サジタリウス未来商会と「選ばれた役割」
和泉夏希という女性がいた。
30代前半、フリーランスの翻訳者として働いている。
周囲からは自由な生き方を羨まれることも多かったが、本人は心の底に空虚さを抱えていた。
「自由って聞こえはいいけど、どこにも属さず、ただ流されるように生きるって、本当に意味があるのかな……」
子どもの頃から優等生として周囲の期待に応え続けてきた夏希だったが、大人になるにつれて「自分が何のために生きているのか」が分からなくなっていた。
どんな仕事をしても心から満足できず、何かを求めて模索する日々が続いていた。
そんなある夜、夏希は帰り道で奇妙な屋台を見つけた。
それは、路地裏の暗がりにぽつんと佇む屋台だった。
古びた看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
興味を引かれた夏希は、吸い寄せられるように屋台に近づいた。
屋台の奥には、白髪交じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は、夏希を見てにやりと微笑んだ。
「ようこそ、サジタリウス未来商会へ。今日はどんな未来をお求めですか?」
「私の未来?」
「ええ。あなたが悩んでいるのは、『自分の役割』についてではありませんか?」
夏希は驚いた表情を浮かべた。
「なぜそんなことを……」
「私には、訪れたお客様が求めているものが分かるのです」
男――ドクトル・サジタリウスは、懐から奇妙な装置を取り出した。
それは、円形の透明なディスクのような形状をしており、中央に光る小さな球体が浮かんでいた。
「これは『役割羅針盤』です」
「役割羅針盤?」
「はい。この装置を使えば、あなたがこの世界で果たすべき役割を見つけることができます。あなたの本来の使命がどこにあるのか、正確に示してくれるのです」
夏希は興味を引かれた。
「本当にそんなことが分かるの?」
「もちろん。ただし、知る覚悟が必要です。この羅針盤が示すのは、あなたが望むものではなく、あなたに最適な役割だからです」
「覚悟……」
夏希は少し戸惑ったが、答えを出した。
「それでも知りたい。自分の役割が分かるなら、何かが変わるかもしれない」
サジタリウスが装置を操作すると、羅針盤の球体が淡い光を放ちながら回転し始めた。
「あなたの役割を読み取る準備が整いました。手をかざしてください」
夏希が手を伸ばすと、羅針盤が明るく輝き、球体に文字が浮かび上がった。
そこに示された言葉は、こうだった。
「導く者」
「導く者……?」
夏希は眉をひそめた。
「どういう意味なの?」
サジタリウスは静かに答えた。
「あなたの役割は、誰かを導くこと。あなた自身が成し遂げるというより、他者を支え、道を示すことで、その人たちの未来を作ることがあなたの使命です」
「でも、私はただの翻訳者よ。誰かを導くなんて大それたこと、できるはずがないわ」
「役割はすでに決まっています。あなたが気づいていないだけで、あなたの周囲にはあなたを必要とする人々がいるのです」
夏希は困惑しながらも、羅針盤を手に屋台を後にした。
翌日、夏希は早速羅針盤を試してみることにした。
職場で後輩の相談に乗ったとき、羅針盤を手にしてみると、球体が優しく輝いた。
「これが……私の役割?」
その後も、家族や友人の話を聞いてアドバイスをしたり、SNSで偶然知り合った人の悩みに答えたりするたびに、羅針盤は輝きを放った。
それは夏希にとって、これまで気づかなかった新しい側面だった。
だが、ある日、羅針盤が奇妙な反応を示し始めた。
光が揺らぎ、まるで混乱しているようだったのだ。
「どうして……?」
その時、夏希は気づいた。
自分の役割を示すことに囚われすぎて、人と接すること自体が義務のように感じ始めていたのだ。
「これじゃ、ただの自己満足じゃない……」
夏希は深く息をつき、羅針盤を静かにしまった。
その日の夜、夏希はふと考えた。
「私は誰かを助けたり導いたりするのが役割だとしても、それは無理にやることじゃない。自然とそうなる時がきっと来るんだ」
彼女は羅針盤を見つめ、そっと呟いた。
「大事なのは、役割を知ることじゃなく、その時その時で自分にできることをやることなんだな」
サジタリウスは遠く離れた路地で、新たな客を待ちながら、どこか満足げに微笑んでいた。
【完】