異世界返品カウンターは本日も大盛況
『事実と感情、どっちからいきます?』
それが神崎ミオ、二十八歳の口癖であり、五年間の社畜 CS人生で培った唯一の武器だった。深夜残業の帰り道、コンビニの自動ドアが開いたと思ったら、そこは石造りの薄暗いカウンターの内側だった。召喚事故らしい。地球には、もう戻れない。
『新人!ぼさっとしない!クグレムがまた書類食ってる!』
甲高い声に視線を向ければ、インク瓶の隣で小悪魔が羊皮紙をムシャムシャと食べていた。
『はい、あなた新人さんね!わたしポリ!よろしく!はい、採用印!』
妖精ポリが、自分の身長ほどもある巨大なスタンプを『押しますね?』という掛け声とともに振り下ろす。ドンッ!と地響きを立ててミオの足元に押されたのは、『採用』の二文字だった。
こうしてミオの異世界ライフは、王都商業ギルド管轄『勇者用品・返品窓口』の担当者として幕を開けた。初日の業務は、開始五分で地獄を見た。
『このマント、欠陥品だ!返品だ、金返せ!』
カウンターを叩くのは、いかにもな勇者。しかしそのマントは、もはや暖簾だ。
『お客様、まずは落ち着いて。事実と感情、どちらからいきましょうか?』
ミオは冷静に切り出した。
『は?……じ、事実だ!縫製が甘すぎる!』
『承知いたしました。事実:縫製不良。次に感情をお願いします』
『さ、寒い!あと、みっともなくて恥ずかしい!仲間にも笑われた!』
『感情:寒くて心細い、そして恥ずかしい。以上でよろしいですね?』
ミオは淀みなくメモを取り、勇者の怒りを急速にしぼませた。
ミオは一呼吸置いた。椅子のきしむ音が、静かになった空間に響く。(交換だけでは、彼の『恥ずかしかった』という感情は清算されない。プラスアルファのケアが必要だ)。
『では、代替案です』とミオは顔を上げた。『同型のマントと交換の上、お詫びとして『北国仕様の防寒糸』で首周りの補強を無償で行いますが、いかがでしょうか?』
完璧な提案だった。勇者は満足げに新しいマントを羽織って帰っていった。
一連の流れを、柱の影から見つめる影があった。
この国の主、魔王レオンである。彼はミオの鮮やかな手腕に内心で舌を巻いていた。しかし、感心と同時に、キリリ、と胃に鋭い痛みが走る。彼はそっと腹を押さえ、誰にも気づかれぬよう席を外した。
ミオはふと、壁に掲げられた『返品不可』の不可視掲示に気づく。
(読めない掲示……?これは、掲示していると言えるのだろうか?)
ミオの中に、CS担当者としての職業病が頭をもたげる。
その時、目の前に、そっと湯気の立つ湯飲みが置かれた。レオンだった。
『素晴らしい対応だった。温かいお茶を』
『あ、どうも……』
彼が魔法で温め直してくれたらしい。そのさりげない気遣いに、ミオの心が少しだけ和らぐ。距離が、1cm縮まった気がした。
『ところで』とミオは額縁を指さした。『あの“不可視掲示”は、違反ではないのですか?』
その言葉を聞いた瞬間、レオンの紫色の瞳が、探していた答えを見つけたかのように、強く光を宿した。
『――その問いを、ずっと待っていた』
* * *
『“不可視掲示”は、掲示のコスプレです』
翌日、執務室でミオは断言した。『形だけ真似て、本質的な役割を果たしていない』
『なるほど。“着衣義務”違反か』
レオンが納得したように頷くと、ポリが巨大なスタンプ台を準備し始めた。
『では“遵法義務”として――押しますね?』
『まだ押さなくていい!』
その時、カウンターから怒声が響いた。聖剣が壊れた勇者アーサだ。
『一回ドラゴンと打ち合っただけでこれだぞ!俺の命が消耗するところだったわ!』
レオンは眉間の皺を深くした。『王としては介入できない。だが……君の助言役としてなら、ここにいる』
それは、事実上のコンビ結成宣言だった。
ミオはアーサにいつもの質問を投げかけ、問題を切り分ける。そして、ギルドへの公開協議をレオンに提案した。
『読めない掲示による周知は、消費者の合意形成を阻害する。この一点で申し立てます』
ミオが申し立ての趣意書を書き上げると、ポリが『押しますね?』と【既読】印を押した。インクが染みた部分だけ、文面がくっきりと浮かび上がる。
その夜、ミオとレオンは新しい制度の設計に取り掛かった。
『日本のクーリングオフ制度を参考にしましょう。この世界の暦、八日月にちなんで、八夜の冷却期間を設けるのです』
こうして、新しい魔法『冷却印』の呪式が生まれた。
『重要なのは、読み上げ義務です』とミオは付け加えた。『契約時、商人はこの効力を必ず声に出して読み上げなければならない。もし怠れば……』
『印が知らせる、というのはどうだろう』とレオンが応じた。『読み上げられた言葉の音声を記録し、もしそのプロセスがなければ、印自体が小さく警告音を鳴らすんだ』
『ピッ、と?』
『そう、ピッ、と』
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。夜空には、美しい八日月が浮かんでいた。
* * *
王城の大広間は、静かな熱気に満ちていた。公開協議の相手は、ギルド長バロットだ。
