前編
誠に残念ながら、ご希望に添いかねることになりましたのであしからずご了承下さいますようお願い申し上げます。
貴殿の採用を見送らせていただくことになった為、ご通知申し上げます。
「ご希望に応えることができず、誠に申し訳ございません……」
一枚増えた不採用通知をつまみ、溜息を吐く。自室の真ん中、テーブルの目の前で、笹川貴文はごろりと転がった。
高校を中退して3ヶ月、貴文は就職難という大きな壁にぶつかっていた。学の無い自分でも出来そうな仕事を探しては、面接、面接、面接。そしてその度に積み重なる嬉しくない方の紙。選り好みをしているつもりは無かったが、これだけ落ちるのであればもう少し考えなくては。不景気の影響もあるかもしれないが、まずは自らの受け答えの仕方やマナーも見直そう。
しかし、今日はもう疲れた。使い切った履歴書は明日買う事にして、休むことにしよう。貴文は絨毯の上から一度起き上がるも、すぐに寝室へ向かう。ベッドに寝転がって布団に収まると、スマホでインターネットの掲示板を覗き始めた。
【旦那の変な癖にそろそろ切れそう】
【会社の上司に理不尽な怒られ方したから仕返ししたい】
【ちょっと異世界行ってくるわ】
【俺にストーカーが出来た話聞く?】
「ん?」
多くの題名が並ぶ中、異世界に行ってくるという掲示板が目を引く。行きたいという話はよく挙がっていたが、本当に行こうとしている人間は余り見ない。居たとしても釣りだと丸分かりなので、人気のある話題では無いのだ。
だが今日の貴文はもう頭が働かない。興味があるものは片っ端から開く。正直下にあったストーカーの方が気になるので、このスレを少し見たらそちらを読むことにしようと頭の隅に思う。
【ネットにあった異世界へ行く方法を試してみる。やり方は簡単。小さい紙にドッペルゲンガーって書いて、手のひらで挟む。そこから指を組んで流れ星みたいに3回「異世界に行きたい」って祈るんだ。そして味は何でも良いからハーブティーを用意して紙を6秒間浸し、取り出してハーブティーを飲み干す。その後立ったまま9秒間目を瞑ると、この世界と異世界の間にある店に辿り着くらしい。そこの店主が異世界に連れて行ってくれるんだ】
何とも胡散臭い話だ。情報元もあやふやだし、掲示板の中にも本気で信じている者は居ないようだった。
だが貴文は、こういったおまじないの類は信じていなくても実行してみたい質だ。このくらいならお手軽に出来るし、どんな形でも良いから兎に角息抜きしたかった。
あれだけ疲れていたのに、確かティーパックがあった筈だとベッドを抜け出し湯を沸かす。ドッペルゲンガーと書いてお祈りし、ティーパックも紙も浸し終わったハーブティーを火傷しないよう慎重に飲み干した。9秒間目を閉じる。
別に異世界へ行きたい訳じゃない。でも、現実から逃げたくはあるのかもしれない。
親に見放され、励まし合える友達も、慈しみ合える恋人もいないこの場所が、貴文にはどうしても息苦しかった。
9秒が過ぎた。ゆるゆると瞼を上げる。
「……え」
気が付けば、貴文は自分の部屋に居なかった。
知らない場所、もっと言えば、知らない屋内だった。
木で出来た壁に、オレンジと黄色が混じった様な光を放つ卵型のライトが其処彼処に取り付けられている。
正面手前にはテーブルが2卓。それぞれに椅子が3脚ずつ収まっており、奥には受付の様なカウンターがあった。
しかし一番に目を引くのは、両脇にある巨大な本棚と、そこに面陳で並ぶ本達だ。現代ではあまり見ないデザイン、そうだ、ゲームや漫画に出てくる魔法書に似ている。
部屋の端には幾つかドライフラワーも飾ってあって、全体的に温かみのある空間だった。
貴文がマジマジと周りを見つめていると、カウンター奥の部屋から声が掛かる。
「あれ、お客さんでしたか。すみません、奥で作業をしていたものだから、気づかなくて」
声変わりしきっていないアルトボイス。中から出てきたのは、薄黄緑の髪を持った少年だった。
「いらっしゃいませ。異世界役職店『ドッペルゲンガー』へようこそ!」
少年はにこりと効果音が付きそうな笑みを浮かべると、近場にあったテーブルの席を引く。
「さあ、こちらへどうぞ」
一見すると中学生くらいの様だが、明らかに日本人ではない。かといって、その顔の造形が何処の国辺りの人間かなどと、海外に興味を持たぬ貴文には分かる筈もなかった。
「どうかしましたか?」
「いや、あの。すみません、間違えました。すぐに帰るんで」
「この店に来る儀式、試したんでしょう。なら間違えてはいませんよ。一先ず混乱しているでしょうから、先ずは座って落ち着いて下さい。今飲み物を用意します」
少年はそのまま一度カウンターの奥に消える。「ハーブティーは今飲んだでしょうから、違う物にしますね」と声が響いた。
年下の子が準備してくれているのにすぐ帰るのは悪いと、貴文に妙な罪悪感が生まれる。少し迷ったものの、結局一度腰を降ろすことにした。
さして時間も掛からず少年が戻ってくる。用意されたのはコーヒーだ。二人で一度口腔内を湿らせた後、少年から話を切り出した。
「自己紹介が遅れました。僕の名前はライド。この店の店主をしています。貴方のお名前は?」
「笹川貴文です」
「ササガワさんですね、宜しくお願いします。さて、先ずはこのお店についてご説明いたします」
