どうだ、その才をもっと大きな場所で発揮したくはないか?」
「……州から国では、規模が違い過ぎます」
「なに、そう気負うことはない。失敗すればまた俺が壊して一からやり直させてやる」
「なぜそこまで私を買ってくださるのです? 私程度の者など、掃いて捨てるほどいるでしょうに」
「ふっ……。謙遜とは、自信家の那岐山侯爵には似合わんな。──そう警戒せずとも良い。俺はただ、貴様ならば俺の胸の内を理解できると思っただけだ」
「……」
甚だ不本意ではあるが、乙彦の言葉は事実だった。その口から発せられた現世への罵倒は、龍守の胸の内で燻っているものと酷似している。
(ここで本当にこの男に付くのも、あるいは正解かもしれぬ)
乙彦が提示した官位にはさほど魅力を感じなかったが、一から新たな国を創るというその提案は、龍守の決意を揺さぶった。
(しかしそうなった時……今の皇族はどうなる。この男がみすみす生かしておくとは思えない)
肉親の情どころか、この男は血縁を憎んでいる。皇太后螺鈿とその子どもたちは殺されるであろう。では庶流である翠蓮皇女や南陽皇子は──。
「俺が翠蓮皇女をどうするか気になるか?」
その名を聞いても、龍守は眉ひとつ動かさなかった。
「ここまで来て隠し立ては無意味だぞ。翠蓮皇女が貴様に何を求めたかはあえて問わんが、あの娘がお前に俺以上の見返りを与えられるとも思えぬ」
そして乙彦は、不意に下卑た笑みを浮かべる。
「それとも、楚々とした見た目に反して夜のほうは良かったのか?」
「……お戯れを。翠蓮皇女とそのような仲ならば、私はとっくに墓の下に入っております」
「ああ、あの娘は毒姫であったな。……実に残念だ。俺はあのように賢しらな女は好かんが、あの美貌と身体なら一度抱いても良いと思っていたのだが」
「……」
龍守はぐっと、指に嵌めた銀の装飾を握りしめる。
「おお、そうだ良いことを思いついた。貴様が捕らえた反逆者ども──あれを翠蓮皇女の寝所に送ってみるか」
「……何を仰るのですか」
「貴様はわざわざ生け捕りにしたが、どのみち名のある者は凌遅刑に、縁者や雑兵は斬首と決まっている。どうせ死ぬなら美女を抱いて死んだほうが良いだろうから、自ら志願する者もいるだろう。──奴らに毒味をさせて死なぬようなら、俺も翠蓮皇女を抱いてみようか。那岐山龍守、望むならば貴様にもその権利を与えよう。下賤の者に犯されてあの可憐な美貌をどう歪ませるのか、考えただけで笑いが止まらぬ──」
「……!」
龍守の中で、揺れ動く天秤が欲望よりも感情を乗せた皿に傾いた。くれぐれも短気を起こすなと諭す隼人や鷹比古の顔がほんの一瞬頭を過ったが、踏み止まらせようとする理性を踏み倒し、龍守の身体は動いていた。
目にも止まらぬ速さで袖口を乙彦に向けると、その瞬間そこから放たれた矢が乙彦に襲いかかった。龍守と乙彦の間はおよそ一丈、この距離で外すはずもない──だが。
「残念だ。悪運は俺に味方したが、貴様は文字通り俺に弓引くか」
「ちっ……!」
矢は乙彦の頬と髪を僅かにかすめ、あえなく床に落ちた。これは奸臣の言葉に僅かでも耳を貸したことへの天罰かもしれなかったが、あいにく龍守は迷信よりも合理を尊ぶたちである。龍守は極めて合理的に、乙彦に殴りかかった。
銀灰色の指輪を嵌めた拳が、今度こそあやまたず乙彦の頬に命中する。鉄製のそれは拳の威力を上げるために予め仕込んでいたもので、失敗した 袖箭と同じく出どころは鷹比古であったが、こちらのほうが龍守には合っていたらしい。
体格に恵まれた乙彦は倒れることこそなかったものの、ほんの刹那足元をふらつかせる。
龍守はあえて追撃することはせず、扉へ向かって走り出した。
「公爵閣下、お話し中に申し訳ございません。何やら音が──」
扉を細く開けて様子を窺う護衛の一人に体当たりを食らわせると、その腰から刀を奪い、脇目も振らず龍守は朝堂を北に向かって駆けて行った。