ミオは壇上に立つ前、一瞬だけ目を閉じた。脳裏に、CS時代の苦い記憶が蘇る。(過剰な敬語とマニュアル通りの対応で、お客様の怒りを爆発させてしまったあの日。私の過ちが、炎上を招いた……)。目を開けたミオの瞳には、静かな決意が宿っていた。
バロットが口を開く。『伝統ある“返品不可”は、無用な混乱を避けるための先人の知恵だ!』
ミオは静かに反論した。
『異議があります。この問題は三つの階層で整理できます』
彼女は指を一本ずつ折りながら、会場に語りかけた。
『技術:読めず。法理:同意せず。運用:責任果たさず。』
リズミカルな三連撃に、バロットはぐうの音も出ない。
するとバロットは、表情を変えて同情を誘うように言った。
『しかし、無条件の返品を認めれば、我々のような小規模な商人は一瞬で潰れてしまう!これは弱者を守るための苦肉の策だったのだ!』
一見、正論に聞こえる。会場がざわついた。
ミオは待ってましたとばかりに、さらに一歩踏み込む。
『だからこそ、新しい制度にはギルドによる補助基金の設立を盛り込みます。消費者の権利と、誠実な小規模事業者の経営、その両方を守るのです。守るべき相手を広げることこそ、真の解決策です』
完璧なカウンターに、バロットは顔を歪めた。
追い詰められたバロットが、不気味に笑う。
『無駄だ。その術式を最初に考案したのは――そこにいる若き日のレオン陛下、ご本人なのだからな!』
広間が静まり返る。レオンは顔面蒼白になり、俯いた。ミオの心に、冷たい衝撃が走った。
* * *
夜の執務室は、重い沈黙に支配されていた。
『……すまない』
レオンがか細い声で、自らの過ちを告白した。若き日の善意が、時を経て悪用される道具と化したこと。自分の過ちを認めるのが怖かったこと。
ミオは黙って話を聞いていた。怒りはない。
『レオン様。CSの世界には、『過ちの所有』という考え方があります』
彼女は静かに語り始めた。『起きたミスは、まず組織の“所有物”として認識する。過去は変えられませんが、責任の取り方は今から設計できます。あなたの過ちを、正しい手順で“返金”しましょう』
その言葉は、レオンにとって救いだった。
『明日、この改革案を王の名で布告する』レオンは決意を固めた。彼の脳裏には、議会の猛反発や支持率の急落、最悪の場合、退位勧告というリスクがよぎる。だが、もう迷いはなかった。
ミオは、彼の覚悟を感じ取り、そっと席を立って胃に優しい香草茶を淹れた。
『どうぞ。決算前は、こういうので乗り切るんです』
『ありがとう……』
レオンが受け取ったカップから、優しい湯気が立ち上る。二人の距離が、また0.5cm縮まった。
* * *
翌朝、王都に新しい時代の幕開けを告げる布告が貼り出された。
街角では、さっそく『冷却印』を使った契約が行われている。役人が契約書の読み上げを一部飛ばした瞬間、印が『ピッ』と鋭く鳴り、目の前の魔法陣が霧散した。ルールが“生き物”として機能している光景に、市民たちはどよめいた。
もちろん、バロットが黙って見ているはずがなかった。
『この“凍結印”を押せば、冷却期間を一時停止できるのです!』
彼は偽の印を手に、最後の妨害工作を仕掛けていた。
現場に駆けつけたミオは、その偽スタンプを手に取ると、まず光にかざした。
『……光の反射が鈍い』
次に、指先で印面をそっとなぞる。プロの指先が、微細な違和感を捉えた。
『……エッジの感触が甘い。それに』
ミオは印を耳元に近づけ、軽く振った。何も聞こえない。
『本物の冷却印なら、未契約状態では内部の記録機構が微かな待機音を発します。これは偽物です。王家の紋章の彫りが0.1ミリ浅い』
光、触感、そして音。専門家の検証に、バロットは崩れ落ちた。
すべてが終わり、夕暮れの執務室で、レオンはミオにまっすぐ向き直った。
『ミオさん。あなたがいれば、この国の国庫も、僕の心も、黒字です。どうか、これからも僕の隣で……』
キザなセリフ。だが、彼の誠実な瞳が、それが本心だと物語っていた。
ミオは、ふっと微笑んだ。いつもの、あの落ち着いた笑顔で。
『承知いたしました。では、ご提案の件、三段階で承認します』
彼女はレオンの目を見て、はっきりと告げた。
『事実:あなたは誠実です。感情:一緒にいると、心が軽くなります。ご提案:これからは定時で、あなたの隣へ。』
そう言って、彼女はレオンが差し出した手を取った。距離は、ゼロになった。
レオンは机の上の香草茶に目をやり、『もう、このお茶も必要ないかもしれないな』と笑った。
『予防ですよ、予防』とミオも笑い返す。
そこへ、ポリが記念スタンプを手に現れた。
『お二人とも、ご成婚おめでとうございます!記念に『受理』印を――押しますね?』
巨大なスタンプが振り上げられる。しかし、それは空中でぴたりと止まった。
『……ううん』ポリはスタンプを下ろすと、にっこり笑った。『今日は押しません。だって、一番大事な気持ちは、もうちゃんと“返せました”から』
がらんとした返品カウンター。壁の掲示板には、【本日の案件:0件】の羊皮紙。カウンターの隅で、ミオは一枚のカードを手にしていた。それは、マントの勇者から届いたものだった。『あの時、恥ずかしかった気持ちを救ってくれてありがとう』と書かれている。
カウンターの上には、二つのカップが寄り添うように置かれている。
湯気が、静かに重なった。