「さっき、異世界役職店、とか言っていましたよね。どういうお店なんですか?」
「簡単に言うと、貴方がたの世界の中から異世界転移をしたい方をサポートするお店です。とあるファンタジー世界で何の役職に就くかを話合い、その準備を手伝います。村人から始まり、勇者、賢者、戦士、僧侶といった定番から、森番や溝さらいまで。但し、転生や年齢操作は出来ません。ササガワさんの世界風に噛み砕くと、異世界版のハローワークというのが表現として一番近しいですかねえ」
至極真面目に説明するライドを、貴文は何処か茫洋と見つめていた。
頭が追いつききれていないが、どうやらこれは現実らしい。異世界なんて半信半疑だったが、気付けば謎の空間に居て、浮世離れした少年にお茶まで御馳走になっている。貴文の気持ちは信じる方へ傾き始めていた。
インチキじみた儀式をして、目を開けるとやっぱり何も無くて。敢えて話を盛って掲示板に書き込んだりして。そんな風に続く筈だったのに。このまま自分は異世界に飛ばされるのか?いや、今からでも遅くはない筈だ。訳の分からない事の連続に、すっかり貴文は怖じ気づいていた。
ライドは続ける。
「剣と魔法。誰もが一度は憧れる夢を叶えるお仕事です。世界観に沿ってさえいれば、どんな役職も手配しますよ! さあ、貴方は何になりたいですか?僕とじっくり相談しましょう!」
わくわくが抑えきれないと言った顔でライドが身を乗り出す。そこで貴文は、漸く喉から絞り出した。
「……違うんです。俺、本当は異世界に興味が無いんです。」
「興味が無い?儀式をしたのに?」
「面白半分だったんです。仕事が見つからなくて、疲れてて。息抜きとしてやっただけなので、此処に来たのは手違いなんです」
「へ」
ライドが大きく目を見開く。貴文は当然だろう、と考える。異世界に行きたがって、方法を試す人は、それぞれ覚悟の差はあっても、その人なりに本気で願っている。縋っている。自身のように冷やかし半分な奴は、実は少数派なのかもしれない。
沈黙が落ち、次の瞬間。
「あっはっはっはっは!!」
ライドが腹を抱えて笑っていた。身体を捩じ切らんばかりだ。そんなに可笑しなことを言っただろうか。
「あー、いやいや。良いんですよ暇潰しでも。今は儀式の結果を動画に上げたいとかで、冷やかしは度々現れますから。ただ、貴方が余りにも気まずそうだから驚いちゃって。真面目なんですね。そういうの、素敵だと思います」
笑った癖にと思わなくないが、ライドが何やら考え込み始めたので貴文の意識がそちらへ向く。
「でも、ううん、そうですね。ねえササガワさん」
「はい」
あどけなさを残した口元が、にんまりと弧を描いた。
「そういうことなら、うちで働きませんか?」
再び、沈黙。
突然のことに貴文の頭が追いつかない。今、彼は何と言った?
言葉にせずとも表情が雄弁だったのか、ライドが人差し指を立てながら補足し始める。
「いやね、仕事探しをされているのなら、人手が足りないので一緒に働いて欲しいなって。見ての通りこのお店、僕が一人で運営しているんですよ。儀式の認知度が少し上がって、お客さんが増えてきてくれるのは嬉しいんですけど、段々回せなくなってきちゃって。給料もちゃんと貴方の世界のお金にするので、どうですか?」
「どうって……でも俺、異世界に興味無いし」
「ありますよ」
ライドは席を立ち、一歩こちらに近付く。両手を後ろに回して、青年の目を覗き込んだ。
「自分で気付いていないだけです。本当の本当に興味が無ければ、わざわざあんな儀式しないんですよ。いくら冷やかし目的でもね。先ほど儀式の結果を動画に上げたくて来る人もいるって言いましたよね。こちらとしては本来、余り歓迎出来ない意図です。でもねササガワさん。このドッペルゲンガーに入って、自身の世界に戻った人っていないんですよ」
あどけなさの残る瞳が、キラリと光ったような気がした。店主の口角がにんまりと上がる。
「どんな目的でご来店頂くとしても、皆何処かで期待しているんです。『もしかしたら本当に非日常に行けるかもしれない』って」
貴文から離れたライドは、大仰に両腕を広げてみせる。まるでサーカスのクラウンのように。その姿は無邪気で、しかし貴文に何処か畏怖の念を抱かせた。そして腕の振りに負けないくらい、大きく口が開かれる。
「ええ、行けますよ、叶いますよ!僕に掛かればあっという間に! ササガワさん。お店の従業員、なんてどんな世界にも転がっている仕事ですし、貴方もアルバイトとかで経験あるかもしれないですけど。次元の狭間にあるお店で働くのは初めてでしょう?」
右手が貴文に差し伸べられる。
「貴方も僕と一緒に、誰かが特別になるのを後押ししてみませんか?」
一拍、二拍と静寂が訪れる。目を見開いたままの貴文が作った沈黙だった。
これが立派に社会で働く大人なら、もっと物事を現実的に考えられたんだろう。こんな非日常はありえない、と。でも貴文はまだ大人になりきれなくて、かといって子どものままでも居られない年頃で。
だからなのだろうか。この高揚感に勝てないのは。
異世界に行きたい訳じゃない。でも、ほんの少しだけ、特別になってみたかった。
店主が笑みを深める。
「嬉しいです。これから、よろしくお願いしますね」
青年は吸い寄せられるように、誘いの手を取っていた。




