白い嘘
白い嘘
その日、俺は彼女の病室で、いつものように穏やかな顔で眠る君を見ていた。白いシーツに埋もれる小さな体。点滴のチューブだけが、かろうじて君とこの世界を繋いでいる証だった。
「ねえ、覚えてる?あの夏祭り、君が金魚すくい、全然できなくてさ。結局、俺が全部すくってあげたんだよな」
独り言のように話しかける俺の声は、掠れて震えていた。君の返事がないのは、もう慣れてしまったことだったけれど、それでも胸の奥が軋むような痛みに襲われる。
君の病気が分かったのは、去年の春だった。最初はただの風邪だと思っていた。熱が下がらず、倦怠感が続く日々。検査の結果を聞かされたあの日、医者の口から出た病名は、俺の頭を真っ白にした。
「残念ながら、手の施しようがありません」
そう告げられた時、俺はただ、君の手を握りしめることしかできなかった。君は俺の顔を見て、いつも通りの笑顔で言ったんだ。「大丈夫だよ、私、頑張るから」。その笑顔が、どれほど俺の心を切り裂いたか、君は知らなかっただろう。
それから、君の闘病生活が始まった。抗がん剤治療の副作用で、吐き気や倦怠感に襲われ肌は荒れた。それでも君は、俺の前では決して弱音を吐かなかった。いつも明るく振る舞い、俺を励ますように笑った。
俺は、君に嘘をつき続けた。
「今日は調子よさそうだね!この調子なら、またすぐに一緒に出かけられるよ」
「治療、きっと効いてるよ。君は強いから」
本当は、君の病状が悪化していることを知っていた。日に日に弱っていく君の姿を見るのが、何よりも辛かった。それでも俺は、君に希望を与え続けたかった。君の笑顔を、少しでも長く見たかった。
ある日、君が小さな声で呟いた。
「ねえ、私、本当に治るのかな」
その言葉に、俺は一瞬息をのんだ。悟られたかと思った。けれど、俺はすぐに笑顔を取り繕い、君の頭を優しく撫でた。
「当たり前だろ。俺と、また旅行に行くんだろ?美味しいもの、たくさん食べに行こうな」
君は安心したように目を閉じ、小さな寝息を立て始めた。その寝顔を見ながら、俺は静かに泣いた。枕が、濡れていくのも構わずに。
そして、季節は巡り、また夏が来た。蝉の声が騒がしく鳴り響く、ある日。
君は、眠るように息を引き取った。
「…治るよ。治るんだ」
俺は、冷たくなった君の手を握りしめ、何度も何度も呟いた。君に聞こえるはずもないのに。あれほど吐き続けた白い嘘が、今、俺自身の心を蝕んでいた。君のいない世界で、俺は、どうやって生きていけばいいんだろう。
病室の窓から差し込む夏の光が、ひどく眩しかった。